自分が何をしたいのか(シン・ウルトラマン)

(注 シン・ウルトラマンについてのネタバレを含みます。)

好きな人について、完璧に言語化して他者に伝えることは難しい。

とてもきれいだ。声が素敵だ。横顔が儚い。睫毛が長い。

自分が相手に対して抱いている認識は全て主観に基づくものであり、どのように言葉を尽くしたとしても、他者が必ずしも自分の意見に同意するとは限らない。仮に主観を排し数値として表し、それが全世界共通の美しさ、正しさの数値と合致したとしても、誰かにとってはそれが美しくも正しくもない事だって有り得る筈だ。

だが、言葉を、表現の限りを尽くして、これが自分にとっての美なのだと、自分はこれが好きなのだと示す──示そうと試みることはできる。それがシン・ウルトラマンなのだと思う。

かつて、庵野秀明はウルトラマンを評して「完璧だ」と述べた。その完璧であるものを、己の手で令和の世に現出するにあたって、どれほどの困難を覚えただろう。

創作者が行き当たる大きな壁のひとつに、「自身が思い描く理想像と自身の表現力とのギャップ」があると思う。それを感じてしまった時に、どう対処するか。何かを世に出す時、それをどこまで許し、あるいはどの時点で諦めて是とするのか、決めることも苦悩のうちだろう。

ウルトラマンシリーズにはオリジナルがあり、その元祖からのコアなファン達が居る。また、庵野秀明には既に自身が生み出してきたエヴァンゲリオンシリーズ、シン・ゴジラがあり、それらの作品の熱狂的な支持者、ファン達が存在する。

シン・ウルトラマンを世に出す際、そうしたファン達の、「かつての作品を初めて見た時に自身が覚えた感動、その時に見たもののインパクト」と戦わねばならない──戦わないにしろ、ファン達のそういった視点を廃することは出来ない。それは庵野秀明自身が一番良く理解していると思う。

それでも。


どのように評価されようが、どのように貶められようが、やりたいことをやりたいようにやる。それが許される位置に居るのなら、あとは自分自身が腹を括り、己に持てる力を総動員して実行に移すだけだ。

間違えてはいけないのだ。

判断を、赦しを、他者におもねるべきではないということを、忘れてはならないのだ。

評価は、それが好きな誰かに任そう。
語るのも、それが得意な誰かに任そう。

忘れてはならないこと、それは

『自分が何をしたいのか』

ただそれだけだ。



ウルトラマンとなった神永は、ブレずにそこに在った。やるべきことを間違えなかった。

山中で、神永の死体?を見つめているリピア。彼はその時、自分が此処に居るという事、その意義を、意味を考え、同時に、神永が為そうとした事の意味を理解しようとし続けているように思う。

神永は、世界を、人類を守ろうだとか、そんなことは多分、徹頭徹尾考えもしなかっただろう。神永はただ、一人の子供が危険だった、だから、それを知った自分が助けに行った。己の死も顧みずに。ただ自然に、そうするのが当然のことだと思ったその時に、そう動くことが出来る人間だった。そのことが、リピアを揺さぶった。そして神永/リピアは結果としてウルトラマンになった。

そうして自分を変えてくれた、自分自身を発見させてくれた世界。自分を自分たらしめる存在を、世界を、守ることが、自分を守ることでもある。何にも壊させない。その思いを自身が肯定する、肯定を体現し続けることが、自分のしたいことだと──それが、ウルトラマンの、庵野秀明の思いなのではないか。

それは何故なのか。どうしてそこまでするのか。

「好きになったから」。ただそれだけのこと、それが全てなのだと。

自分が好きなものを極めようとする。自分が好きなものを調べ、学ぼうとする。真似て、そうあろうとする。神永になったリピアが、文献から人間を知ろうとしていったように。途中、その真似る中で、どこに己の意志が?オリジナリティが?と、人間であれば揺らぐこともあるだろう、だが、ウルトラマンは揺らがない。それが庵野秀明にとってのウルトラマン、理想の姿なのだろうと思う。

エヴァンゲリオンにおいて、弱さを、苦しみを描いてきた庵野秀明が、強さとは何かを積極的に表現しようとした、それがシン・ウルトラマンなのではないだろうか。

自分が好きなもの、守りたいものを知っていれば、そのために自分がすべきこと、自分がしたいことが分かるはずだ。

彼が自分を、そのように肯定出来るようになったことを喜ばしく思う。

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