仕事の棚卸しをしたら、泣きそうになった
年度末である。
年度末といえば評価。…これ、去年も同じこと言ってるな。
わたしの仕事場は子どもたちの生活の場だが、ただ漫然と日々を送るわけじゃない。個別の支援計画に基づいて、意図的な関わりをすることがミソ。だからその手応えを振り返って、次年度の計画に盛り込んでいくのだ。
ちなみにその支援計画というのは、発達課題に照らしながら組み立てている。
子どもは今まさに発達のさなかにある存在。いまどこにいるのか、現在地を確認して、それを起点に目標を決めるのだ。だってそうじゃなきゃ、6歳児にアイデンティティの確立を求めるようなヘンテコな支援になってしまう。
過去のnote記事を読み返していたら、エリクソンの発達段階についてまとめたものを見つけた。
これを読み返して、めちゃくちゃ耳が痛かった。
自律性の獲得を目標に掲げていた中学生の支援計画で、つい先日「自律性を育めた感じしないんだよなあ」と同僚に愚痴ってしまったのだけど。自律性は「信じて待つ」ことだと、当時のわたしは書いている。信じて待つ、全然できてないやん〜!!
つい口を出しちゃう。
できていないことに目が行ってしまう。
「またなの?」ってイラッとしちゃう。
人間だもの、しかたないことだけど。
だけど子どもの課題に単純に振り回されているだけじゃ、「意図的な関わり」ができたとはとても言えない。
一歩下がって状況を俯瞰して、適切なアプローチを見極めてこその仕事である。
そうだ、まずはできたことだけを見てみよう。
課題がたくさんあるのは日々の生活でひしひしと感じている。そればかり見ていると、この1年間にまるで何の実りもなかったかのように思ってしまう。だけど見逃しているだけで、ほんの小さな変化の積み重ねで、子どもはちゃんと成長している。大人ならまだしも、相手は成長の塊の子どもである。同じ場所に留まっているはずがない。
たとえば、そうだな。
前ほど泣かなくなった。泣いて主張を通す代わりに、言葉を使えるようになった。これはコミュニケーションの成長だし、関係性の成熟だ。
家族への理解が進んだ。今までどこかフワッとしたファンタジーのなかで生きてきたのが、現実を知る作業を通して少し地に足がついてきた感じがする。
決して楽しいばかりの作業ではなかったはずだし、むしろ耳を塞ぎたくなるような不都合な現実を直視するという負担の大きいものだったと想像するけれど、だけどちゃんとついてきてくれた。一緒にその作業ができたということは、わたしたちにとっての宝だと思う。そうやって大人と困難を乗り越えていく経験は、きっと糧になる。自律性なんて屁でもなくなる日が来るだろう。
相変わらず行動指針は「怒られないように」だけど、やらなきゃいけないと観念したことについては淡々とこなす力がついた。小学生の頃とは比べ物にならないほどの勉強の質と量の圧を受けて、低空飛行ながらもなんとかやりきっているのは、基礎体力がついた証拠なのだと思う。求められるレベルがぐんぐん引き上げられていくから気づきにくいけど、確実に成長している。
友だちとの関係もそう。
周囲を見て客観的に自分を捉えて行動を修正する、といういかにも思春期っぽいことを実はちゃんとやっている。実はちゃんと見えているんだ。
なんだ、できてることいっぱいあるじゃん。なんか泣きそう。今日たくさん褒めてあげよう。頑張ったねって、おみそれしましたって。
絶望なんかなかった。さすがだな、いい仕事だな。
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