#40 俯瞰するわたし?|思考の練習帖
物事を俯瞰的にとらえる立場を中立としたとき、その中立は必ず「力のある側」「強い側」に与してしまうのではないか。--
その問いかけに、わたしはドキッとした。
信田さよ子・上間陽子の『言葉を失ったあとで』を読んだ。
読みながら付箋まみれにしたこの本を、 #思考の練習帖 でもっと掘り下げて考えてみたい。今日は、中立性について。
中立が見えなくするもの
中立って、今までずーっと良きものだと信じてきた。中立であることは公平であることで、正しいことであると。たぶん、わたしに限らず世の中の多くの人がそうだと思う。だから、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
暴力、とくに性暴力の問題を扱うとき、訴え出た被害者の方が世間からバッシングを受けることがほんとうに多い。加害者がいるから被害が生じているのに、被害者側の責任を問う声が後を絶たない。
「行動にふさわしい結果が、その人に降りかかる」という考え方を公正世界仮説という。
世界は公正である、という前提に立って俯瞰して世界を眺めれば、暴力を振るう人と振るわれる人には各々、その必然性があったと言えてしまうのだ。
しかし、世界は公正ではない。
明日自分が暴力に巻き込まれるかもしれない。巻き込まれた事柄すべてに必然性があるわけでは決してないし、自分に降りかかったあらゆる災難の責任が自分にあるわけでもないのだ。
中立は、言葉を奪う。
強者の特権
以下は、先ほどの引用の続き。
これは、わたしも身に覚えがあることだ。カウンセリングではなくて生活場面でのケアがわたしの仕事だが、複雑な生い立ちをもって施設で生活している子どもたちと接するなかで、同じように「ちょっとオーバーに言い過ぎなんじゃない?」「被害的な捉え方だなー」って感じてしまう瞬間が多々ある。その子ども自身の認知の課題だと決めてかかっていることがある。
そのときわたしは、わたしの基準で中立を決めてしまっていたのだ。
「そんなことがあるはずない」ような公正な世界だけを見て、その子の体験世界を無視している。わたしの見たい世界だけを信じて、不都合な現実から目を背けている。
わたしの見たい世界だけを見て平穏に生きていられるのは、わたしが強者としてこの世界にいるからだ。わたしに見えない苦しみが「存在しない」と決めつけても矛盾を感じずにいられるのは、強者の特権だからだ。
なにが中立で、なにが普通か。
なにが存在して、なにが正しいのか。
それらを決められるのは、「強い側」の人たちだけだ。
そうでない人たちは、言葉を奪われている。
ほんとうは、中立も普通も絶対的な正しさも、この世界に存在しないのに。
最後に、印象的だった文章を(別の文脈だけど)引用する。
今日は、ここまで。
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