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吉田博 木版画の道を選んだ理由


(1)高階氏評論は言葉足らず

西洋美術史界の重鎮、高階秀爾氏が没後70年吉田博展が東京都美術館で始まってしばらくして新聞に評論記事を書いていた。さすがは毎日新聞と言いたいところだが、率直に言って新鮮味は乏しかった。もっと焦点を絞って書いてほしかった。

1400字余りという紙面の制約もあるから、そう細かいことは書けないのは分かる。しかし、肝心かなめの部分がずいぶん粗っぽい。それは吉田博が木版画を本格的に手掛けるようになった理由だ。これについては惜しまずに書いてほしかった。ダイアナ妃だとか不同舎だとかはこの際、触れなくてもいい。洋画から木版画へと進んだあたりを詳しく書いていただけたら、どんなに読み手はわくわくしたことだろう。

高階氏の文章を部分引用しよう。

転機が訪れたのは、大正12(1923)年、関東大震災の時である。吉田博自身は災害を免れたが、被災した友人たちの救済資金を得るため、仲間の作品800点あまりとともにアメリカに渡り、各地で売り立てを行った。そのとき、油絵よりも版画の方がよく売れたので、改めて木版画の魅力に目覚め、帰国後木版画制作に打ち込むことになったのである。そのとき、心の奥では、海外では相変わらず異国趣味に訴える浮世絵の人気が高い実情に対して、特に風景表現では、光や色彩の微妙な変化も含めて、荘厳なまでに奥深い自然の姿を表現する点では、自分の作品の方が優れているという自負にも似た芸術家魂があったかもしれない。

(高階秀爾「心に訴える風景を版画」『毎日新聞』2021年2月10日)

大震災で罹災した画家の救済目的で渡米し、作品を売ったというのは事実である。その先がまずい。油絵よりも版画がよく売れたので木版画に打ち込むことになった、というのか。儲かるから木版画を制作するようになったと誤読されかねない書き方ではないか。吉田博ファンとしてはがっかりだ。高階氏はすぐ後に「芸術家魂があったのかもしれない」と補っているものの、どうも心もとない。自分の風景表現のほうが浮世絵よりも優れていると吉田博は自負を抱いていたのでは、という推論である。全体に言葉足らずではないか。「売れる版画」と「芸術家魂」、どちらに比重をおくべきなのか。

あの世の吉田博はきっとこうつぶやくだろう。「高階クン、僕の『Japanese Woodblock Printing』(1939年・国会デジタル)をちゃんと読んでくれたのか」。これは吉田博の木版画を理解するための基本書なのだが、英語なのでハードルがかなり高い。(つづく)

(2)粗悪な浮世絵を見て恥ずかしい?

洋画家として名を成していた吉田博が49歳にしてなぜ本格的な木版画の道に進んだのか。以前にも書いたがこの問いに対する答えはけっこう難しい。「売れる版画」と「芸術家魂」、どちらに比重をおくべきなのか。

図録『没後70年 吉田博展』では、第1章にこう説明されている。

大正12(1923)年9月の関東大震災で、版元渡邊庄三郎 のもとで手がけた木版画の版木は焼け、作品の大半も灰になった。同じ年の暮れ、博は被災した太平洋画会の仲間を救うため、800点もの作品を携えて三度目の渡米を決行する。ところが画友たちの油絵はほとんど売れず、好評だったのは渡邊から託された焼け残りの木版画であった。ここで博にひとつのアイディアが浮かぶ。自らが版元となり、思うままに木版画を制作してみよう――。

(図録『没後70年 吉田博展』2019年)

ここでは「売れたので」と書いてないが、高階秀爾氏の論理展開とほぼ同じと言ってよかろう。動機を単純化している。

同じ図録のなかで、福岡県立美術館学芸員の高山百合氏が「近代日本の木版画の流れ」という7000字ほどの論文を書いている。

前半のおよそ半分で、浮世絵と新版画、創作版画運動などの版画史を説明してあり、それは簡潔で分かりやすい。そのうえで高山氏は、吉田博の版画へのかかわり方をつぎのような流れで説明している。

  1. 関東大震災

  2. 大正12年12月、被災した太平洋画会の仲間を救うための作品販売という名目で渡米

  3. アメリカ各地で展覧会 水彩画は売れず、木版画が注目されていた

  4. 極めて粗悪な幕末の浮世絵までもが高値で取り引きされるのを目の当たりに

  5. 渡邊の新版画が思いのほか賞賛された

  6. 心の中には、渡邊版に対して既に飽き足らない思いが芽生えてきていた

  7. 大正14年8月、帰国する頃には、その決意を固め、渡邊庄三郎の元を離れる

「売れる木版画」とは書かずに、「木版画が注目されていた」と書いている。

「その決意」に至る理由が肝心なのだが、高山氏は掘り下げていない。文脈から推定すると、「渡邊版に対して既に飽き足らない思い」が理由ということになろうが、ちょっと煮え切らない。高山氏はなかなか慎重な書き手である。

以前に記した吉田司氏の小論にも、この木版画に至る理由については目立った考察がない。

④の粗悪な浮世絵については、吉田博研究の国内第一人者、安永幸一氏が図録『生誕140年 吉田博展』2016年で指摘しているものである。約20000字の論文のうち、重要部分のみを引用する。

こうして渡邊版画店と関係ができた博は渡邊の依頼で新たな木版画を制作した。これが渡邊版画店から発売された“渡邊版"8点である。大正10(1921)年から翌年にかけての《牧場の午後》や《穂高山》《帆船(朝日、日中、タ日)》などがそれにあたる。
しかし、この頃までの博には、渡邊版画店を通して出版される木版画にはそれほどの強い興味も意欲もなかったようだ。厚遇されているとは言え、所詮、博は単なる"下絵描き"にすぎず、あくまでも主宰者は渡邊庄三郎であり、下絵描きも(彫師も摺師も)その支配下にあって自分の自由にならないということにいらだちと不満を募らせていた筈である。何から何まで徹頭徹尾、自分でやらないと気がすまない博にとっては当然の思いであったろう。
そうした博を木版画へと一気に邁進させたのは、大正12(1923)年にふじを夫人を同伴した3回目の渡米であった。同年9月1日に発生した関東大震災で被災した太平洋画会会員の救済を目的に、会員の作品約800点を持参しての販売目的の渡米であったが、この時に持参した、僅かに残っていた“渡邊版"木版画(渡邊版画店も被災し、博の版木も木版画もすべて焼失した)が思いのほか好評だったことに加えて、何よりも博の気持ちを大きく動かしたのは、幕末の極めて粗悪な浮世絵あたりでさえも高値で取引きされているのを見て、日本人として恥ずかしいと痛切に感じたことである。そして、外国人に見せても恥ずかしくない、新しい時代にふさわしい日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らねばならない、と強く思うようになったのである。

(安永幸一「近代風景画の巨匠吉田博一その生涯と芸術」『生誕140年 吉田博展』
太字はブログ筆者による)

安永氏には『山と水の画家 吉田博』2009年という単行本があるが、このあたりの記述はほぼ同じである。「粗悪な浮世絵」「日本人として恥ずかしい」と書かれた根拠は何か。出典が書かれていないので検証は不可能である。

木版画に限って言えば、この安永論文よりももう一段詳しい論文がある。それは、同じ図録『生誕140年 吉田博展』にある西山純子氏の「吉田博の木版画一ホイッスラーから見たひとつのあらすじ」である。(つづく)

(3)外国人画家への対抗心

洋画家、吉田博はなぜ木版画の道に進んだのか。

千葉市美術館の西山純子氏が書いた「吉田博の木版画一ホイッスラーから見たひとつのあらすじ」図録『生誕140年 吉田博展』(2016年)という小論は、この数年では最も示唆に富む論文である。約14000字あり、大変読みごたえがある。ただ、その一つの粗筋のすべてに首肯できないし、「敗北」など一部の表現にはすでに異議申し立てを書いておいた。

この研究者は、吉田博研究の第一人者である安永幸一さんを除けば、もっとも吉田博に肉薄している人かもしれない。丹念に資料を追った形跡があり、その意味では敬服する。版画を専門領域としているだけに、吉田博の木版画に関する記述はさすがである。冒頭から『Japanese Woodblock Printing』(1939年 英訳:原田治郎)を繙いているから説得力がある。

西山氏の説明は次のような流れである。

  1. 関東大震災

  2. 大正12年12月、罹災した太平洋画会の仲間を救うべく渡米

  3. 作品を売るという点において、アメリカはひとつの座標軸

  4. 太平洋画会員の作品はほとんど売れず、渡邊版(伊東深水・川瀬巴水・吉田博)に人気が集まった

  5. 幕末の低俗な錦絵と同じ文脈で語られることが我慢ならなかった

  6. 深水や巴水の一おそらくは自作を含めた渡邊版にも飽き足らない思いが募った

  7. 背景には、先立って渡邊版を版行していた外国人の存在

  8. バートレットやブラングイン、キースの「日本流の木版画」が好評

(4)「負けず嫌い」日本のため版画復活めざす

吉田博が木版画を本格的に始めた理由について、妻の吉田ふじをはいくつか証言を残している。

1978年、90歳のときに出版された回想録『朱葉の記』が重要であろうことは分かっているが、残念ながらまだ読む機会がない。ここでは、もう一つの重要資料である「亡夫の思い出」『造形』(No.39、昭和33年6月)を紹介したい。「亡夫の思い出」は70歳のときの寄稿だから、もしかしたらこちらのほうが重要かもしれない。

『造形』はこの号で「吉田博回想ー吉田一家の系譜」をいう特集を組んだ。全58ページのおよそ9割を吉田博関連で占める。藤懸静也、ブレークニ、荒城季夫、石川寅治、高橋虎之助、吉田ふじを、吉田遠志、吉田穂高らが寄稿している。

「亡夫の思い出」はわずか1ページで1200字弱と短いが、かなり重要なことが書かれている。大震災後の渡米から書き出し、「大都市で展覧会を開催いたしまして可成の成績を上げて使命を果した後、ヨーロッパを回つて帰国」したという。

ここからが重要なので、引用する。

その旅行中に回った美術館などでは米人画家バートレット、英国のブラングインやキースなどが日本流の木版画を作つて盛んに展覧会など開催して評判を得て居り、又それ迄に作った亡夫の七種の版画も各地で好評を得たのでした。
日本国内では当時はまだ極く少数の人以外は昔の浮世絵だけを賞美していました。そして現代の木版画には皆が無関心であつたので研究する画家も少なく、したがつて良いものも少なく、此のままでは日本特有の木版画芸術が衰微してしまうと非常に残念に思つて、「自分は帰国したら国家の為此の芸術を大いに復活させなければならない」と思い立ち、帰国早々研究を始め、まずその外国旅行から得た画材と日本アルプスの題材の作品を作り上げ、外国旅行の油絵と共に三越で帰朝作品展を催しました。

(吉田ふじを「亡夫の思い出」『造形』No.39、昭和33年6月)

3人の外国人の名前が記されている。バートレット、ブラングイン、キースなどの「日本流の木版画」が評判になっていた、というのがポイントである。一方で、木版画を研究する日本人画家は少なく、日本特有の木版画芸術が衰微するように見えて残念だった。そこで、「国家のため」木版画芸術を復活させなければならないと吉田博は思い立った、とふじをは回想している。外国人が「日本流木版画」を進めるのに対して、日本人芸術家として負けてはいられない、という心情が読み取れる。「国家のため」とあるが、これは政府のためというよりも、日本の芸術文化のためという意味合いであろう。「負けず嫌い」「使命感」が木版画に進む理由とみてよいであろう。

前述の西山純子氏はこの証言をもとに「バートレットやブラングイン、キースの「日本流の木版画」が好評を得ていたことが心を決めさせた」と記したわけである。そして「ブラングインがなぜ登場するのかは不明だが、チャールズ・ウィリアム・バートレットは大正5年から、エリザベス・キースは8年から庄三郎と組んで木版画を制作している」と紹介している。ふじをの文章では、「旅行中に回った美術館などでは」とあるから、アメリカかヨーロッパで3人の外国人の木版画を見たということになるが、このあたりはまだ断定はできない。

以前に、『山書研究』に掲載された内田有氏の「忘れられた山の画家・吉田博」を紹介したが、内田氏もまたこの「亡夫の思い出」の証言を参照したようである。

さて、取材者によって、執筆者によって、ふじをの証言には揺らぎがある。

関野準一郎という人は、昭和56年に93歳になったふじをから次のように話を聞き取っている。

大正期に入って四〇歳を過ぎてから木版に手を染めました。動機ははっきりわかりませんが、アメリカ旅行で日本画の清方門の川瀬巴水や伊藤深水さんの版画をしばしば見たことと、太平洋画会の運営資金や、その後の大震災の罹災画家救済で、売りやすい木版画を選ばせたようです。長姉が浮世絵松木喜八郎さんの五番目の方に縁付きまして、この方が銀座の版元渡辺庄三郎を紹介して下さいました。渡辺さんが木版画は日本独特の伝統的な芸術として欧米に大変親しまれていると勧めたことにもよりました。博はそれから版画を研究してみようと、例の努力家ですから、彫り摺りから色の仕組みを研究する日々が、長く続きました。そして渡辺版画店から「牧場の午後」「穂高岳」「帆船朝日、日中、夕日」「猟師の話」「馬返し」などの木版画が生まれたのです。それから長い年月、夏期は油絵から版画のための取材旅行、冬期は家にいて版画制作と続いたのでした。

(関野準一郎『わが版画師たち――近代日本版画家伝』1982年)

ここでは「売りやすい木版画」とあるだけで、外国人画家は出てこない。少々時系列がおかしくなっている。

もうひとつ、オリヴァー・スタットラー『よみがえった芸術―日本の現代版画』2009年ではふじをの証言が次のように紹介されている。

夫が油絵から版画に転向したことについて、ふじをは1923年に夫婦で行ったアメリカ旅行をきっかけとしてあげている。「関東大震災後の12月に日本を出発しました。夫の絵のほかに、私たちは他の多くの作家の作品も持っていきました。震災で何もかも失くした人たちを助けたいと思ったからです。いくつかの大都市で展覧会をしましたが、絵はがっかりするほど少ししか売れませんでした。それより夫が持っていったわずかな版画のほうがずっと関心を集めたのです。彼の初めての版画で、渡辺版画店から依頼されて同店が刊行した数点でした。この版画が人気を博したことと、数人の外国人版画家が日本でセンセーションを巻き起こした直後だったことで、日本人はかつて日本の独壇場だった分野に専念したほうがいいのではないか、と夫は考え始めたのです。そこで、帰国するとすぐ版画に集中し始めました。自らが版元になると決めたのも、そのころです。」

(オリヴァー・スタットラー『よみがえった芸術―日本の現代版画』2009年)

この文では出典が不明だ。「外国人版画家が日本でセンセーション」とあり、それに刺激を受けた旨が書かれている。ふじをが「センセーション」という言葉を発したのか、それとも翻訳の過程で出てきた言葉なのか。

やはり、ふじをが70歳で書いた「亡夫の思い出」のほうに重きを置いて読み解くのがよいのでないか。(つづく)

(5)版画制作の資金を油絵で補う

吉田ふじを「亡夫の思い出」は、1925年の帰国後、吉田博の研究熱心さについて300字を費やして書いている。全文を公開したいところだが、著作権からそれはできない。300字に続く次の文章が興味深いので引用する。

版画を始めて約十年間はほとんど製作に没頭して、もっぱら資金をつぎ込むばかりで、大抵の人なら続かないで途中でやめる筈のところをやり通しましたが、その後だんだん世の中に知られ、外国にも知られて米国ではトレドー美術館の主催で各都市を巡回して展覧会が開催されたりし始めました。その内、ボストン、セントルイス、シカゴなどの美術館で蒐集されるようになり、外人の訪問客もふえる一方となりました。此処までやり通せたのは当時油絵のほうが順調に行っていたので版画製作の資金は此のほうで不足をおぎなって行ったわけで、よくあれだけ続けられたものと今でも考えます。

(吉田ふじを「亡夫の思い出」『造形』No.39、昭和33年6月)

大震災罹災画家を救うために渡米して絵や版画を売り、帰国したのが1925年8月。トレドー美術館主催の現代日本版画展(A Special Exhibition of Modern Japanese Prints)は1930年3月から始まるから、その間、約4年半である。

版画の制作には多額の費用がかかる。最初の10年は資金をつぎ込むばかりで、油絵を売って得た資金で補っていたから続けられたらしい。単に「版画は売れるから儲かる」というのは、版画という事業の内情を知らない素人の予断なのだ。木版画が売れたので木版画の道に進んだという書き方はやはり短絡的だろう。

油絵で得た資金で木版画を制作という見方はほかにもあった。

楢崎宗重「精度の高い風景木版画 吉田博の原位置と作風」『版画藝術』12号(1976年)である。古めかしい表現が多い。が、噛めば噛むほど味わい深い。一読する価値のある評論である。

美術史評論の楢崎宗重(1904-2001)は、浮世絵研究の第一人者として日本浮世絵協会の理事長・会長を務めていた人である。吉田博没後16年の1976年、72歳の時にこの約3900字の評論を書いた。評論の冒頭で、吉田博に会おうと思えば会えたのにたまたま一度も会う機会がなかったと打ち明け、評論の最後を「いまにして想えば、画伯にお目にかかって、その心情をよくきいておけばよかった」と締めくくっている。親近感がわく人だ。

楢崎は吉田博の版画を「あたかも浮世絵版画極盛の江戸末期ほどの精度」と評し、「巴水が広重その人の再来とすれば、画伯は広重を意識せず、広重を超克することによって広重に象徴される日本民族感情表現の系譜をついだと言えば、詭弁であろうか」と述べている。なるほどと思う。

日本の版画の流れを俯瞰したうえで、楢崎は次のようにみる。

だが、恩地孝四郎らによって激越なまでに主張された個性主義や純粋版芸術主義は、現時版画ブームに遭会しては修正されねばならなくなったのではなかろうか。支持者少なくて数枚の印刷で事足り、単純な印刷度数で絵ができる間はよいが、今日の国際的多数社会では大量発注に会えば立ちどころに純粋態度を放棄し崩壊せざるを得ないであろう。
さて吉田博版画はどうであったろうか。画伯は渡辺庄三郎版元とまず接触した。おそらく油絵作家であり、霧にむせび、雪白々と、月光明皎々の景趣、うつして傑作多い広重らの画境とちがう豊穣で多面的な芸術内容を版画として制作するには、創作版画家の主張などでカバーできるものでないことを知ったにちがいない。そこで自ら主宰(版元的地位をかね、油絵でえた資金を版画に投入)して、画き彫り摺りの完遂を彫師と摺師を完全に自己に統属せしめることによって果たす態度をとったのであろう。いわば版元制と創作主張との双者を身をもって兼備し、第三方式を確立した人、それが吉田博であったと見てよいのではなかろうか。

(楢崎宗重「精度の高い風景木版画 吉田博の原位置と作風」『版画藝術』12号 1976年)

むろん楢崎は、吉田博が木版画の道を進んだ理由を「版画が売れるので」などという単純な記述をするわけがない。ここでは「油絵で得た資金を版画に投入」という視点にしっかり言及している。版画制作というものがいかに資金を要するかということを分かっていたのであろう。

生誕140年展と没後70年展の評論記事で欠けていたのはまさにこの視点だったのではないか。おそらく、吉田ファミリーの人々はそれを内々で伝え聞いてきたことであろう。儲かる版画に吉田博が飛びついたかのような誤解を生じさせかねない記事には、私のような部外者でも少々違和感を感じるのである。

それにしてもである。売るために絵を描いたという単純思考でいくなら、吉田博ほどわかりにくい画家はいない。わざわざ雲上の世界にまで苦労して足を運んで絵を描くのか。外国人に売れる絵を描くという考えなら、上野公園か京都奈良かあたりに行って油絵だけを描いていればよいではないか。(終)

補遺 『朱葉の記』

後日、『朱葉の記』を読むことができた。なぜ木版画の道を選んだのか、この書に示されたふじをの見方は曖昧である。ある時は「売れる版画」であり、ある時は「芸術家魂」であった。たとえばこうである。

どうして木版をやりはじめたのか、私には判りませんが、やはりアメリカでの体験や、会の運営資金のことや、それに、その後の大震災のときの罹災画家救済のことなどが、直接間接に売りやすい木版画を選ばせたことも考えられるのです。

(『朱葉の記』)

アメリカでは当時から、清方門の川瀬巴水さんとか、そういう日本画家の版画が、渡辺さんを通してアメリカへ送られておりました。博も、あちらで、びっくりしていました。そして、自分も帰国したら、うんと版画を研究してみようという気になったこともあったでしょう。ただ、昔のものの真似をするのをいやがりました。
博の考えでは、古い時代遅れの木版画が、アメリカへまでたくさん流れこんでいるのを残念に思ったことでしょう。なんとか、もっと新しい日本の仕事を、自分はやってみようと思い、版画に向かっていったのだと思います。

(『朱葉の記』)

他にも関連の記述はあるが、これ以上はぜひ『朱葉の記』を読んでみてもらいたい。ふじをさんにもしインタビュー―できたとして、「売れる」か「芸術家魂」かと問い掛けたらどんな答えが返ってきたであろうか。たぶん、ふじをさんは「そりゃ両方ですよ」と言うのではないか。芸術家魂だけでは生活できないし、売れる絵ばかり描いていてどこが面白いのか。画家の人生とはそんなに単純ではない。(2023/9/29)

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