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戦友は、地味なクローゼット

この1年で買った服は、白か黒か、その間のどれか(それと、緑が少し)。黒い上着を着込んだら、全身すっぽり黒に包まれているなんてこともザラだ。

華やかな柄とか、ゆるふわな雰囲気とか、そういうものを極力排除してシンプルに装うことが心地よかった。同じ型のスキニーを色違いで買い揃えて、毎日似たような格好をした。デニムはめっきり履かなくなった(たぶん、青だからだろう)。ついでに髪も短くなった。

身につけるものの趣味が、時とともに変化するのを感じる。それはきっと、気持ちの変化に引きずられている。自分をどう見せたいか、あるいはどういう自分で戦いたいか。その表れなんだろう。

モノトーンに固執するわたしは、まるで弱みを握られまいと睨みをきかせているようだ。何と戦っているのかはわからないけれど、それは自分自身かもしれないけれど、負けたくなくって歯を食いしばっている。
かわいらしさとか、やわらかさとか、そういう女性性の象徴みたいなものを遠ざけて、代わりに見せかけの強さを得ようとしている。見せかけの強さは、相手への威嚇だ。

女性性を遠ざけたいという意志は、男性性に近づきたいという意志とはイコールではない。女らしさを否定した後、男らしさをも否定するのだ。世界を女と男に二分する、そういう考え方そのものをきっと、まるごと否定したいのだ。

「女だから…」と、自分でも気づかないうちに自分を縛っていることに気づく。その度に、いちばん最初に「女はこう」「男はこう」と語ったかもしれない誰かを恨み、それを脈々と受け継いで再生産してきた大勢の人々を恨み、そしてそこに間違いなく自分も含まれるのだと観念して自己嫌悪する。

だから、身に纏うものから女性性を排除しようと試みるのは、その悔しさを忘れないための印なのかもしれない。また過ちをおかさないための、お守り。

遠からず、誰も女らしさや男らしさを求めなくなったとき。
あるいはわたしがこの戦いから降りたとき(それは望みたくないけれど)。
わたしはもっと自由に着飾るのかもしれない。

そんなふうに僻んでみせる一方で、でもこの不自由な装いにこそ、たしかなわたしらしさがあるのだとも思う。

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