第7章第6節 匹田主筆の辞職と猛獣狩中止
突拍子もない企画
『富山日報』明治43年元日号の2面に「立山山中猛獣狩団員募集」という社告が出ている。
正月号で戌年の記事が多いなか、熊狩りに参加しないかというのだから、読者はさぞかし驚いたことだろう。今で言うなら「クマ狩り体験旅行」「クマ撃ち体験ツアー」の募集といったところか。それにしても現代人には度肝を抜かれるような企画である。
同じ元日号の1面に主筆の匹田鋭吉が「活動の新天地」という新春論説を書いている。
一昨年浦鹽に団体旅行を企てたのも、昨年立山々頂に大演説會を開ひたのも、皆此元氣ある奮鬪的國民を造り出さんとする方針に出たのであります。本日の紙上で発表しました立山山中猛獣猟の壮擧の如き、我社の計畫の愈々出でゝ愈々壮なるは、世界文明の進歩の益々出でゝ益々盛んなると相俟って現はれたるものに外ならぬのであります。(明治43年1月1日『富山日報』1面)
立山山頂演説会とは、大井冷光が立山室堂に夏山駐在した企画を指す。この猛獣狩りという企画にも冷光の影が見え隠れする。社告の文章を引用しよう(仮名遣いや漢字表記はあらためました)。
匹田は5日後の論説欄でさらに、特に青年政治家や青年実業家に参加を呼び掛け、その教育的効果を訴えたうえで、こう書いている。
約1年前の明治41年12月、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが退任後、アフリカへ狩猟に6か月間出掛ける計画というニュースが世界を駆け巡った。『富山日報』も同年12月25日に「ルーズヴェルト猛獣狩の計畫」と報道したから、読者は「立山山中猛獣狩」と聞いて直感したことだろう。明治時代後半は探検ブームである。明治39年5月に雑誌『探検世界』(成功雑誌社)、明治41年1月には雑誌『冒険世界』(博文館)が創刊されている。
同じ1月6日2面には、朝日新聞の世界一周会を紹介する記事がある。匹田が書いたのだろうか、その書き出しがいかにも自信家の匹田らしい。
ここまで読むと、立山山中猛獣狩は匹田が打ち出した企画のようにも読めるが、裏では冷光がかかわっていた可能性が高い。
明治42年夏の立山駐在で、黒部谷や大日岳を探検したとき、冷光はクマに遭遇することに強い関心を抱いていた。それは、お伽噺にも通じる立山開山縁起にクマが出てくるからであろう。冷光は約1か月の駐在で、中語と呼ばれる山岳ガイドたちと親しくなった。中語たちは麓の芦峅寺村に住み、中には猟師である者もいたであろうから、クマ狩りの話を聞く機会はあったはずである。
立山山中猛獣狩という突拍子もない企画は冷光の発案であったかもしれない。冷光は2年後、雑誌『お伽倶楽部』に「日本アルプス猛獣狩り」という児童向け小説を書いている。立山建夫のペンネームで、それはまさしく立山山中でのクマ撃ちの話なのである。
匹田は6日の論説で立山山中猛獣狩が大評判になっていると書いた。しかし実際には、応募は思うように増えていかない。
『富山日報』は応募状況を逐一記事にしている。それによると、最初の応募者は富山市議の永井平助、次いで富山県議の島荘次、画家の高山富雄、雑誌発行者の三鍋正生(弄花)と続く。高山は明治42年の立山登山の参加者、三鍋はウラジオストク旅行の参加者である。いずれも、匹田や冷光の顔見知りばかりである。
島荘次は、県議の中でも「一度怒れば猛虎一聲月高の慨ある青年政客」という人物で、記事の見出しには「猛虎、熊と闘はんとす 島荘次の奮發」とある。
立山山中猛獣狩参加申込者(申し込み順)
1月10日には、16歳の少年が申し込んだというが、これは立山温泉の経営者の四男だ。
12日に応募したのは、県議の藤田久信(矢乾)である。富山日報元編集長。虎将軍の島荘次に対して「熊将軍の出陣」と紹介されている。
13日に東砺波郡柳瀬村の山本一貫という人物が応募し、7人になった。連日、大きな募集社告を出しているが、応募数はなかなか伸びなかった。
1月16日の『富山日報』3面には「江見水蔭参加せんとす 猛獣狩り益々大人気」という記事がある。江見水蔭は、成功雑誌社発行の雑誌『探検世界』主筆である。匹田が旧知の江見に猛獣狩りを知らせ、江見がぜひ参加したいと便りをよこしたのである。
16日には、広島県から2人の参加申し込みがあった。うち1人は富山県出身者で海軍兵曹だった人物だ。
1月下旬、熊狩りの関連記事が3面に出ている。22日に「大熊一頭射殺す」、28日には「立山の老猟師語る」。後者は、4月に予定される猛獣狩に同行する案内役の猟師からの聞き書きである。記事によると、その猟師は、
などと自信を見せている。
2月16日に長島武右衛門という人が申し込み、計14人となった。その後も、募集社告が何度も掲載されるが、結局これが最後の応募となった。
突然の辞任に驚き
大井冷光を、高岡新報から富山日報に引き抜いたのは、主筆の匹田鋭吉(1868-1944)である。その匹田鋭吉の辞任はあまりにも突然だった。
明治43年2月28日午後3時、匹田は社員を会議室に集めて言った。「一身の都合によって職を辞することにした、円満辞職だ」。わざわざ円満と言ったのが意味深である。読売新聞記者出身で、明治36年1月に着任して7年と2か月、突然の辞意だった。明治43年に入って失策があったわけでない。社業は順調だったように見える。社を牽引し、名実ともに看板だった匹田がなぜ辞めなければならないのか。おそらく冷光も含めて社員は驚きばかりが先行して、その理由は全く分からなかっただろう。
翌3月1日、『富山日報』2面の論説欄に匹田の「告別の辞」が掲載された。「今回突如、止むを得ざる事情あり、辞職を乞ふて読者諸君に別を告げるを得ざるに至りたるは、予の遺憾とする處なり」と記している。
やや大きい活字で約600字。記者としての自信に満ちた書きっぷりは相変わらずだ。辞任の理由が書かれていない。「止むを得ざる理由」そして「遺憾」の2文字がある。
富山日報社は、2月18日の取締役会議で、空席になっていた代表取締役社長に、取締役の金山従革(1864-1936)を選んだばかりだった。金山45歳、匹田41歳である。[1]
理由は路線対立か
『富山日報』は憲政本党(立憲改進党系・進歩党系)の機関誌で、年1回の党県支部の大会には冷光を含め社員が出席している。
熊崎利夫著『匹田鋭吉氏の足跡』(1943年1月28日発行)によれば、匹田の辞任は党内の路線対立に絡むものだったらしい。明治42年ごろから憲政本党は大石正巳らの改革派(大同団結路線)と、犬養毅らの非改革派の対立が激化していた。匹田は若い時から犬養を崇拝していて、憲政本党の県支部の総会を開かせて非改革派支持の決議を行わせた。ところが、富山日報社の役員である関野善次郎(1853-1935、衆議院議員)や田村惟昌(1856-1926)は改革派であったから、匹田の不意打ちとも奇襲ともいえる決議に怒り、主筆辞任となった、という。
『匹田鋭吉氏の足跡』には、犬養が匹田に宛てた書簡という有力な証拠も記録されている。ただ、新聞紙面では、県支部の総会を開かせて非改革派支持の決議を行わせたという事実はまだ確認できない。大同団結に対して批判的な記事を掲載し続けたため、憲政本党県支部の重鎮たちに嫌われて辞任したとみることもできる。
いずれにしても、こうした路線対立に絡む辞職であることは、大井冷光をはじめ社員たちにはよく分からなかったものと思われる。
「告別の辞」の隣りの3面に「雪堂主筆を送る」という記事が出ている。署名は「富山日報編輯同人」である。「余輩同人は日夕幸に主筆と机を共にするを得て有益なる教を得たること枚挙に遑あらざるも脳裡に深刻して終生忘る能はざるは主筆の所謂奮闘主義なり(中略)主筆と袂を分つに至らんとは實に神ならぬ身の露知らざりし處なり」と、匹田の功績を讃えつつ、驚きの様子で綴られている。
告別の辞と同じ紙面には、匹田の上京を告知する記事が出ている。匹田は3月2日に上京し、政治視察と保養のため約2週間滞在する、という。
猛獣狩りは中止に
匹田が去ったことで立山山中猛獣狩はとたんに雲行きが怪しくなった。紙面では3月25日まで募集社告が掲載されたが、1か月間、新たな応募者はいなかった。4月6日、ついに「猛獣狩中止」が告知された。
表向きの理由は残雪が多いからということだが、やはり匹田辞任の影響があったのではないか。
辞任から1か月余りたった4月13日夜、社員約40人による匹田鋭吉送別会が開かれている。最初にあいさつに立ったのは、冷光の先輩にあたる山田鉄太郎(望天)だった。
そしてその3日後、富山ホテルで各界から名士96人を招いて送別会が開かれた。発起人は社長の金山従革で、関野善次郎も出席していた。表向き憲政本党内の路線対立から辞任したようには見えない。とにかくそうそうたる顔ぶれである。永井平助、島荘次、藤田久信は立山山中猛獣狩りにも名乗りを上げた政治家。医師の窪美昌保や『高岡新報』主筆、井上江花の姿もあった。
送別会の様子を伝える18日の記事には、匹田自身が九州日報社から招聘されて20日に富山を出発して福岡市に移る旨の広告も掲載されている。辞任を決めてから上京し、そこで九州就職を決めてきたのだろうか。
なぜ匹田が『九州日報』の主筆に移籍するのか。周囲の人々はおそらく不審に思ったことだろう。『富山日報』の主筆として健筆を振るい、匹田自身に不平不満があったようにも見えない。それどころか、立山山中猛獣狩のような奇抜な企画で意欲に満ちた様子をみると、移籍の理由はまったく分からない。[2]
理由らしい理由を示さずに移籍した匹田を、大井冷光はどう見ていたのであろうか。自分を引き抜いてくれた尊敬すべき主筆が去ったのである。尊敬する巌谷小波との間をつないでくれた恩師であった。夏山1か月駐在の企画に起用してくれた。冷光としては後立てを失うような感じだったのだろうか。それとも、既に記者としては独り立ちし、庇護を受けないで確固たる立場にあったのだろうか。
お伽学士事件
時はやや遡るが、明治43年2月23日に冷光をめぐって奇妙な事件が起きた。名づけて「お伽学士事件」である。翌日の『富山日報』3面に出ている記事をもとに紹介しよう。
2月23日午前、富山市役所に一人の男が訪れた。洋服の上に毛皮の襟巻、いかにも紳士のいで立ちである。名刺を差し出し、「私はお伽学士で松平龍太郎というものだ。東京のお伽倶楽部で尾上新兵衛の門人である、市長にご面会願いたい」と言った。尾上新兵衛といえば、久留島武彦の筆名である。
市長の井上政寛(1863-1945)が応対すると、男は冷光の名前も出してこう言った。「富山市にお伽倶楽部富山支部を開設したい。ついては、富山市に賛助をお願いしたい」。井上は怪しい話とみて、支援を断った。
松平を名乗る男は、同じ日の午後5時ごろになって今度は富山日報社を訪れ、冷光に面会した。同じように賛助を求めた。冷光は、久留島と直接やり取りをしていたから、門人だという嘘を見破った。男は高岡市の高橋政次郎(31歳)というものだと自供したが、市内の劇場「可愛座」の俳優であることが分かった。
その夜、大橋は警察で取り調べを受け、こう弁解した。「お伽倶楽部の一行は金沢にいます。自分はその事務員にすぎません。利益は深敬保育園に寄付する予定です」。大橋は放免になり、翌日、再び市役所を訪れ、支援を求め、東郷旅団長も賛成していることだから市内の小学校の校長に照会してほしいと言った。しかし市長の井上は一喝して相手にしなかった。
大橋は旅芸人のように各地を回っていたらしい。「お伽倶楽部支部」を語って、富山県東部の泊・三日市・四方などで興行していたという。「お伽倶楽部」という久留島武彦たちの児童文化運動は、北陸の片田舎まで名前だけは広がりを見せていたようだ。[3]
◇
[1]この明治43年2月の『富山日報』を読んでいて、目につくのは「美人写真審査」と「県下名士の書生時代」という記事で、あとは憲政本党など政界の動きである。「美人写真審査」は富山日報社が前年から募集した企画で、結局28日に結果が発表されている。第3等に吉田博の洋画《精華》のモデルになった芸妓玉太郎が入っている。「県下名士の書生時代」は明治43年元日から始まった連載。東郷八郎左衛門、山田岩次郎、磯部醇、安藤季雄、吉武静夫、狩野清常、斎藤八郎、永岡堯、宇佐美勝夫、安吉一雄、島荘次、武部其文、富田信英、馬瀬清三郎らが取り上げられている。署名はないが内容から見て2月15日付の宇佐美勝夫県知事は冷光が書いたものである。
[2]『北日本新聞社八十五年史』は、匹田の辞任は県会議員涜職事件が発覚したためのように記述している。他にもこれを参考にした記述が少なくない。しかしながら、新聞紙面を読むかぎり、この事件が発覚するのは明治43年12月17日である。『北陸政報』明治43年12月17日3面。もし明治43年2月の時点で事件が発覚していたとしたら、同年4月に匹田の送別会が盛大に開かれたこととつじつまが合わない。
[3]「お伽学士事件」を記録した『富山日報』明治43年2月24日付の記事のすぐ後には「本社員を騙る手紙」という記事もある。これも大井冷光に絡む記事であり、関連があるとみて、すぐ後に掲載されたものかもしれない。詳細は不明である。
(2018.07.29)