だれもわるくない、不幸なスパイラル
子どもたちの生活の場で仕事をするようになって、五年が過ぎた。
転職する前は散々悩んだけれど、なんだかんだこの仕事が結構気に入っている。宿直という名の下に最低賃金を大幅に割る時給で働いていたり、辞めていく人たちの多さに子どもと一緒に心を痛めたり、いろいろアナログすぎて引いたりする黒寄りのグレーな職場だと思うけれど。
それでもわたしは、この体が許す限り、できるだけ長くここで働いていたいと思っている(体力的な限界が一番先に来るという確信がある)。
この愛すべき仕事人生の舞台は生活だから、淡々とした日常の繰り返しに見える。それなのに、振り返るといつになっても思い出し笑いが漏れてしまうようなおかしなエピソードも、葬り去りたいほどの黒歴史もたしかにある。日常っていうのは実に不思議なものなのだ。
なかでもキツめの思い出といえば、子どもとの関わりで答えを見つけられなかったとき。
唯一絶対の答えなんてどこにもないけれど、それでも自分なりの「これだろう」という答えを見つけて、一瞬一瞬を掻き分けて進んでいく仕事だ。それと同じ一瞬はないから、そのときに考えられるベストを選ぶ。後で「やっぱり違ったな」と落ち込むことも、「こうしたらよかったかも」と気付けることもあるし、間違えることが悪いことではない。
完璧な人間関係なんてありえないのだから、大人も子どもと一緒にたくさん間違えて失敗しながら進んでいけばいいのだ。
だけど、どんなに試行錯誤しても一向に光が差し込まないこともある。
何をやっても地雷を踏む。別ルートで毎度バッドエンドにたどり着く。もうそうなったら、憂鬱でしかない。
その子とわたしの関係性が徹底的に悪化していて、にっちもさっちもいかなくなっている。
そういうときほどどんどん悪い方に視野が狭まっていくし、置かれた状況を客観視することも難しくなってしまう。誰かに助言をもらおうにも、なんだか愚痴っぽくなってしまうようで躊躇われたり、助言を深読みして勝手に傷ついたり。
今振り返ってみると、あの頃のわたしはほんとうに「余裕がなかった」の一言に尽きる。
また同じトラップに嵌らないように、今のうちに対策をしておこう…。
わたしのバイブル、『生活の中の治療−子どもと暮らすチャイルド・ケアワーカーのために』では、子どもとの人間関係の形成において、子どもの対人反応傾向に留意した関わりが必要であると指摘している。
施設で暮らす子どもたちの多くは、生い立ちのなかでたくさんの傷つきをもっている。それは、身近な(本来守ってくれるはずの)大人たちから傷つけられたものだ。その当然の帰結として、子どもたちは大人に対する不信感を胸に抱えている。
大人を信頼したら酷いめに遭う。大人を頼ってもどうにもならない。体中に刷り込まれたその感覚は不信感であり、同時にとてつもない無力感でもあると思う。大きな未来が開けているはずの子どもたちが何も信じられないだなんて、どれほど苦しいことだろうか。
大きな不信感を抱えて生きていくには、丸腰だと心許ない。生きていくための戦略が必要なのだ。子どもたちの戦略は、
① 引きこもり(関わりを避ける)
② 武装解除(相手の弱みを握って自分が優位に立つ)
③ 攻撃(大人が信用に足らない存在であることの証拠をつかむために)。
関わらなければ再び裏切られる心配がないし、脅威な相手の弱みを掴んでしまえば脅威ではなくなる。やさしい顔で近づいてくる人がいるならば、その化けの皮を剥いでしまえばいい。
それは悲しいほどに合理的な、彼らの生きる術なのだ。
それを理解した上で、うっかり飲み込まれないようにしないといけない。わたしたちは、もう一度彼らに「信じていいんだ」と思える安心感を渡してあげたい。「ほらね、やっぱり大人は信じられない」を強化してしまっては元も子もないのだ。
不信感が無関心あるいは攻撃的な戦略を生み、それを向けられた大人はごく自然な反応として怒りや戸惑いを表出する。それが「ほらね…」の不信感をさらに強める……。
これは、とても不幸なスパイラル。だれもわるくないのに、お互いに傷つけあってしまう。
わたしはプロとして、そこに掬い取られてしまわないように子どもの行動のサインを見つけよう。それは言葉で言うほど易しいものではないけれど、決して忘れないようにしよう。