第7章第4節 児童談話会でお伽噺
五番町子供おはなし会
『富山日報』のこども欄がスタートして4日目にあたる明治42年10月10日。第4回子供はなし会という催しが富山市五番町の光厳寺で午後3時から開かれた。曹洞宗光厳寺は富山藩主の菩提寺であったことから、大きな御堂があり、しばしば集会場として使われた場所である。明治38年9月、日露講和条約に反対する県民大会、明治41年に『富山日報』主催の擬国会もこの光厳寺で開かれている。
子どもが65人、男児と女児に分かれて正座している。保護者と来賓も20人余りいる。そのなかに『富山日報』記者、大井冷光の姿があった。
冷光は、演者としてこの会に招待されていた。5か月前にあの巌谷小波や久留島武彦がやって見せた語り聞かせを、いよいよ冷光自身が行うのである。
おはなし会はオルガンの合図で始まった。正面の演壇に、辻意川(65歳)が上って開会のあいさつをし「鶴と亀」の昔話を語った。辻意川は地元の開業医である。
続いて子どもの発表である。紙に書かれたプログラムが1枚めくられると、一人が登壇し約5分間話す。この日の発表者は尋常2年生から高等1年生までの計11人。童話や事実談、雑誌や教科書の話題を話した。
子どもの発表の合間に、3人の大人が講話をした。五番町小学校訓導で校長代理の小柴直矩[6]が「こぶらの話」、大井冷光が「正直正吉のお伽噺」、そして辻意川の息子で県師範学校訓導の辻尚村が「立花宗茂の幼時」を語って聞かせた。「正直正吉のお伽噺」の内容については詳細が不明である。
また、中田書店が寄付した蓄音機を鳴らす余興もあった。最後に、医師の山田岩次郎(49歳)が閉会の辞を述べて2時間の会は終わった。
翌々日12日の『富山日報』3面には、この会を報じる記事があり、子ども11人の氏名と題まで書かれている。
◇
五番町子供おはなし会がスタートしたのは明治42年7月25日である。五番町の有志が「言語修養上、児童の言語練習をなさしむべしとの議あり、兼ねて学校家庭の中に立ち、児童の徳操風儀を導かん」という目的で組織した。今で言えば社会教育である。
その町内有志とは、辻意川(五番町13番地)、山田岩次郎(五番町40番地)羽田慎(五番町30番地)という3人の医師と、辻の息子の辻尚村(34歳)、八人町小学校訓導の中川作次郎らだった。[7] 辻意川が最年長でおそらく代表をつとめていたものとみられる。
五番町子供おはなし会は月に1回開かれ、明治42年12月13日の第6回から会名を「児童談話会」に改めている。明治43年12月3日の第18回では、児童演説が18人、全部で120人が集まったという記事がある。この会がいつまで継続したかは不明である。
五番町小学校の校区では、21の町があり、1100人余りの就学児童がいた。明治43年に入ると、五番町児童談話会にならって、よく似た子ども会が町内単位で相次いで創設されている。[8]
明治42年11月~ 中野新町青年団児童談話会
明治42年7月~ 五番町児童談話会
明治43年2月~ 南新美風会 土曜日夜。
明治43年6月~ 辰巳町家庭談話会 青年会の事業。年2回。保護者含め400人以上参加。
明治43年12月~ 餌差町児童たのしみ会
五番町児童談話会は、富山県内の子ども会のおそらく先駆けである。その近辺で次々に同様の子ども会が誕生している。そして大井冷光は、五番町小学校の通学区域にある南田町の貸家に住まいしていた。
児童談話会は五番町で、どういうきっかけで生まれ、盛んになったのであろうか。たまたま医師と教師たちが社会教育に立ち上がったのであろうか。興味深いテーマではあるが、それを解き明かす資料は見つかっていない。
冷光は第4回に出席した後も毎回招待されていたようである。第5回(11月)は忙しく途中退席。第6回(12月)はお伽噺《新こぶとり》、第7回はお伽噺《不死の水》を口演したことが新聞記事に記録されている。
富山市児童博覧会
明治39年5月、日本で最初の子ども博覧会が東京で開かれた。同じ年には京都と大阪で、翌41年彦根城山でも同様の子ども博覧会が開かれた。明治42年には東京三越呉服店が児童博覧会を開催し、社会全体の教育熱の高まりは、都市部だけでなく地方にも広まりつつあったことだろう。
東京でのこども博覧会と児童博覧会には、雑誌『少年世界』主筆の巌谷小波がかかわっている。その巌谷が久留島武彦とともに、明治42年5月に富山市に来て、冷光がその世話で奔走したことは既に記した。
富山市教育会は明治42年7月1日から5日間、総曲輪尋常小学校を主会場に児童博覧会を開いた。『富山日報』によると、児童用品の改善発達を目的にした同様の催しが開かれたのは東京のこども博覧会・児童博覧会など3、4か所しかなく珍しい試みという。のべ来場者は7万5000人で、予想以上のにぎわいだったという。
総曲輪小学校では、服や人形の「服飾館」、玩具や楽器などの「器械館」、児童作品の「教育館」など15室に計約5万点が展示された。また、余興として福助座でお伽活動写真が、西本願寺で弾琴会、東本願寺では少年少女音楽会が開かれ、賑わいをみせた。また会場前では、本江育児院の少年音楽隊が演奏した。これは三越の少年音楽隊を想起させる。
7月の児童博覧会は『富山日報』と『北陸タイムス』がかなり手厚く報じている。『富山日報』は記事中に「巌谷小波氏の理想玩具」「久留島武彦脚案」などの記述があるため冷光が取材した可能性は高いが、ただ冷光の署名はない。7月6日の記事「概評」に一記者の署名があり、冷光の筆と推測される。この概評では、予想以上の人気だった、児童博覧会といいつつ児童本意でなかった、会場で説明する教員の態度が良くなかった、などとして「その結果、余りにお祭り士氣になり人気取り主義となり広告的に走って為めに本来の目的も滅却されさうになったから後日の戒めまでに記しておく」と厳しい総括をしている。
富山市教育会の児童博覧会(明治42年)
[6]小林加代子「北陸本線開通による東岩瀬の飛び団子由来譚の再構成とその受容~大井冷光「史実お伽飛だんご」をめぐって」『高志の国文学館紀要』第1号(2017年1月13日発行)には、小柴直矩=南水という推定が紹介されているが、これは誤認である。南水=卜部南水=卜部幾太郎(1867年9月12日生~1938年11月23日没)が正しい。高志の国文学館が訂正を公表しないので、僭越ながら本ブログが代行する。【資料】冷光「史実お伽 飛びだんご」
【資料】卜部南水「お伽噺 飛団子」1909年
いまもなお『高志の国文学館紀要』第1号は、PDF形式でインターネット上で配布されているが、こうした誤りは正誤記事を合わせて配布しなければ、誤認の連鎖を生むことになる。インターネットでは訂正が比較的容易である。ホームページに「訂正」カテゴリーを設け、たえず正誤情報を発信しておけばよいのである。
今回の件は訂正の無作為であり、困った話である。もはや小林氏個人の問題ではなく、高志の国文学館という公的教育研究機関がどう対処するかという問題である。小林氏の論文そのものは十分評価に値するが、こうした誤認を数か月も放置しつづけることは容認されない。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、である。
[7]『富山日報』明治42年5-6月に連載「富山紳士の趣味」があり、第24回に山田岩次郎、第39回に辻意川が取り上げられている。この連載は大井冷光が担当した可能性が高い。つまり、冷光は10月に子ども会に招待される以前から、取材を通じて辻・山田らと面識があったとみられる。
[8]「児童談話会」『富山県教育會雑誌』36号(明治44年2月25日発行)。「前面に演壇を設く。風琴合圖にて開會すれば、豫め談話の題目を感じに申出でおきたる兒童は、相互に壇上に進みて、五分時前後談話するものにして、兒童交代毎に、其題目及兒童名を記したるプログラムを、一葉づゝ剥取る仕組なり。兒童の談話終りたる後、若くは、其中途に於いて、兒童の唱歌、来賓有志の講話を加へて、感興を保つことを常とせり。(中略)談話者の平均數は二十名位にて、毎會其人選を變換し、其談話の種類は主に、口傳への童話、事實段、雑誌教科書中の材料となす」
こうした明治時代の社会教育は、通俗教育と呼ばれる。『富山県教育史』上巻(1971年3月31日発行)p744によれば、明治20年代に「通俗教育談話会が開設された」とあり、p749に明治35年から43年までの郡市別開催回数が表でまとめられている。その表では富山市が明治42年4回、明治43年2回となっている。
これは冷光が参加していた児童談話会の実態とはかけ離れた数字であり、まだ調査研究の余地がある。そもそも、『富山県教育史』では、市教育会の児童博覧会を記述しているが、巌谷小波や久留島武彦の来県を取り扱っていないし、冷光たちの動きも全く記録されていない。残念なことである。
(2018.06.16)扉写真は明治時代の子ども
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