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吉田博 講義録「動物画法」「ペン画毛筆画」1932-1934年

風景画家でありながら動物の描写に強いこだわりを持っていたのが吉田博の個性といえましょう。動物描写への関心は明治39年ごろの欧州遊学のあたりに萌芽があります。明治42年の油彩《精華》は動物描写への挑戦でもあったわけです。吉田博は、木版よりも油彩、油彩よりも水彩、水彩よりも素描にその力量を如実に見ることができます。

動物画法 吉田博

動物写生の特殊性

動物を写生するについての心得をお話するのは、主として水彩を中心としてのことであるが、もとより水彩でやるのと油絵でやるのと、写生のやり方が全然異なるというわけのものでないことはいうまでもない。多少の相違といえば、油では動物を主題とする計画的な制作が多く、水彩ではむしろ即興的な写生に適しているということはいえよう。しかしその油絵の制作的なものにしても、それに取りかかる前には水彩で試みると同じようなスケッチを十分した上でなければできないのだから、結局、写生の意味は同じである。そこで私の述べようとする動物写生の心得は、油絵や水彩や、色鉛筆などのミリアムの相違は問題でなく、動物写生というものが、人物写生や静物写生などと大いに異なっている主眼点を特に理解してもらいたいのである。

《牛》 1910年 油彩

まず、分かりきったことのようであるが、動物というものを画材の上から、他のものに比較して見る。写生の対象としての動物は、文字通りに動いているもの、即ち生物であるということが第一の特殊性で、人間も同じ動物ではあるが、これは画材とする場合には描く人の注文である程度の静止状態を求めることができるし、また人間のある動作を写生するにしても、描く人の注文でしている以上は、真の動勢を求めることはできないので動物を写生するのとは異なる。描かれていることを知らずにいる人が動作をしているのを写生する場合だけは、同じようなことになるだけである。また、動物でも居眠りをしているとか全く静止している場合の写生は例外であるが、これとても、いつ動き出すか分らぬもので、動物というものは、とにかく人間の意志通りにモデルとなってもらえないことが、画材としての特殊性であり、これが最も厄介であるとともに、苦心の甲斐のあるところであり、研究に面白みのあるところである。

《鳩》 1910年 (部分)
《祇園社》1935年 木版 (部分) 

静物というものは、そういう意味では動物とは最も反対のもので、画材の性質としては心配の要らぬものである。風景はどうかというに、これは大体において静止したもので、部分的に、雲や、光線や、気象などの変化を伴う程度であって、これは急激な変化ではないから、例外の場所を除いては相当の時間を写生に従事できるのである。かくの如く動物というものは画材として特殊なものである。従ってこれを写生するには特殊な技法、手段、経験を必要とするのである。しかしながら決してそれは定まった方法というものはないのであって、むしろ描く人が機に臨み時に感じて、その写生の手段を工夫し、研究するのが最もよく、しかも短時日では到底物にならない。それは動物写生ばかりには限らないが、特に動物は、自分の自由にならぬモデルを取り扱うという苦心が、他の場合にない一つの仕事であることをあらかじめ知っておかれたい。

[口絵]ライオンの写生


動物写生の初歩

動物が自由にモデルになってもらえないからといって、これを縛ってみたところで、かえってその窮屈に暴れ出すくらいのもので、これも不可能である。また、すぐに写生せずに、十分に観察して頭に入れておいて、それを描いたものがもし生き生きとして自然の姿ができていればよいが、これはよほど動物というものに慣れ、その状態を知り尽くした上でなければできないことで、動物を描き慣れない人の容易にできるわざではない。そこで、初学者は、最も描きやすい動物の状態としては、前にも述べたような静止している時を見つけて試みることで、例えば、檻の中のライオンの寝そべっているところとか、鶏が目をつぶつてじっとしているとか、猫が日向ぼっこをしているとか、荷車の馬が車を止めて休んでる時とか、まずそういう場合を見つけて始めるのが最も容易である。そして、そういう時に、動物の体の構造を解剖学的に頭に入れておくことは必要である。そういう静止状態を描くのが、目的でなくとも、これによって動物に対する理解を深めるという意味で、一番稽古になるのである。つまり、毛並の高低や、筋肉や骨の位置、四肢の付き具合などが分かってくる。そういう写生を積んでゆくうちに、それらの様子を覚えこんでくると、少し動いている場合でも、静止している時のどこが、どう変化したというようなことが、はっきり分かり、例えば首や足の爪先などは既に何度も写生してあるから、動いた時は、膝の曲がり具合がどうなっているとか、背骨がどう変化するとかいうことに、研究を及ぼしてゆくようにする。そういう練習を積んでいっても、なおなかなか物にならない。どことなくしゃちこ張っているとか、不自然な感じであるとかする。また静止している時と動いている時とでは、光線によって陰影の変化があったり、研究すべきことは尽きない。一匹の動物を完全に写生できるようになるのは、全く幾か月も要し、あるいは何年かるかもしれないのである。

[増補]《精華》1909年 油彩 (部分)
[増補]《精華》1909年 油彩 (部分)
[増補]《精華》1909年 油彩 (部分)

動物を描く人は専門家にも学生にも比較的少ないが、動物に何らの興味を持たぬ人はともかく、興味を持っていながら描き難いものとして避けてみたり、描く機会を進んで求めないようでは、絵を描く人として努力が足りない。初めは決して上手にできるものではないが、何度も失敗し苦心を重ねてゆくうち段々と興味も加わり上達する。初めのうちは、これは動物写生に限らぬが、物を単純に見ることが大切で、何から何まで一時に全部をとらえようとすることは禁物である。例えば大体の輪郭だけをとらえることに努めるとか、動作のある勢いをとらえるとか、部分的に頭だけ、足だけとか、つまり観察を分類して、それぞれつかみどころをおいて単純に写生することは練習としていいと思う。

自分の子供のことを例に引くのもおかしいが、私の子供はやっぱり動物が好きで、なかなかうまく描く。動物に対して敏感なのか、見てきた動物を記憶していて描く。一般、画家というものは、動物写生に限らず、自分の目で見、印象を受けたものはそれのないところでも大体を描き表せる才能が常人よりも豊かであるわけであるから、その力を動物の方に向ければいいのである。小さな子供の絵を描く様子を見ると、対象をあまりよく見ていない。しかも頭が単純なせいか、ずさんな観察にもかかわらず敏感に頭に映じて、直接に描き表せる。幾度も繰り返すうちにはだんだんとよくなる。

この講義録の読者諸君の如きは、もはや子供のような単純な頭ではなく、複雑であろうから、かえって物を見過ぎてかえって、物がはっきりつかめないような経験をしばしばやっていることと思う。それには、子供の単純な見方を採り入れて研究することを勧めたい。

そこで、これを水彩画でやるということについては、これがまた一つの難しいことである。水彩絵の具というものは、即写的なスケッチに着彩する場合、油絵の具などに比して、ずっと適していることはいるが、写生の時に一か所に動かずにいられるような場合はいいが、例えば相手が横を向けば横に行き、正面を向けば正面に戻るということをしなければならないし、なかなかゆっくりと塗っていられないことが多い。あるいは立って写生をしなければならないこともあり、そうすれば水がこぼれたりして厄介である。であるから初めは着彩に重きをおかず、専ら形をすることに努力して、色彩はほんの符牒として用るくらいがいい。それから、初学者は色彩の符牒として用るのに色鉛筆は具合がいい。立ったままでも塗りいい。例えば茶色の馬を描く時は茶色の鉛筆を用い、最後に水彩絵の具で主要な部分に色を加えるというようにする。水彩画で完全な動物写生を仕上げるということは、決して簡単な仕事ではない。

[増補]《アフガニスタンのキャラバン》1932年 木版  (部分)

私の経験談

種々の形と特色を持った各種類の動物をそれ繋げて、その写生上の注意を述べるということは、なかなか大がかりなことになるし、またそれほどの必要もないと思うので、ここで私は自分の動物写生の経験を述べて参考に供することする。私の経験した範囲のものとしては、犬、馬、牛、鹿、猿、獅子、虎、豹、象、ラクダなど、鳥では、鶏、ヒヨコ、ツル、鸚鵡、孔雀などで、そのほか魚類も多少試みたものがある。これらのうち、多少月日を費して研究したものについて二三の例を話して、もしそれが諸君の動物を写生する時の参考ともなれば結構である。

[増補]

鶏のヒヨコ

種々のヒヨコを得るために、まず私は親から見つけて、その卵が種々の種類になるように孵化したら十一二匹の子ができた。私はそれを相当長くかかって、毎日写生をした。子供もいっしょだったので、それらのヒヨコに凸坊だとか百合子だとか一つ一つ名をつけて、見覚えておいて描いた。それも初めは部分的の写生を主にして、居眠りなどしている瞬間に、そのくちばしだとか、羽の色だとか、大体の構造を、それが死んでいるものとして、それをよく覚えるために描いた。それから、真向きや、横向きや、背中の後方から見たところ、腹の方から見上げたところなどを描く。であるから一つ一つが決して完成したものではなく、今日は一枚できたなどというわけにはいかない。これを約一か月ばかり続けた。こういうふうに写生するには何匹もいないと困るので、ヒヨコなどはごく都合がよい。例えば白いヒヨコが手近にいなければ黒いのを描くというようにする。部分的のものが少し描けるようになったら、羽を上げて飛び立つなどを描く。それには羽の様子をよく観察する。そういう研究は、例えば、ヒヨコが首を突き出してで風を切って走しってゆくのを描く時に役立つ。それを幾らも繰り返しているうちに段々にその構造や動作の性質が分かってくる。こうしているうちには、ヒヨコの時代を過ぎ去って大きくなってしまうので、それを一区切りとして、卵からやり直し、去年の続きをやるという具合で、真に一つのものを完全に写生できるようになるには、気長に、根気よくやらねばできない。

ひよこの写生

また、一つの向きを狙って描いても、他のいい形ができるとそれが描きたくなる。それもいいが、あまり気が変わり過ぎると、いつまでたっても、一つものが描き上らない。そういう時には、描きかけを二三枚やって、その同じ形ができたらそれを続けるようにしてもいい。写真器を用いてその力を借りたらどうかと考える人もあるかもしれないが、それは似たものはできても、決して頭にはっきり入らない。やっぱり自分で見つけて描いた線は、頭によく染み込んで、上達する。

[増補]《ひよこ》1929年 木版

ある夏、私は沼崎の牧場へ馬の写生に出掛けた。馬が目的だったが、牛もいたので同時に牛も写生した。別にいい馬があるわけではなく、百姓の馬や荷馬などが追い込んであるのだが、写生には都合のいい広いところであった。日中は馬は食が足りているせいか、のんきにぼんやりしているので写生がやりよい。初めはそれからやって、次には草を食べているなど、これは皆そろって、同じ恰好に頭を下げている。駆け出しているところも追いかけるようにして描く。すべて動物を描くには、相手を恐れては駄目で、動物の友達となるような気持ちでやらなければできない。それは前述のヒヨコの写生の場合の実例を挙げると、私と子供とヒヨコの取り扱いの上で、子供がヒヨコを掌で包むように手の上においてそれを写生していると、ヒヨコは手の柔らかな触覚と温かみが、親鳥の羽の下に抱かれているのと同じような状態になるのか、おとなしくじっとしていて、写生に都合がいい。私がそれをやるよりも子供の方が、うまい具合にゆくのである。そういうことも、動物に慣れ、あるいは慣らす一つの例といえよう。

[増補]《沼崎牧場》1928年 木版(部分)
[増補]《沼崎牧場のひる》 木版

馬は牝馬がおとなしい。手で撫でてやると喜ぶ。また、牧場の全体を描くには、一匹ずつ描いたのを組み合わせたのではなかなかその形が自然にいかない。やっぱり群れている態を写生した方がよい。それぞれの構図が多少面白くない場合でも色の配置が面白いと、これを補ふ。つまり白だの茶だの色彩の組み合わせが面白かったら、符牒だけでも構わぬから素早く写しておくことである。

《帰る牛》1910年 毛筆

一体に動物を写生するには、どの動物か一つを徹底的に、骨や筋肉の形を研究しておくことが必要で、それには馬が標準的で最もよい。牛や鹿のようなものは、馬の変化といってはおかしいが、大において構造の要素は馬に似ている。故に、馬の解剖的な構造を心得ていると、牛を描く時にもごく描きやすい。ラクダの如きも、脚は妙な形をしているが、馬の脚を十分描ければ、まごつくようなことはない。また、象のようなものを描く場合でもよほど役立つ。

鹿の写生


[増補]《春日参道》1938年 木版 (部分)
[増補]《春日の鹿》1928年 木版 (部分)

象は日本では動物園ででも描くよりほかはないが、私はインドへ旅行した時に描いた。五六円の金で、半日くらいモデルに頼むことができた。象はそう動かないのでやりいい。しかしインドの象は、乗客用のために、背の上に装飾的なものが載せてあるので、純粋な動物写生にはならなかった。象では鼻が最も面喰った。しかしには骨がないから、その曲がり具合さえ研究すれば、幾度も描いてみるうちに慣れて来る。象の如きものは骨が見えず、ぶくぶくしているので、うっかり描いていると骨抜きのような妙なものになりがちである。これなども、前述の馬の解剖を心得ていると、それが応用できて、恰好が安定してくるであろう。例えば背骨でも、足の関節でも、あるところにはあるから、見つければ正しく描ける。象の特殊な点としては、鼻のほかに、牙のつけ根など注意を要する。

[増補]《ジャイプールのアジュメル門》 1931年 木版(部分)

ツル

動物園でツルの写生を試みたことがある。ツルの飛び立つところや、その立ち際の姿勢など、瞬間の形をとらえることを主にやった。初めは何もかも線一本で表して、形をとらえるようにした。二本からなるくちばしも、ただ一本の線で表し、頭から頸筋までも同じく一本の線でやり、脚が地を離れる時、下の方に力を押した様子も、一本の折れ曲がった線を用いて、指などは描かない。こうして描く時は、紙の方を見ずに、全く気持ちを線に表す。あとで見て、勢いが出ているかどうかを見る。勢いが出ていれば成功しているのである。これを何回となく繰り返し写生する。この飛び立つ形は、雨上がりの日などにからだの具合でするのか、羽を広げた形が、よく似ているので、その形を見て、その観察を飛び立つ時のスケッチに当てはめてみる。胴には余り変化がないが、例えば頸筋の黒い毛のあるところは、こうなっているはずだとか、羽の数は何枚くらいあるはずだとか、脚や尾、それらを初めのスケッチに当てはめて描いてみる。こういう時には、ツルの解剖的な研究をある程度まで知っていないと難しい。例えば、ツルの尾のように見える黒い部分の羽は、実は尾ではなくて、畳んだ両翼の端の羽が黒いのであって、それを尾と見て描いたのでは、やっぱり不自然にできるであろう。また、翼が何枚の羽から成っているかというようなことも、羽を広げた時に一応数えておくことは必要である。それは決して同じに描けというのではなく、でたらめに描いてはいけないのである。それは、鯉のようなものを描く時も、うろこの数を一応数えておくとよい。本当の数の半分しか描いてないというようでは、やっぱりよく観察した写生とはいえない。

ツルの写生

初めに述べたように、動物写生法といっても、特に水彩画によるテクニックについては取り立てて言うほどのこともないので、動物写生そのもの心得おくべきことを以上申し上げたのである。あとは、この講座で諸氏の説かれている水彩画法を、この動物の場合に活用して、研究せられることを希望する。

【編注】『アトリヱ美術大講座水彩画科』第4巻(静物・人物・動物画実習)1934年。吉田博 講義録「油絵 風景の描法」1934年も参考になさってください。

ペンと毛筆画法 吉田博

最初にお断りしておかなければならないが、私はペン画と毛筆画を担当したが、私はそれらを特に研究したわけでもなければ、その専門家でもなく、依頼されたままに、その技法に関したことを述べることとする。

[口絵]雛の写生

さて、ペン画は木炭画や鉛筆画と非常に異なったものではない。従って素描としてのペン画に、特別の技法があるわけのものでないことは無論である。そこで、ペン画がその材料から生じる、他の素猫との相異について考えてみよう。素猫は、色彩を抜いた絵画であるが、木炭や、墨と毛筆などは、色彩の階段がある程度まで描ける。つまり平たく塗ったり、あるいは、線の濃いのと淡いのを用いたりしてそれが描き表せる。ペン画では、そういうことは難しいが、ペン画に比較的似ているものは墨と毛筆によって一色で描く素描であるが、ペンでは、毛筆のように濃淡は表せない。全然濃淡が表せないわけでもないが―つまり、インキの濃いのと淡いのとを使い分ければいいのであるが、それは煩に堪えないばかりか、ペン画としての特色を生かしたものではない。

一体素描は、人体のデッサンにしろ、動物や風景を描くにしても、それは木炭で描くとも、墨と毛筆で描くとも、ペンで描くとも、すべて同じ意味で描ける。木炭で描ける人が、ペンで描けぬということはないわけである。で、ペン画というものがペンという材料によるその特色を探してみよう。

ペン画は、一定の濃さの細い線が明確に描き表せることがまず第一の特色である。それが、木炭や毛筆と異なる第一の点である。その代わり、この細い明確な線というものには、いわゆる「さび」がない。けれども、木炭などでは絶対に試みられぬ非常に精巧な仕事ができるのである。木炭は比較的大ざっぱな仕事であるが、ペンから出る線は細く明確であるから、ごまかしたり怪しい描きぶりは一切できない。

そこで前に述べたように、ペンは濃淡を表す場合に最も不得手であるが、この細かい明確な線の出るのを利用して、線の密集と空疎とを取り交ぜて濃淡を描き表す時、ペンとしての独自の特色が発揮できる。そういう線の集まりやまばらの状態は、それぞれ画家の性質によっていろいろな方法で行われる。例えば網の目のようなのや、平行線を並べたのや、十文字を重ねたのや、曲線のカーヴを平行した線など、無際限にある。それらは本講座の毎巻のロ絵や挿し絵にある多くのペン画や、細い線をもって描かれた作品を見たならば、諸君はうなづかれるであろう。また、線をひっかき回したようにしてあるのも面白い。その曲線の密集した中に、小さいあざのような、無数の斑点が見える。その穴の大きいのから小さいのに至るまで、それによって濃淡が表せるのである。(次頁挿絵参照)

ペン画の性質を日本の文字に比べてみると、大きい筆で書かれた字の、散ったり、かすれたりした味とは極端に違う。木炭などにはそういう意味が多少ある。鉛筆になると、そういう味はよほどなくなる。如何に太く描いても、鉛筆のしんの幅だけしか出ないからである。しかし鉛筆で描いたものを虫めがねで見たら、まだ「さび」というものが出ているであろう。鉛筆は、ペンとは異なって、無数の線の密集によって線の跡を見せずに描き表せるからである。しか鉛筆に平均した力を与えて描く場合には、即ち「さび」を使わずに描く場合には)鉛筆は、ペンの性質にやや似ている方である。

ペン画は、大きな筆で日本字を書くような、ひと筆でやる仕事はできない。また、広い面積に描くことにも向かない。そういうものを狙わないところにペン画の生命があるのである。百号大の紙にもペンが描けぬことはないが、本来ペン画は遠くから見るべきものではないから、適宜の大きさの中に描くのが正当である。

ペン画がも一つ他と似ているのはエッチングである。エッチングはその道具の先端が尖っているのでペン画と同じような結果のものとなる。ペン画のかける者ならまずエッチングは描けるといっていい。エッチングはペン画と殆ど同じ性質のものではあるが、拭き残りの濃淡によって、多少の「さび」の出ることが、ペン書と相違するところである。

ペンの大小や、ペンの先端から出る線の大小ということに重きをおいて、たとえ大きく線の出るペンを選んだり、作ったりしても、それはペン画の特色を十分に発揮したものとはいえない。そういうペンとしては、羽ペンというのがある鳥の羽の筋の根もとをハスに切って、その尖っている真ん中の約二三分のところから鋭利なナイフで切り割って、それをインキなり墨なりにつっ込んで描く―その羽ペンは普通の金(かね)ペンに比べると腰が弱いので、精巧な線が出ない。この種のペンは、小さい線から多少大きい線に移り変わってゆくところに特色がある。

同じ金ペンでも多少大きく出るのもあるが、腰は弱い。いろいろの種類のペンを使い、いろいろの描き方をしても結局そういうことだけでは描けるものではない。それは鉛筆画でも木炭画でも同じことである。何といってもデッサンがよくできなければ、ペンは描けないのである。

ペン画は、最初に鉛筆で輪廓をとっておいて、十分それができたところで、思い切ってずんずんとペンで描いてゆくと描きよい。仕上がってからゴムで鉛筆の線を消すと、非常にペンの線がはっきりして、自分でも驚くほどの絵ができあがる。しかし、画家は多く型の如くやらないもので、ペンの特色ばかりによらずに、かえってペンの不得手なところから入って、反対にいいペン画ができるということもある。これは特色のないところから入って、特色を創り出すということになる。そういう場合、人の写生にしろ、動物や風景にしろ、直接ペンをもって写生に取りかかると輪廓のとり始めに不用の線がたくさん用られ、正確な線に近寄るまで幾本もの線を引かなければならない。木炭や鉛筆などは消すことができて便利であるが。しかし、デッサンの基礎ができている人がやれば、そういう不用の線があっても決して邪魔にならず、むしろ面白いこともある。けれども、ペンを特に研究する人、ペンを試みようとする初学者は、やはり原則として、ペンの第一の特色に従って、研究するのが本当であるし、また有利であろう。やはり初めは鉛筆で輪を描いて、あとでそれを消すようにした方がいい。

ペン画に用うる紙は、描く材料がとにかく金物であるから、滑りのいい紙であればいい。日本紙は最も不適当で、洋紙の中でもケント紙のようなのが最もいい。

インキや墨は、別段これでなくてはならぬということはないが、さらさらと、ペンの動く度によく出るものでなければならない。ペンの先端に古い墨のかすがたまっていると描き難いばかりか、ペンを損じるから、ペンはよく掃除しておく必要がある。インキでなく、墨をすって使う場合には、ねちねちした安い墨は使わぬ方がよい。

なおペンの不自由な点としては、野外で写生するのに不向きなことである。また、墨やインキは粗相が多く、ちょっと手につけてもそれが紙に付いたり、流したり、そういう不便さは免れない。

次にペンの応用方面としては種々の挿絵や出版物に使われる。そういう方面にペン画は割合に有効である。それはペンを、凸版や写真版にする場合、他の絵より明確で、失策が少ないからである。また、作品としてではないが、出版物の緻密な図などにもペン画は向いている。版になった場合、一面に黒くなると決まったところには、毛筆で塗りつぶすということもできる。

ペンの方はそれくらいにして、次に毛筆のことについて述べよう。

ここでいう毛筆は、洋画風な素描としての絵をいうのであって、同じ毛筆を使うのでも、いわゆる水墨画のような日本画や、書を書くのとは趣を異にしている。つまりひと色の墨で描くというではペンとやや似ている。毛筆にはいろいろ種類があって、それぞれによって出る線の性質が異なる。筆によっては、かなり大きな線で荒っぽく、一筆描きができる。そういう太い線で、ごく大づかみに、深刻に気持ちを出すということは、毛筆の一特色である。しかしそれは、省略法をよほど研究した人でないとやれない。無論、省略法というものは毛筆に限ったことでなく、すべての絵にあることではあるが、毛筆におけるそれは、表すべきものを深刻につかまえて、極端に省略しなければならない。それは毛筆の線の大きいのほどそうなる。反対に線の細いものは、ペンの性質に近づく。毛筆画の線は同じ幅の線を引かうとしても、毛の腰がペンのようにしっかりしていないから、ほぼ同じ程度には出るが、徹頭徹尾そうゆかないところに、毛筆画としてのうまみが自然と出るのである。(前頁挿絵参照)

毛筆画は、紙の面の少し粗いのと、毛に含んでいる墨の分量とによって、そこに「さび」が出る。それはペン画に全くないものである。「さび」即ちかすりは、これを有効に使うと非常に面白い絵ができる。しかし初学の者は大体同じ幅の線で描く方がやりよい。大小混ぜた線は面白いけれども達人でなければできない仕事である。毛筆画も洋紙に描く時はペン画の場合と同じように、初学者はやはり鉛筆で初め輪廓をとって、あとで消すようにした方がよい。

毛筆画は無論筆で描いたのものが芸術品であるが、これもペン画と同じように応用方面としては版になる場合のことが考えられる。やっぱりペン画と同じように版になった場合、鮮明で効果は多い。また木版の輪廓線を描くには毛筆は最も適当である。大小の線が出るほかに、「さび」もよく出るし、描いたものを貼りつけて彫るには日本紙を使うので、両方のミリアムの特色のはっきりした線を出せば彫りいい。木炭や鉛筆ではやれない仕事である。

【編注】『素描新技法講座』第3巻(素描技法下巻) 1932年、アトリヱ社。

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