遊び
子どもたちを見ていると、効率性とは真逆の暮らしをしているなと思う。
効率性というのは、特定の目的の達成に向けて、数ある手段のなかからもっとも効果的で迅速なものを選択して実行することだ。子どもたちはそうじゃない。今日何を成し遂げたいかなんてたぶん考えていないし、「手を洗いなさい」と言われて蛇口をひねっても水の勢いを観察し始めるし、絵本を読もうと思って開いても、テレビがつけばすっかり忘れて見入ってしまう。「早く」と言われたって、そうやすやすと「いま・ここ」を手放せない。
子どもたちはいつだって、遊んでいる。
世の中のいろんな刺激に晒されながら、次々と遊びをみつけてくる。大人はつい急かしたくなるけれど、子どもたちの生活から遊びを取り上げることはできない。
子どもたちは遊びながら、世界を観察しているのだろう。
流れ出る水道水から重力を学び、前後ろに履いたパンツからお尻の形を学ぶ。知育玩具を連打してバグを学び、大人にしつこく絡んで人間の気分の移ろいやすさを学ぶ。
大人にしてみればしょうもないようなことを日がな一日熱心に繰り返しては、この世のことわりを学んでいる。遊んで、遊んで、もうめいっぱい遊びきったあとに、大人になっていくんだろう。
しかし、大人になってしまったわたしたちは、遊んでいる暇がない。ゲームや映画などの娯楽は嗜むかもしれないが、通勤途中に道草を食ったり、手を洗うたびに水の流れを観察したりしない。時々夜空に浮かぶ月にうっとりすることはあっても、カーテンを開けるたびにそのなかに包まったりしない。わたしたちは目的をもって生きることに慣れて、すっかり遊ばなくなってしまった。それはなんだか寂しいような感じがするが、染みついた効率性重視の生き方はなかなか手放せない。
せめてもの気休めに、今度「早く」と言いかけたときにはぐっと堪えて、子どもたちの遊びにもう少し付き合ってみようかな。
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