わたし、を語るということ
わたし、という極めて曖昧な概念を捉えるには、これまでにわたしが体験してきた無数の出来事を整理し、語り直す作業がともなう。
わたしのルーツを探り、受け入れ、語ること。わたしの過去の行動と、動機と、感情を、思い起こして繋ぐこと。
わたしのすべてをわたしが知り尽くしていると思ったら、大間違いだ。
幼児期健忘といって、人間は基本的に3歳ごろまでの記憶をなくしてしまうし、生きているなかで見聞きしてきたもの全てを漏れなく記憶していたら頭がパンクしてしまう。人間は、忘れる生き物なのである。
でもぜんぶを忘れるわけでもない。
強烈な感情をともなう出来事、なんだか引っかかる出来事、繰り返し思い起こす出来事…。忘れられないものがあるから、わたしたちは過去を認識できている。
事実とは異なる記憶もある。誤った情報を受け取ったためかもしれないし、都合よく改竄してしまったのかもしれない。いずれにしても、記憶を司るのは理性ではなく本能だ。
その記憶を、意図的に整理すること。情報を収集し、事実関係を確認し、ひとつながりの物語として編纂すること。わたしの生い立ちを、客観的にとらえること。
それはライフストーリーワークとして、複雑な生い立ちを抱えた子どもたちが、自身を知り、受け入れ、前を向いて生きていくための支援に用いられているものである。
↓ こんなふうに
とは言うものの、もしかしたらこれは、誰しもが必要としている作業なのではないかと、はたと思い至ったのが今日だ。
昨晩、2463字の「泣き虫の泣き言」を書き終えて、なんだかすごくスッキリした気持ちになった。何度も自分が書いた文章を読み返して、心に染み込ませた。そして、「そうなんだ、これがわたしなんだ」と納得した。納得して、さあ寝ようかと思ったが、目が冴えてちっとも眠れなかった。
高揚していたのだ。
長きにわたって悩まされていたへっぽこ泣き虫のわたしを、ついに語ることができた。語れるということは、大きな力になる。制御不能だった泣き虫という特性を、「ちょっとこういうところもあるんだけど、まあでも、わたしはわたしよね」と丸め込めたような。語ることで、漠然とした大きな不安だったそれは、すごすごとわたしの支配下に収まるわけだ。
だから、みんなにお勧めしたい。
わたし、を語ろうよ。
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