第4章第2節 江花への敬慕と探検団
花形記者への憧れ
井上江花は、大井信勝(のちの冷光)を文筆の道へ導いた最初の師である。そして、大正10年3月5日に冷光が亡くなるまで17年間にわたって親交を深めた。冷光にどれだけ期待をかけ、またその早すぎる死をどれだけ惜しんだか。それは『高岡新報』の紙面に残っている。
『高岡新報』主筆である江花は、冷光の死の直後から1面コラム「酉留奈記」などで50回余りにわたって葬儀の様子や遺族会議などを細かく書き残した。そして、翌年の紙面には「冷光余影」[1]を半年間連載し、冷光の書簡や農学校時代の作品を活字に残す仕事をしている。新聞は社会の公器である。当時の尺度でも、また今日の尺度であればなおさら、江花のコラムは紙面の私物化という批判を免れまい。しかし、江花が残した私的な記事によって、私たちは冷光の生きた軌跡を細かく追うことができるのである。江花が生きていたなら、「冷光君は児童文化向上のために戦死したのだ、公的私的など議論する前に、歴史にしっかり刻んでおかねばならん、これは私の責務だ」と反論することであろう。
私物化批判を超えて
明治38年5月、江花の斡旋で富山県米穀検査所に勤めてから、信勝と江花の付き合いがすぐに始まったわけではない。江花は名の知られた花形記者であり、信勝から見ると相当目上の人であった。
その江花から絵はがきが信勝に届いたのは6月22日のことである。初対面から1か月余りがたっていた。絵はがきには鬼が描いてあり、「僕が毎日耳を引っ立てて外をあるいているのは可哀そうぢゃありませんかね君」と添え書きしてあった。ユーモアが得意な江花らしい自虐的な言い回し。当時は絵はがきブームである。江花は、自分が就職の世話をした青年のその後を気にかけていたにちがいない。[2]
信勝はその日の日記にこう記した。「その『可哀そうな』こそ予の羨やましきところなり」。取材で耳をたてて歩く記者の仕事に憧れがあったのであろう。江花のような仕事が羨ましかったのである。
2週間余り後の7月10日、信勝は県庁で江花とたまたま出会った。そこで絵はがきの返信を督促され赤面してしまう。久田の一件や差解問題の対応に追われ、返信するのを失念していたのである。その日は仕事の合間に絵はがきの図案を練った。
翌日、黄昏の田舎道を帰る馬子を描いた絵はがきを、江花に送った。「汽車を出でて僅か三里の坦道を草鞋がけとは仰々しき旅支度、徽章のひかる夏帽子ごしに見し三月ぶりの故村のすがたーオオあの黄昏に見し馬子親子がまたしても慕しくって云々」と添え書きした。そこまで書いておきながら「後より思ひは大胆千萬」と自嘲している。
家庭の温もり見つける
もっとも信勝は江花への礼を忘れていたわけでない。東京にいる後輩の島谷直方を通じて、東京美術学校で学ぶ友人の五島健三に石膏塑像をつくってもらう打ち合わせを進めていた。7月3日の日記に記されているから、その前から話が進んでいたのであろう。完成した塑像は7月20日に送られてきた。天使の半面塑像を額装したものが二面あった。「おもった程のものではなかりしが去り乍ら捨てがたき面白みはあるべし」と信勝は思った。
翌21日の夕方、早速二面の額を持って江花の家を訪ねた。梅沢町にある信勝の家からおよそ2キロ、江花の家は富山市の西の外れ、神通川の土手に程近い鹿島町19番地にあった。[3]
江花はあいにく留守だった。置いて帰ろうとすると、妻の操がもうすぐ帰るから待っていてほしいという。座敷に通された信勝は、数冊の絵はがき挟みと、江花の16歳のときからの写真を何枚も見せてもらった。江花の人生はまるで小説『思出の記』だと思った。『思出の記』は立身出世と家族を描いた物語である。2時間ほどして、江花が散歩から帰ってきた。8歳の娘涼江と夏休みの間養育している孤児院の生徒と一緒である。信勝は30分ほど話をして席を辞したが、この日の日記にこう記している。
時を忘れて聞き入る
それから2週間ほどたった8月4日。米穀検査所の所長から指示されて、信勝は検査年報の原稿を江花の家に持って行った。そこで信勝は、さらに井上江花という人物の奥深さを知る。
江花はただ文芸趣味のあるだけの記者でなかった。文章作法や文士としての立ち居振る舞いなど持論を次々に話してくれた。ユーモアに富む江花であるからさぞかし楽しく論じたのであろう。信勝が問いかけてそれに答えたのか、それとも自然と会話が弾んだのか。
写生文は「ありのまま見たままに写す」ように書く文体をいい、3年前に亡くなった正岡子規(1867-1902)が唱えていた。江花は子規の故郷松山で布教活動していたことがあり、子規の考えに関心を持っていた。文学青年である信勝が子規を知らないわけはなかったが、写生文の考え方に触れるのは初めてだった。[4]信勝は時を忘れて江花の話を聞いた。いつのまにか4時間たち、7時すぎになっていた。帰る際に3冊の写本を借り、書斎で写した江花の写真をもらった。3冊の写本は『江花雑纂』[5]というもので、江花が書いた文章や気になった文章をまとめたものである。信勝が自らの作品や日記を『波葉篇』をまとめるヒントになったと思われる。
知事の町回りに同行
明治38年8月6日。信勝はこの日、富山県知事の李家隆介(りのいえ・たかすけ、1866-1933)の町回り(農談会)に随行した。米の収穫時期を前に、砺波地方の出町・城端・井波・中田を2日間かけて回り、稲の乾燥をしっかり行って良質米をつくるよう知事自らが演説するのである。検査所長や事務官、検査員など合わせて7、8人の一行で、信勝はおそらく最も若い19歳である。書記でもないのに新聞掲載のために演説筆記を命じられた。
知事随行は初めての大仕事だった。何を着ていけばよいのか気になって、前日に3軒の洋服屋を回ったが見つからない。結局48円の白鳥打帽と25銭の小風呂敷、月印鉛筆1ダースを買った。
仕事は卒なくこなしながら仕事一筋ではないのが信勝である。1日目に城端での農談会が終わると2日目は午前11時から井波で開かれる。空き時間があるとみるや信勝は所長に願い出て、一人別行動で福野に立ち寄ることにした。1日目の晩は宴会で遅くなり零時すぎに就寝したのだが、その翌朝早く起きて、一番列車で福野に向かった。福野駅で降りるとすぐ、帰省していた五島健三を訪ねた。
画板と絵の具が散らかる懐かしい部屋。朝食をいただいて一時の会談。前回の天使塑像に対して信勝の評がよくなかったからだろう。五島は今度は油絵を渡したいと事前に連絡してきていた。信勝はその油絵2枚を受け取り、農学校時代に自らもつくった写本回覧雑誌『面影』を借りた。近くの米穀検査所で検査員をしている親友の澤辺光久を訪ねたがあいにく不在だった。3時間に満たない滞在のあとすぐ、5キロ離れた井波に急いだ。のちの冷光が時折みせる"強行軍"ともいえる旅の仕方はこのころから始まったものである。
五島からもらった油絵のうちの1枚を、2日後、江花の家を訪ねて贈った。江花からはお返しに李斗煥[6]の扇子をもらった。
知事の演説筆記は相当に苦労して仕上げ、8月19日の『高岡新報』に掲載された。この時期、信勝の関心は仕事から趣味へと移っていく。江花や友人たちとの間で絵はがきや写真を頻繁に交換している。ある日、仕事を終えて帰宅すると、東京の島谷直方から絵はがきと写真が届いていた。[7]愉快になって古い写真を取り出し、自分の周りに並べて独りほくそ笑んでいると、それを見た伯母が呆れて言った。「嬶(かかあ)がきついし写真でも嬶にしてながめて居ろ」。
波葉日記を清書
『江花雑纂』を借りて以来、信勝は暇さえあれば江花の日記や文芸を読んだ。一方、その影響だろうが、自らの日記の編纂にも力を入れ始めている。
8月24日「晩に波葉集の浄写に熱中す」
8月25日「退庁後は日記の清写」
8月27日「夜日記静写す」
8月31日、『江花雑纂』を返しに江花の家を訪ねた。今度は、旧作小説の切りばりと最近の日記を借りた。自分の家族の写真を渡し、江花からは両親の筆跡のある銅版写真をもらった。このころ、西番の家の二重転売という問題が表面化し、伯母や文との関係がぎくしゃくしだした。わざわざ伯父の実家まで訪ねて討議するがなかなか解決しない。「からだいそがし頭もなやまし」の状態が続いた。
9月10日、日曜日。この日も家族と衝突し、「ぷんぷん面をふくらいでとび出し」すぐ江花の家を訪ねた。江花は腹痛で床にいながらも原稿を書いていた。操と会話を交わしていたが、しばらくすると江花が仕事を切り上げて信勝の話し相手になってくれた。江花の話題は、金沢近郊に伝わる黒壁山の天狗退治、警察部の内幕、無名の遺跡の探索などさまざまで、信勝を飽きさせなかった。正午を過ぎて、信勝が帰ろうとすると、きょうは祭りだからと赤飯を食べていけという。言葉に甘えているうちに、そこへ浅岡宗吉という男がカボチャを持って訪ねてきた。江花の日記に出てきた25、6歳の農民だった。宗吉は神通川対岸の神明村有沢に住んでいて、江花の家に出入りするきっかけは野菜の触れ売りだったが、今では読み物を教わるようになり、日記の添削を乞うまでになっていた。信勝は、宗吉の話しぶりや身ぶりを見ているうちにその純朴さに惹かれていった。この日をきっかけに、信勝は江花を中心にした人の輪に入っていく。
次の日曜日、二重転売の問題の経過を聞きに行って留守の間に、江花が初めて家を訪ねてきた。伯母と文と言葉を交わして帰っていったという。信勝はびっくりしてすぐに江花の家を訪ねた。江花が言うことには、久田二葉から「冷飯たべることになろう」という意味深なはがきが来て、心配して相談に行ったのだという。信勝は深い意味はないでしょうとこたえた。毎週日曜日に江花と付き合うことが増えていった。
9月24日は秋晴れの日曜日だった。江花と五艘三郎、三鍋保三、そして信勝の4人は遠足に出かけた。五艘は県の役人、三鍋は同僚である。一本榎から有沢橋を渡って神通川左岸に出て、そこから上流に向かって歩いた。鵜坂神社で休み木陰で昼食。途中、江花はいくつも句を詠んだ。「パン買ひに波葉走るや稲の道」「弟子の住む村さし示す秋のそら」「落葉した上に三郎の放尿哉」。俳句としてはでたらめかもしれないが、江花の人間観察力と茶目っ気が信勝は楽しくてたまらなかった。[8] 一行は、萩島あたりまで約6キロを歩いて、帰りは舟に乗って五斗目堤に戻った。
尊敬された友情の深さ
連日のように続けてきた日記と旧稿の清書が終わったのは9月25日の夜である。明治34年1月から明治38年3月までの日記と、自作の小説や詩・句をまとめた雑纂を合わせて、枚数が220~230枚にもなった。翌日、製本するため肉色のリボンを1尺2銭5厘で買うと「検査所で公務の余暇をぬすみて苦心の上やうやう綴りおはる」。27日、出来上がった本を『波葉篇』と名づけ、「表紙を薄緑色の梶の葉にして銀箔で文字を現はした」。文章ばかりでなく装丁にもこだわりを持つのはいかにも信勝らしい。
信勝は、仕上がった『波葉篇』を江花に見てもらおうと思った。宗吉が添削してもらうように、自分もまた、江花に評してもらいたかったのであろう。9月30日に江花の家を訪ねた。例によって、妻の操がオムレツやビフテキなど西洋料理をつくりもてなしてくれた。操は、奥ゆかしく聡明な女性だった。江花の影響もあって日記をつけたり「新聞の仕末は妻の務かな」という句を読んだり、のちには江花や信勝の句会に加わることもある。その日は信勝に「間食はやめたほうがいい」と語った。
この日信勝は『波葉篇』を江花に見せたのだが、日記にそのことを記してはいない。「先生は、貧しかった時分古本を売ったことがあるが而し御自分の作物を買ひに来ても猥りに売らなかった。無論今日迄懸賞など云ふものに応募したことが一度もないと語られた」と書いたのみである。江花のほうの日記には「大井君が来て自作『波葉篇』を見せる、波葉とは同君の雅号だ」と記している。
『波葉篇』を読んで江花はどう感じたのか。江花は『波葉篇』に「叙」として次のような文章を寄せているという。
『波葉篇』を一通り読んだ後に記したものだろうが、ただ褒めるだけでないのがいかにも批評家らしい。3年後の明治41年、冷光とって最初の出版となった『立山案内』に対しても、評価するばかりの後世の研究者とは違って、江花はしっかり批評をしている。信勝は嬉しかったに違いない。ここで注目すべきは、江花が信勝の友人関係の濃密さに感心して、それに比べると自分は34歳にもなって友情は乏しいと告白したことであろう。江花は、決してお世辞ではなく、15歳下の信勝の生き方に尊敬の念をいだいたのである。
信勝の日記に関して、後年、江花が記したもう一つ回想文がある。
信勝の日記を読み解くと、日記を江花に見せたという逸話は『波葉篇』日記についてのものである。江花がここで「借家墨染日記」と記したのは単なる思い違いかもしれないし、また別の日に冷光が日記を見せたのかもしれない。
師弟、夜の散策でしんみり
話を日曜日ごとに行われた遠足に戻そう。10月6日、検査所にいた信勝に、県庁内の五艘三郎から回章が回ってきた。江花が出した「柳の島探検の召集状」だった。2日後の日曜日に、神通川のなかの無人島に行こうという誘いだった。江花信勝双方の日記に初めて「探検」と記し、信勝の日記では「隊員」という表記もみられる。このあたりが井上江花の私的グループ「北陸探検団」の始まりとみられる。信勝はここで探検心を培い、のちに明治40年の立山登山(高岡新報記者)や、明治42年の夏山臨時支局「立山接待所」(富山日報記者)、明治45年の『少年世界』探検隊による針ノ木越えなどにつながっていく。
10月8日の「柳の島探検」は小春日和に恵まれた。当時は河口慧海のチベット探検や大谷探検隊のシルクロード探検で、探検がブームになっていた時代である。江花たちの探検は、それらとは比較しようもなく、遠足や散策あるいはハイキングといったものだが、江花はユーモアで探検と言ったのである。
柳の島は神通川の大きな中州のことらしい。鹿島町のよりやや上流の、井田川との合流地点あたりのことか。参加者は、井上江花・五艘三郎(鉄舟)・日比野貞恭(青海)・三鍋保三(竹聲)・大井信勝(波葉)・牧野庄太郎(浮瓢)・川上の6人である。江花以外は、役所に勤める若手たちである。五艘はのちに『越中史料』編纂主事となり、三鍋・大井・川上は米穀検査所に勤務していた。残念ながら、信勝の日記にも江花の日記にも柳の島探検の詳細は記されていない。
というのもこの日の記録を、探検記や記念絵はがきにまとめることになっていたから、日記では略されているのである。信勝は、柳の島探検から返った日の晩、記念絵はがきをつくるため、すぐにスケッチを書き直している。
翌々日、仕事を終えたあと、庁舎の製図室で記念絵はがきを印刷しようとしていると、江花がやってきた。『波葉篇』を信勝に返しに行こうとしていたのだといって、早速手伝ってくれた。約20組を印刷して、江花の家に戻った。
次の日からは探検記の編集である。3日間毎晩、江花の家に来て鉄筆を使っての原稿書き。農学校で校友会誌を編集して以来のことだった。熱中して自宅に帰るのは12時すぎである。五艘も2晩一緒に書いたが、最後の10月13日は江花と2人になった。
その夜は月が美しかった。作業の合間、江花に誘われて夜の散策に出た。月をめでながら一本榎の土堤を散策した。遠くに汽車の火が見えた。江花は迷信話や自分の主義を語り、信勝は自分が生まれ育った村のことをしんみり話した。家に戻ると、操が夜食に寿司をつくり労をねぎらってくれた。
10月14日土曜日。庁舎に居残った信勝たち4人に江花が加わって記念すべき柳の島探検記を製本した。残念ながらこの探検記は所在が確認されていない。
1週間後、上京することになった日比野青海の送別会が西洋料理店「大槙」で開かれた。翌日、団員8人が総曲輪の黒田写真館で揃って記念写真を撮った。[9]
お伽噺を聞かせるのが好き
明治38年10月24日。この夜、江花の家に遊びに来たのは信勝と五艘である。3人で、互いの生い立ちや趣味、好き嫌いなどを書き比べて楽しんだ。そのときの「身上くらべ」という一文が活字で残されている。完全なものは未見だが、信勝の分はおおよそこうである。
新聞記者になる以前から、児童雑誌編集者なる以前から、すでに、野原などで子供にお伽噺をしてやることが好む遊びだと書いている。信勝が目指している方向はこの時点ですでに、お伽噺を書く巌谷小波であり、お伽噺を語る久留島武彦であったに違いない。
記憶に残る一日
江花との交流はさらに深まりを見せる。探検団の青海記念送別号を江花の家で書いた翌日、10月29日、江花に付き添って神明村有沢の浅岡宗吉を訪ねることになった。
2人は五斗目堤から有沢橋に出た。途中、洋傘をさした親爺に出会って共作した句。「大傘の風穴やぢゝイ小春哉」。宗吉の家は稲扱きの最中だったが、2人を歓待した。宗吉の父は柳の島の昔の話を語って聞かせてくれた。
宗吉の母がわざわざぼた餅をこしらえ出したと知って、2人は恐縮して宗吉の家を後にした。2人は北に向かって大根畑を通り抜けた。江花は肥の香が好きだとおかしなことを言ったり、四国松山の七不思議の話をしたりした。神通橋詰まで来ると数十人が大根を洗いをしていたのだが、夕日に尻を見せて並ぶ光景が異様でおかしかった。その晩、再び江花の家を訪れ、『子規随行』を見せてもらいながら、宗吉が持ってきたぼた餅を食べた。身長154センチの小柄な体ながら、ぼた餅を6つもたいらげると、妻の操がびっくりした様子だった。この日は、信勝が1年で最も忘れられない一日だったと、1年後に第35連隊の兵営から出した江花への書簡に記している。
最初は言われるままに遠足や探検に参加した信勝だったが、次第に野外に出て句を詠みながら探訪することに楽しみを感じるようになったようだ。11月3日には単独でスケッチ遠足に出て、馳越や牛島、百塚のあたりをめぐっている。次の土曜と日曜は、日比野青海の送別記念号を一人で印刷し製本した。信勝は井上江花の「探検団」の中心メンバーとなっていた。
入営前に送別会
11月17日は富山市南部の郊外、熊野川の川辺を散策して楽しんだ。参加者は江花、五艘、三鍋、牧野、中田と信勝の6人。夕方から富山日報記者の泉富喜(渓川)も加わって、12月から兵営に入る信勝の送別会となった。場所は県庁近くの越川楼。三鍋と牧野が踊り出すほどのにぎやかさだった。宴の後、三鍋と牧野は信勝を抱えるようにして東新地の花街に連れ出した。
20日は江花宅で五艘と3人で絵はがき比べ。23日は5人で郊外漫歩。25日は江花宅で晩餐のもてなしを受け、「涼江嬢に画をかいてあげたり井上様から鵞の絵はがきを戴いたり、奥様の即興の俳句をきいたりおしまひに我が家庭の内情を話したりして辞したのは十一時すぎ」。帰り際、江花の妻、操が「入営中にうまくいかないときは言ってください、援助しますよ」と声をかけてくれた。感謝でいっぱいだった。
兵営への出発の前日、11月27日。登庁すると辞職願を書き、事務引継ぎをした。夕方5時になって退職辞令の伝達があり、賞与5円を受けた。退庁後、検査所長の家と大家を回ってから、江花の家を訪ねた。すると、江花は最後の送別会だと言って、五艘とまた小宴を開いてくれた。
江花にしてみると、1年志願で兵営に入らねばならない信勝の境遇を不憫に感じたにちがいない。信勝は表にほとんど不満を出さずに、探検団で皆を楽しませてくれた。思い返せば、信勝が江花の家を訪ねて家庭の温かみを感じたのは7月21日だった。江花の雑纂を借りて自らの雑纂を編み、絵はがきや写真を交換し趣味を比べあった。9月24日に初めて遠足に参加し、探検団の仲間の輪に加わった。そして、得意にしていた雑誌編集を通じて、親睦を深めていった。探検の始まりから数えるとわずか2か月余りの短期間だが、このとき養った探求心が人生の糧となり、新聞記者や雑誌編集者への道が開けてゆくのである。
◇
大井信勝(冷光)と井上江花の交流(明治38年9月~11月)
[1]高岡新報の連載「冷光余影」(大正11年1月1日~6月18日、71回)は、大正10年5月に発行された大井冷光の遺著『鳩のお家』の追悼文として、巌谷小波が「我等は此鳩の家の陰に集うて永く其余影を称ふべきである」と書いたのに呼応したものとみられる。
[2]江花の『老梅居日記』(明治38年)には大井信勝に絵はがきを発信した旨の記述はない。
[3]井上江花の家は借家で、大家は三海春(みかい・はる)という年老いた女性だった。『江花叢書』第1巻(波蘭陀)所収の「私の借家史」では、明治37年夏、引っ越したとある。家賃は3円70銭で、家主は向井たるという64、65歳の女性だったとあり、三海春と同一人物のようである。庭に古い梅の木があったことから老梅居と言ったことは前述した。江花と冷光の日記には、鹿島庵、崑崙庵とも記されている。庭は田んぼに続いて、神通川の土堤と土堤を隔てて遠くに、五福の桃林が見渡せたという。そして後ろの田んぼの道は後年、連隊橋(富山大橋)に続く道になったという。『江花文集』第1巻「崑崙日記」では、明治41年に、三海春が植えた柿の木が実をつけるようになり、江花と冷光が木登りする話が出てくる。
[4]明治36年1月22日の日記に「清水君を訪ふ子規先生の遺稿を読む流石は才子だ豪傑だ、曰く、秋風や我に神なし佛なし」とある。この句は「行く秋の 我に神無し 仏無し」が正しい。
[5]『江花雑纂』は、第8巻「富山藩士系譜」(明治39年4月清写)が富山県の高岡市立図書館に所蔵されている。細かい筆跡はいかにも学者肌らしい。現存が確認されている『江花雑纂』はこの1冊のみである。
[6]※〓はおうへんに黄。
[7]『借家墨染日記』(明治38年)に出てくる氏名は、盛一79回、江花69回についで島谷が52回と多く、島谷との親交の深さがうかがわれる。
[8]井上江花の人間観察力は鋭くかつユーモアに満ちている。明治37年1月の『高岡日報』に「越中美人論」を書いたのだが、ついでにライバル紙の富山日報の記者を観察した一文をつくり富山日報に投稿したのである。「坊主、杓子、新聞記者、此の三なる者は到底真直ぐの材より成るものでないさうである」と書き出し、匹田主筆をはじめ5人の記者を「天降人種」とか「蝦夷人種の子孫」とか次々にユーモアたっぷりに評した。『富山日報』は、面白いと逆手に取り明治37年1月6日の1面に「人種学上より見たる富山日報編集局」として掲載している。また明治41年11月、競合紙『北陸タイムス』が創刊されたときに他紙とともに祝文を寄稿したたが、「紋切型では聊か相済まぬ」として『北陸タイムス』3記者の人物描写を書き、異彩を放っている。
[9]大村歌子編『天の一方より』p373の写真がこれに当たるのであろう。同書では、立山探検隊の写真となっているが、立山登山は夏であり、服装は夏らしくない。前3人の中央が主賓の日比野、右端が江花、左端が五艘であろうか。団員中最年少とみられる信勝は後列の左端である。11月4日に写真が仕上がったというから、当時撮影からプリントまで約2週間かかっていたことになる。井上江花『老梅居日記』p57。
【追記】重要文献『探検』14号
[10]富山県立図書館に2023年11月24日、『探検』第14号(明治43年7月10日発行)が所蔵された。北陸探検団が発行した雑誌『探検』で確認される唯一の冊子で、極めて貴重なものである。
その内容は、
である。このうち「戯書三人気質」は「身上くらべ」の元になった文章である。
『探検』第14号はその存在が予期されていたものである。
本ブログでは河田稔著『ある新聞人の生涯 評伝井上江花』(1985年)の第4章「大井冷光と親交」を参考にしてきた。『ある新聞人の生涯』は、『北日本新聞』夕刊で1984年に「野花一茎」として連載されたものだが、書き出しにこうある。
『探検』第14号の内容を見ればわかるように、自伝の断片とは第14号に掲載されている「野花一茎」なのである。長らく出典が不明だった件は、これで解決を見たことになる。この『探検』第14号によって、井上江花研究が一段と進むことを期待したい。
なお、『探検』第14号の奧付には「明治四十三年七月十日」「発行兼編輯者 富山市西四十物町一番地 赤祖父茂正」「発行所 北陸探検団」などとなっている。赤祖父は、高岡新報記者の赤祖父凉月か。今後、詳細な分析が必要だが、随所に「冷光」の書名が見られ、『探検』第14号の編集に大井冷光が深くかかわっていたことは間違いない。
(2013/01/27 21:39)(2024/03/13追記)