第8章第2節 日本アルプス探検隊(前編)
またもや壮大な提案
雑誌『お伽倶楽部』の休刊で、大井冷光はどれだけ落胆したことだろう。意を決して一家で上京し、児童雑誌の編集に携わるという夢を実現したのに僅か1年半で萎んでしまった。7年前の春に早稲田進学を断念して以来、幾多の苦難を乗り越えてきた冷光だが、ただ前を向くしかなかった。
冷光が働く早蕨幼稚園(久留島武彦園長)の隣には、雑誌『少年世界』の編集主任、竹貫佳水の家があった。久留島は明治43年まで『少年世界』講話部に在籍し、竹貫とは気心が知れていたから、冷光は上京してすぐ竹貫と知り合っていただろう。
竹貫は自宅で育児院や少年図書館を運営するなど、社会活動に積極的な人物だった。『少年世界』の読者会である東京少年会と少年小会という会も開いていた。明治44年ごろには、のちに童謡《靴が鳴る》の作詞で知られる清水かつらなどが通っていた。冷光もまた東京少年会に参加し、年下の清水から慕われる存在になっていたようである。[1]
『お伽倶楽部』が行き詰った明治45年6月、冷光は竹貫らともに「少年文学研究会」発起人会を開き、2か月後の8月から本格的な活動を始めることになるのだが、これについては章をあらためる。その発起人会から約1か月後の7月20日、冷光は竹貫らに壮大な提案をし、賛同を得るや否やわずか10日間ほどで実現させてしまう。これまでに何度も見てきたように、驚くべき企画力と行動力をここでも発揮することになる。その案とは、日本アルプス探検隊を読者とともに組織し、針ノ木越えを決行して、立山で郷里富山の少年隊と対面させようというものである。
冒険ロマンの針ノ木越え
大井冷光が残した山岳ルポは大きく分けて3つある。第一に明治42年夏の立山黒部滞在を扱った「天界通信」(『富山日報』連載)があり、その中には「黒部谷より」「大日嶽と稱名瀧」という力作が含まれる。第二は明治44年夏の富士登山で『お伽倶楽部』の記事だが、これは中身が薄い。第三は明治45年夏の針ノ木越えで「日本アルプス探検記」という。第三のルポは「天界通信」と並ぶ力作で、これまでほとんど注目されてこなかったものである。
本章ではこの「日本アルプス探検記」を見ていく。
針ノ木越えは、長野富山県境にある針ノ木峠(標高2536m)を行く山旅である。飛騨山脈を横切るルートで、国内の峠としては2番目の高さとされる。一説に戦国武将の佐々成政が冬に越えたという「さらさら越え」伝説で広く知られる。江戸時代は加賀藩によって立ち入りが禁じられ、国境警備にあたる奥山廻りが行われた。明治時代になって物流ルートを確保するため、明治10年(1878年)ごろ、牛が通行できる幅の国内初の山岳有料道路「立山新道」(または越信新道)が整備された。しかし冬期間の崩壊破損が激しく、修理に多額の費用がかかるため不採算となり、わずか5年ほどで廃道になった。[2]
針ノ木峠は、明治時代末期に国内で最も有名な峠であったかもしれない。有名な峠というのは、天城峠・野麦峠・徳本峠・大菩薩峠などのようにたいてい小説や映画の舞台となっている。針ノ木峠も泉鏡花の「さらさら越」(明治32年3月)の題材になったが、必ずしもそれが有名である理由ではない。
明治7年に外国人の旅行制限が緩和されたのを機に、外国人の山旅が盛んになった。中部山岳地帯が「Japan Alps(日本アルプス)」と名付けられた。そのうち、バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)という英国人学者が針ノ木峠を通過して、「悪絶険絶天下無比」と表現したらしい。[3]「悪絶険絶天下無比」は、現代においても英語の原文が確認されていないが、この成句によって針ノ木峠は探検ロマンを求める人の間で一種の憧れの場所のようになったのである。
明治38年に山岳会が設立された頃から信仰登山と測量登山に加えて探検登山が隆盛となった。何人もの登山家たちが針ノ木越えで立山に登り、あるいは黒部奥山から針ノ木越えで信州大町に抜けた記録を残している。ただ明治45年という時点で依然として針ノ木越えは国内屈指の秘境ルートである。40年前にできた「新道」の跡はほとんど消えてしまい、山案内人の同行が無ければ足を踏み入れることはできない場所だった。
冷光は明治40年に著した『立山案内』で針ノ木峠に言及し、その2年後、針ノ木越えの中継点にあたる平の小屋を訪れたことがあった。針ノ木峠はいつか行ってみたい場所であったろう。
冷光の山岳ルポ「日本アルプス探検隊」は、正確に言うと2種類ある。博文館発行の『少年世界』『冒険世界』に別々のタイトルで掲載された。細かい部分で齟齬はあるが、ほぼ同じ内容である。
提案5日後、隊員4人で出発
明治45年7月20日。その日は『少年世界』8月号の発行日だった。博文館の雑誌編集部で、冷光は企画を提案した。「日本アルプス探検隊」を組織して針ノ木越えを決行し、その顛末を記事にするというのである。1か月前の6月20日に南極探検の白瀬中尉らが帰国し、国内は探検ブームである。冷光には、12年前『少年世界』に載った記事の記憶があった。農学校時代に心を躍らせて読んだ「冒険談 戸隠山探検記」である。[4]探検ブームの今、児童雑誌に読者参加型の探検記事を載せてはどうかと考えたのである。
「それは壮快な計画だ。是非やってくれ」
『少年世界』編集主任の竹貫佳水がまず賛成した。編集主幹の巌谷小波も賛成した。さらに編集局長の坪谷水哉(善四郎)が『少年世界』だけではもったいないから『冒険世界』との合同企画にしよう、と推した。[5]
事は矢継ぎ早に進んだ。24日に4人の隊員が決まり、出発は25日夜となった。
博文館主催 日本アルプス探検隊
指揮 大井冷光(1885-1921) 26歳
画報 蒲生俊武(1885-1914) 東京美術学校西洋画科1910年卒
隊員 河東汀 16歳、青山学院中学1年生 『少年世界』東京少年会の幹事 河東碧梧桐の甥
隊員 小平高康 18歳、麻布中学3年生 『冒険世界』愛読者
東京美術学校卒の蒲生は、冷光の友人五島健三(1886-1946・東京美術学校西洋画科1907年卒)の伝手であろうか。出発1週間後の8月1日に富山連隊にへ見習士官として入隊予定ということだった。河東汀は東京少年会の幹事、小平髙康は『冒険世界』の愛読者だった。[6]
それにしても急な展開である。その裏側には、郷里富山の立山でサプライズを演出したいという冷光の思惑があった。富山では旬刊誌『トヤマ新聞』が約200人からなる少年立山登山隊を組織し、7月30日に立山登頂を目指していたのである。『トヤマ新聞』社長、三鍋正生は、新聞記者時代からの知人である。冷光は『トヤマ新聞』付録「トヤマ少年」にたびたび寄稿して、三鍋との関係をつないでいた。つまりこの少年立山登山隊の計画を知っていて、博文館主催の探検隊が30日に立山で出会うように仕掛けたのである。[7]富山の日刊紙2紙『富山日報』『高岡新報』の7月23日付紙面に「少年冒険隊来富」という短信が出ている。冷光は、隊員4人が確定する前から古巣である2つの新聞社に連絡していたのだ。何とも抜かりがない。
隊員4人は7月25日午後4時、赤坂の清水谷公園に集合した。少年小会の愛読者10数人と竹貫が見送りに来ていた。明治天皇の容態が思わしくないというので、一行は二重橋まで行き祈願してから上野駅に向かった。上野駅では、松美佐雄、宿利重一、藤野至人ら冷光の友人たちが見送った。
直江津行の列車は午後7時30分に上野をたち、7時間30分かけて未明の長野駅に到着した。4人は午前中市内を見物した後、昼過ぎに名古屋行の列車に乗り明科駅まで移動した。そこからさらに乗合馬車で6里(約24km)、日本アルプスの山麓の町、信濃大町に着いたのは26日夕方だった。
對山館で準備 案内人と面会
信濃大町の宿は、對山館という木造3階建ての旅館である。日本山岳会の定宿として知られていた。冷光たちは、3階の二間明け放しの大座敷に案内された。窓から北アルプスの連峰が屏風のように見えるのかと期待したが、薄暗がりの雲に隠れて見えなかった。
小さな明かりが灯る大ホールで、蒲生はあご鬚を撫でながらスケッチを修正した。河東と小平は記録のペンを走らせた。その夜、宿の主の斡旋で、山案内人の伊藤菊十(49歳)がやって来てあいさつした。菊十は針ノ木越えの経験があった。
宿の主人が付け加えた。[8]
冷光がフランスパン30個と缶詰などを準備してきたと言うと、菊十が「山の衆は西洋飯では腹が承知しません」と言った。
菊十は、米8升、味噌500匁、高野豆腐2ダース、鍋2個、マッチ1ダース、干鱈2枚、上等の草鞋25足を書き出して、すぐに準備させた。そして「テントがなければ油紙の5間幅のものを持っているから担ぎましょう」と言った。午後11時過ぎ就寝。
明治45年7月27日朝、時折雨がこぼれる空模様だった。地元の新聞に雑誌の探検隊が針ノ木越えに挑むという記事が出ていた。
初日は急いで出発する必要がなかった。大町から立山室堂まではどうみても2泊が必要で、2泊目が黒部川の平ノ小屋とみれば、1日目は籠川の扇沢上部あたりまで進んでおけばよかった。[9]
冷光は朝から大町小学校に立ち寄り、800人の児童を前に講演した。明治天皇のご容態と二重橋前で祈る人たちの様子を話して聞かせたという。人気児童雑誌『少年世界』の探検隊が来るということで講演は用意されていたのかもしれない。テレビなどのメディアがないこの時代は、それほど児童雑誌の影響力が強かった。
小学校から對山館に戻ると虹がかかっていた。案内人の菊十は、もうひとり荷担ぎが必要だといい、鵜飼常吉を連れてきて、結局、冷光の探検隊には、伊藤菊十(49歳)・傳刀林蔵(35歳・でんとうりんぞう)・鵜飼常吉(37歳)の3人が同行することになった。(つづく)
◇
[1]別府明雄『あしたに 童謡詩人清水かつら』2005年、p55-58.冷光は少年小会の指導者だったという。
[2]小林茂喜「信越新道『修開』事業の実情」『市立大町山岳博物館研究紀要』第4号(2019年)によれば、越信新道の工事開始は明治9年7月24日(実際は翌10年5月)、明治13年7月に完成し、明治13年11月に廃道となったという。『越信新道細見図』は木版画、玉川図書館近世史料館の大友文庫にある。
[3]小島烏水「早期登山時代のチェムバレン先生」『山岳』第30年第10号(昭和10年)。
[4]「針木越 冷光少年隊の壮挙」『高岡新報』1912年8月1日1面に、冷光が博文館の編集員となった旨の当時の新聞記事があるが、これを裏付ける資料は見つかっていない。ただ、15年近く前からの愛読誌である『少年世界』の編集部と近い関係にあったのは事実である。
[5]1901年(明治34年)『少年世界』7巻11号から8回連載。筆者は当時、洋行中の巌谷のに代わって編集長をつとめていた江見水蔭。
[6]蒲生俊武は飛騨高山の出身。2007年に東京芸術大学創立120周年記念企画の「自画像の証言」展で卒業制作の自画像が注目され、2017年5月には蒲生俊武展が開かれた。河東汀は大正元年10月6日、大正少年会を組織し、幹事となった。雑誌『少年』110号には「十月六日東京府下代々木八幡社内神代杉の蔭なる代々木倶楽部で発会式を挙げました。本会は講話部と運動部と雑誌部とあり、会長以下悉く十六歳以下の少年です。詳しい内容は東京南青山五ノ五河東汀へ御一報下さい」とある。
[7]『トヤマ新聞』58号付録「トヤマ少年」6月1日付の紙面で「少年立山登山隊」の隊員募集を始めた。12歳から18歳までで、当初100人の枠だったが、応募が相次いで、結局7月中旬に13歳から15歳を中心に約200人の団体になった。7月28日に富山市を出発。
[8]冷光の文章に對山館の主の名前は記されていないが、おそらく百瀬金吾か。金吾の長男でのちに北アルプス開拓の先駆者とも言われる百瀬慎太郎(明治25年12月10日生)は19歳である。
[9]1878年(明治11年)、立山新道が開かれていたとき、アーネスト・サトウ(英国)の一行は、野口を7月23日午前5時に出て針ノ木峠を越えて午後7時に黒部川の平に到着している。つまり、道が整備されていた時は野口~黒部は約14時間の行程だった。1935年の登山ガイド『北アルプス』増補版でもこのルートは14時間半となっている。明治10年ごろの『越信新道細見図』によれば野口~黒部22.4kmだが、現代の実測では約25kmである。
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【参考】主な針ノ木越え
(2020-11-08 18:01:26)
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