第5章第4節 河東碧梧桐と石崎光瑤
蓄音器を鳴らしもてなし
午後6時に食事が済んだのを見計らって、大井冷光は蓄音機を鳴らし始めた。蓄音機は、富山日報が考えた接待所のもてなしの目玉だった。室堂滞在初日の7月25日、宿泊者は43人である。軍楽《式三番叟》が鳴り響くと、堂内の喧騒はやんで静まり返った。そして演奏が終わると、人々は「面白い」「室堂で蓄音機は振るっている」「おらあ立山で初めてこんな面白いものを聞いた」などと口々に言った。気をよくした冷光は次に常磐津をやった。お染久松野崎村の段になると、それをまねてみる者が出るほどだった。
蓄音機は夜の日課となった。7月28日には本社から新盤が届いている。
蓄音機に興味を抱いたのは、登山客というよりはむしろ登山客を案内する仲語たちだった、と冷光はのちに回想している。ある日、70歳過ぎの男性がわざわざ蓄音機を聞くために室堂までやって来た。冷光が謡曲の《羽衣》を聞かせると、男性は驚いた様子でメガホンの中をのぞきこんで言った。「この下の箱が不思議だ、きっと小さな人間を入れておるのじゃろう、ぜひ見せてくれ、それでなければ旦那は魔法使いじゃ」。[1]富山市で蓄音機が初めて発売されたのは明治39年で、それから3年、まだまだ珍しい機械だった。
接待所で冷光は、事業所などから募集した寄贈品や薬品、記念絵はがきなどを宿泊者に配った。数の少ないものは余興で福引を行った。富山日報社の記念スタンプを押すこともあった。
母の命日に御来迎
滞在3日目の27日。接待所の運営が軌道にのったからか、冷光はこの日、峯本社のある雄山山頂(3003m)に登ることにした。山頂に富山日報社の特設休憩所を設け、歓迎の旗を掲げようというのである。神官の佐伯治重や巡査の有岡らと一緒に、一行13人は早朝出発し、まず浄土山(2887m)に向かった。
遠くに白山が見える中腹まで来たとき、湿ったガスがあたりを覆った。「大井さん、御来迎が見えますぞ」。佐伯が叫んだ。御来迎とはブロッケン現象のことである。たしかに虹らしいものが見えたが、断片がどんより見えただけで、冷光は納得しなかった。そのうち浄土山山頂に着いてしまった。しばらく山頂で御来迎が出るのを待った。
前年に著した『立山案内』によれば、冷光は御来迎という現象に懐疑的だった。「浄土山上より日出を望むに際し、気層の温度及び湿度の不同により、光線屈折の作用を起こし、頗る奇観を呈することあり(中略)然れども、近来は絶えてこの御来迎に接したるものなしといふ」と紹介していた。前日26日の夕方にも、給仕の佐伯親人と会話しているとき、「御来迎を見たことがある」と自慢げに語られ、「そんなものが見えるかい」と打ち消していたのだが、いざ自分の目で御来迎を確かめると気持ちは昂った。浄土山北峰の山頂からしばらく進んだところのお花畑でもまた御来迎を見て、「今更詩人ならば」と思った。御来迎を拝んだのが相当嬉しかったのか、室堂まで降りてすぐ綴った文章にも幸福感が満ちあふれている。
時間を御来迎を見たあとに戻そう。冷光たちは午前8時半、雄山頂上に到着し、休憩所を整えた。といっても「腰掛けを据え、炉を開き、さては歓迎の大社旗を越中湾に臨んだ懸崖に結び付け」としか記述がないので想像するしかない。腰掛けぐらいは運んだのかもしれないが、炉はおそらく石を並べただけ、頂上は形だけの休憩所だったのではないだろうか。
即吟『雪を渡りて』
7月30日午後5時、接待所の幕の外から声がした。「碧梧桐さんが来られましたよ」。俳人、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう、1873-1937)が室堂にやって来たのだ。「碧君の事は両三日前から待っては居た」と冷光は記している。
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