第2章第3節 分教場と教員たち
東京音楽学校の選科は、主に分教場で午後か夜間に授業が行われていた。女子は午後1時から5時まで、男子は午後5時半から7時半までだった[1]。分教場は当時、上野公園内(現在の東京藝術大学)の本校舎から3キロ余り離れた神田区一橋通町にあった。
もともと分教場が設置されたのは明治31年5月で、選科の一部と小学唱歌講習科が本校から移された。小学唱歌講習科は明治33年、初等音楽教員を養成する乙種師範科に再編されている。明治43年時点ではおそらく、少なくともこの乙種師範科と選科は分教場で行われていたとみられる。
室崎清太郎(のちの琴月)は、その分教場から約900メートル離れた神田駿河台に下宿した。回想記にはこう記している。
神田は学校がひしめく町であった。音楽学校だけをみても、官立の東京音楽学校分教場のほかに、私立の女子音楽学校・日本音楽協会、東洋音楽学校、東京音楽院があったから、清太郎と同じように音楽の道を目指す下宿生はかなりいたに違いない。
『音楽学校一覧』明治43年度の生徒名簿をみると、選科には317人が在籍している。科目別にみると、唱歌68人、ヴァイオリン91人、ピアノ92人、オルガン47人、琴31人となっている。出身府県別では東京が147人半数近くを占め、北海道10人、神奈川6人、長野11人、神奈川2人、岡山2人などだった。
唱歌は男子が乙組・丙組、女子が甲組・乙組・丙組に分かれていた。清太郎が所属した一番下のクラス男子丙組は20人である。うち7人が東京出身で、残りは地方出身だった。清太郎はピアノを兼修科目としていたが、清太郎を含めて8人が唱歌以外に兼修科目をとっていた。
選科から予科入学を果たす人は決して多くなかった。実際に明治43・44・45年、予科に入学したのはそれぞれ19・20・27人で、このうち選科を経由した人は6・4・6人であったという。[3]明治43年の唱歌男子丙組20人のうち、予科本科に進んだのは、高折宮次と戸塚政一(いずれも大正4年本科器楽部卒)、室崎清太郎の3人である。
選科生は年齢も職業もさまざまだった。年少組・受験準備組・落伍組・既卒組・教養組・箏曲組の6つの型があったとする研究がある[4]が、それに従えば、清太郎はまさに受験準備組だった。高折宮次は明治35年、10歳の時から9年間も選科に在籍した年少組だという。高折はのちに同校教授となる。同じ明治43年の唱歌男子乙組には、保科寅治という人物がいる。保科は明治34年に乙種師範科に仮入学し、明治36年同科を卒業した既卒組で、横須賀第一高等小学校につとめたのち当時は本郷小学校(東京)の教員だったのだが、のちに初等教育唱歌研究会を主宰し、清太郎とともに仕事をすることになる。
室崎琴月は84歳のときの回想記で、東京音楽学校の9年間を振り返って印象に残った教員7人を、趣味である句に詠んだ。そして世話になった教員27人の名前を記している。
室崎清太郎とかかわった東京音楽学校教員(年齢肩書は明治43年)
この27人と当時の分教場の教員24人と突き合わせると、選科3年間に清太郎が教えを受けた教員は、島居忱・橘糸重・安藤幸・岡野貞一・中田章・貫名美名彦・幾尾純・信時潔の8人と推定される。このうち橘・安藤・岡野・中田は本校と兼勤である。
分教場主事は、鳥居忱(とりい・まこと、1855-1917)であった。「箱根の山は 天下の険」という歌い出しで知られる「箱根八里」(滝廉太郎作曲)の作詞者として知られ、明治43年当時は55歳である。東京音楽学校の前身にあたる明治13年(1880年)に発足した文部省音楽取調掛の第1期伝習生の一人であり、卒業後、東京音楽学校の助手となり、明治24年には和漢文と音楽理論を受け持つ教授となっている。一方で同じころ「東京唱歌会」を神田区今川小路に作り、小学校の訓導たちに唱歌を教えていた。
清太郎が最初にピアノを習ったのは、橘糸重(たちばな・いとえ、1873-1939)か貫名美名彦とみられる。橘糸重は28歳にして教授となり、当時37歳。ピアニストの第一人者だった幸田延より3歳年下だが、その幸田とよく比較される実力派で、歌人の一面ももつ人物だった。貫名美名彦は本科器楽部を卒業したばかりの21歳、研究科に在籍して授業補助を務めていた。
清太郎はそれまでピアノという楽器を見たことがなかった。「東京へ出て初めてピアノという洋楽器を見たが、あのすべっこいキイに触れた時の何ともいえぬ感触がいまだに思い出されてならない」と71歳のときに振り返っている。[5]
音楽は実技、練習あるのみ
明治44年、選科2年目の室崎清太郎(のちの琴月)は東京音楽学校の唱歌男子乙組に在籍し、ピアノとヴァイオリンも兼修科目として選択している。ヴァイオリンの実技を履修したのはなぜか。高岡中学校時代に自宅の蔵で弾いていたというエピソードはあり、ヴァイオリンにも関心があったのであろう。分教場のヴァイオリンの教員には安藤幸がいた。安藤に指導を受けたのであろうか。
この年度の男子乙組は22人だった。清太郎を含めて7人が男子丙組から持ち上がり、うち15人は新入生だから相当入れ替わりがあったことになる。男子乙組の新入生の中には北原季男がいた。北原は清太郎とともに大正2年に予科入学し、のちに清太郎が設立する東京家庭音楽会の演奏会に幾度も出演している。選科1年目の男子丙組で一緒にだった戸塚政一と高折宮次は、この年予科に入学を果たしている。高折は清太郎と同じ明治24年生まれだが、学年は1つ下である。ちなみに弘田龍太郎は学年が2つ下だが、前年の明治43年、予科に入学している。
明治45年、選科3年目の清太郎は唱歌を選ばず、ピアノ1科目のみを選んでいる。ヴァイオリンへの浮気心を抑え、合格のためにピアノの実技を磨くしかないと考えたのであろうか。
東京音楽学校の予科入学までの3年間について、室崎琴月は「三年間ゆっくり受験勉強した」[6]と書いた以外、具体的には何も書き残していない。相当の苦労があったのは間違いないようであり、それを想像させる記述はいくつかある。
もう一つ、このころの清太郎の心情をうかがい知ることができる記述がある。
後進に対する助言の形を取っているが、これは自分の経験を述べたとも読み取れる。
反対する家族を説き伏せて故郷を出てきた清太郎は、何としても東京音楽学校予科に入学せねばならなかった。1年、2年と年を経るごとに精神的な負担は増していく。周りの生徒が次々に合格を果たしていく。焦りもあったであろう。琴月の回想記からは、自らの才能のなさを嘆き、ピアノを徹底的に練習するしかなかった清太郎の姿が浮かび上がる。
◇
[1]『音楽界』明治42年10月号、p38、「中央楽況」。
[2]室崎信子編『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』1991年、p104、「音楽と私」1970年。与謝野鉄幹と晶子が東紅梅町2番地に住んだのは明治42年1月から明治43年8月までとされている。
[3]坂本麻実子『明治中等音楽教員の研究』2006年、p44。
[4]坂本麻実子『明治中等音楽教員の研究』2006年、p60-61。
[5]『この道一筋』p98、「私の体験」。
[6]『この道一筋』p98、「音楽と私」。
[7]『この道一筋』、p104、「音楽と私」。このころには駿河台の下宿を替わっていて、明治45年2月1日に甥の室崎間佐一に宛てた葉書の発信元は「本郷三組町十九、北島方」となっている。
(2012/08/14 22:03)(2012/08/15 11:24)
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