花と言葉と気持ちと記憶
ドラマのsilentがとても好きだったのですが、ある場面でこんなセリフがありました。
「花は音がなくて言葉があって、
気持ちがのせられるんだよ。」
ドラマは、聴者とろう者の話で“音”というものがとても重要だったわけですが、花は音を介した言葉はないけれど、花言葉という意味としての言葉を持つから、意味を通して花に気持ちをのせて伝えられるんだよ、というように私は捉えたわけです。
そう考えた時、花にとって大切なことは、言葉や意味ではなくて、“気持ち”なのかもなーという当たり前のことを改めて感じたので、そのことについて考えてみようと思ったのです。
何故なら私はkikkaシリーズという木の花を作っているので、花言葉とかについても考えてみたいなーなんてことを思っていたので…
ではではまず最初に、
「花には音がなくて言葉があって、、、」
の部分から考えたいと思います。
例えばチューリップには、
日本語で“博愛”
英語では“perfect lover(理想の恋人)”
という“花言葉”があるそうです。
さらに検索してみると、花言葉は“色や本数”によっても変化することもあると。
そうなると、チューリップを何本揃えて、そこにどんな色のチューリップを組み合わせるか?によって“言葉”の内容が変わってくる。これは言語が様々な単語を組み合わせることで、文章として相手に伝わるということと同じかなと思いました。まさに“花を用いた言語(意味)”としての“花言葉”と言えるわけですし、花に言葉があるということはちゃんと言えそうな気がします。
でも、チューリップに含ませた日本語の“博愛”と英語の“perfect lover”は、ちょっと違う気がします。博愛は愛そのものについてで、理想の恋人は人について対象が向いていて、ちょっと違うからです。でも2つに“共通する何か?”についても、とてもよくわかるのです。博愛というのは広く大きな愛をイメージしますし、理想の恋人というものも大きく深い愛をくれる恋人のようなイメージで、おおらかでなんでも包み込んでくれるような、そんな“ニュアンス”を2つから感じるのです。(ここではニュアンスを情緒的な微妙な感覚みたいな意味で使っています)
そう考えた時、日本語や英語による違いというのは単なる捉え方の違いであって、チューリップに含まれている核になるような部分っていうのは、その“ニュアンス”なんじゃないか?と思うのです。“おおらかでなんでも包み込んでくれるような愛”みたいなもの。そしてこれは、あくまで“みたいなもの”であって、言葉にはできない感覚です。
では、この“ニュアンス”は先に言葉からきたのでしょうか?
つまり…
言語ごとに言葉をチューリップにあてたことで見えてきたニュアンスなのでしょうか?それとも、チューリップという花から感じられるニュアンスに対して言葉をあてたのでしょうか?
私は学者じゃないので、花と花言葉の成り立ちや言語による花言葉の違いなどは分かりませんので、それがどちらかは別にどちらでもいいのです^^;
ただ、今私がチューリップの花言葉を理解し、ある場面でチューリップを選び、組み合わせ、それを誰かにプレゼントしたら、その“おおらかでなんでも包んでくれるような愛”という“ニュアンス”を含んだ感覚を“気持ちとして贈る”ということになるんだということ。
それが
「気持ちをのせられるんだよ」
というドラマのセリフの部分だと思ったのです。
もちろん、チューリップの花言葉を知らずに自分の気持ちをのせて(託して)贈ることも良いですし、その花の言葉を知らなければいけないわけではない。
ただ、花を贈るということはそういうこともあるんだろうなーとしみじみ感じたのです。そして、花をもらう人もその気持ちをもらい、その気持ちを家に飾っておくのだなーと思ったのです。
ではここで、今度は“花”ではなく、私が作っている“木花kikka”についてはどんな風に考えられるだろう?と考えてみました。
kikkaは誰かにプレゼントしてももちろん良いし、贈る側の人の気持ちとしては、おそらく生花のチューリップと同じような気持ちで贈ることは出来ると思います。でも注目したいのは飾る人の方。生花の場合は必ず枯れてしまう。それは声に出す音としての言葉も同じで、音は消えてしまう。消えてしまうことについては、silentのドラマにおいてオフィシャル髭ダンディズムのsubtitleという主題歌の中でとても素敵な歌詞になっています。
言葉は雪の結晶
記憶から溢れて落ちて溶けていって
絶えず僕らのストーリーに添えられる字幕のように
雪が溶けても残ってる
歌詞を断片的に抜き取って書いてしまいましたが、こんな言葉が所々ありました。
これらの歌詞は、消えてしまうことと消えてしまうけど“残るもの”をしっかり感じさせてくれる。消えてしまうことをネガティブに捉えていないし、消えてしまっても残るものがあるというのは、消えてしまうから気付けるものがあるということだとも思います。
だから、私は生花が枯れてしまうことをマイナスだとは考えたくない。
ただ、
「それとは違う時間軸で花を捉えられたら新しい気づきがあるかな?」
という想いでkikkaを作りたいと思ったのです。kikkaは木の経年変化があります。だから、枯れて無くなってしまうのではなくて、形が残って変化し存在し続ける花。
形が残って、変化し続けるということは、最初のチューリップに含まれる“ニュアンス”や“気持ち”に、さらに色々な思いや“記憶”が追加されて“重なって”いくという感じがあるかなーと思うのです。
(記憶がものに蓄積されていくという感覚はこちらの記事で→『ものに宿る思い出は圧縮ファイル?』
何か特別な思い出じゃなくても、5年10年と日々の生活の中で共に時間を生きれば、その間に経験した色々な気持ちや感情、“記憶”がなんとなく重なっていく。
もしくは既にチューリップという“花そのもの”に思い出を持っていれば、チューリップの形を与えられたkikkaという花に、その思い出を重ねることも出来る。
日々飾りながら時間を経て、言葉の意味を超えて贈った人の気持ちや自分自身の気持ち、そして記憶が重なって蓄積されていく。そうして時間を共に過ごしたkikkaは唯一無二の自分だけの花になっていく。そして、そんな花がそばにあることでちょっと嬉しくなれる。そんな感じがkikkaに託したものなんだなーと感じます。
という、silentというドラマから感じた、花と言葉と気持ちと記憶と、私が作っているkikkaシリーズについて込めた想いの話でした。