【資料】大井冷光「お伽旅行」(1910年)

(上)

五月二十九日の日曜日は僕の二週間目に得らるる尊い安息日でした。

処が此日曜日は恰度金沢へお伽話の久留島先生がお出でになると云ふ事が同地の新聞に見えましたので、僕はこの日金沢へ行かうかと思って居ました。

すると土曜日の午後七時過ぎ、社から疲れ切って帰りますと、机の上には『日曜のお相手になりませう』と云ひ顔に来月号の少女世界が来て居ます。其上亜米利加に居る友人から贈った『リツルフォークス』と云ふ可愛い同地の少年雑誌迄が僕を待ち受けて居るではありませんか。

『さうだこれ丈読んだから好い楽しみが出来る。雨も降りさうだし、朝はやくから眠い目をこすって金沢まで行くには及ぶまい。先生は何れ富山へも来て下さるんだ』とも思ひましたが、然しまてまて何分一年も遇はぬ久留島先生がすぐお隣国の金沢までおいでになって、同地の少年少女諸君に盛んに面白いお噺をなさるのにどうしてジッとして居られやう、『行かう行かう』と決心して直ちに準備に取掛かりました。

二十九日の朝五時三十五分発の汽車がもうちょっとで飛び出すと云ふ危ない所を乗り込んで、忙がし相な田圃や、倶利伽羅峠の緑の処々に綺麗な躑躅つつじが喜こびの色を見せて居るの等眺めながら八時何分かに金沢へ着きますと、珍らしや百万石のお城下は一月遅れのお節句が近付いたと云ふので到る処に五月幟の矢車の音が致します、僕は小躍りして汽車を飛び下り急いで先生の宿なる澤谷旅館へ俥を走らせました。

澤谷旅館の奥二階、野田山を一目に見る立派な室に通されると床には同地の少女諸君がお贈りになった忘れな草やパンジーの眼も醒めさうな花籃がありますが大切な先生の姿が見えぬ。『ハテナ……』と躊躇する間も無く、廊下の障子にノッソリとした先生の影『オオ、君、おどかしたね、僕は今やっと起きたばかりですよ』と例のニコニコした顔でお迎え下さるのです。

一年以来積った罪の無いお談話を二時間許りも致しますと、やがて同地の美以メソジスト教会から使ひの人が当日開かれる花の会にお招きに見えました、僕もお伴として行きますと、それはさながら花で出来たかとばかりに美しく会堂を飾り、その中に之れも花や蕾の様な少年少女諸君が一ぱいに集まって面白い対話演奏がありました、先生はおしまへに出てカリフォルニヤポッピーと云ふ花に縁因のある面白いお噺がありました。実に楽しい会合でしたが唯一つ苦しかったのは司會者からお噺が面白くても拍手したり、笑ったりする事はならぬと注意があった為めに最初生々して歓びの色に満たされて居た少年少女が何時か窮屈さうな顔をして了ったのでした。

会堂を出ると先生は『公園に行って見やうか』と仰有おっしゃるので早速公園の坂を上りますと、折柄葉桜の蔭から現はれた二人の少女がニコニコして先生にお辞儀をするのです、多分昨日始めて先生のお噺を聞いた少女だらうにと僕は幾度かその優しい後姿を見返へりました。

※『富山日報』明治43年5月31日3面

(下)

公園の瓢箪池の周囲を銅像の前の方へブラブラ二人で話し乍ら歩きますと、やがてお昼食時、久留島先生は『君何処かで飯を食べやうか』と仰有るから、最寄にあった遠く卯辰山を見張す事のできる寄観亭と云ふ茶屋の二階に通りました。

食事をし乍らいろいろお話を聞きます中に先生は巌谷先生の御消息に就いてう仰有るのです。

『君、巌谷先生の様な方が此間僕に忙がしくて困る、どうかして修養の出来る身になりたいものだ、若し自分の名をソックリ引受けて呉れる者があったら今にも譲って仕舞ふがナ』と云はれた、僕も巌谷先生さへ此言葉があるかと感心したよ、全く名を成すと云ふ事は訳もないものだが、その名を長く継続する事が至難な事さ、何か自分の意見を立てて二三年調べると何時か世ではその道の学者の様に祭り上げられた後の修養は中々六ケ敷いものさ、君等はまだ年齢が若い、今の中にやりたまへ』

公園を出て元来た道を広坂通りの市会議事堂に入り其処に開かれたお伽講演会で先生は『なさけの力太郎の空中飛行船』と云ふ一時間許りの面白いお話を為さいました、聴いて居た七百計りの青少年諸君や奥様お嬢様達が最初からをしまひまでもう笑い通し、さぞや笑ってお腹の空いた事だらうと思ひました。

それから再び先生のお宿へ引返へしますと、同地の新聞社の方や県立高等女学校の少女諸君がお訪ねになったので、少女世界愛読者会と学校の先生の御意見などに就いていろいろお話を聞きましたが、同女学校では少女対話や活人画は毎月の少女会でなさると云ふ事でした。が少年会はどうも富山程の勢力はなささうです。

やがて五時の汽車に帰へると約束をして置いた車屋が迎へに来ましたので、僕は淋しい思ひで先生とお訣別を致しましたが、然し先生は帰へりがけにも『屹度きつと来月は富山へ行きます、少年少女諸君には宜しく伝えて呉れ給へ』と仰有います。

もう大丈夫、一月と経たぬ中に我が少年少女諸君と共にこの地で先生のお話を聞く事になったのですから、僕は欣びに充ち満ちて帰りました。

※『富山日報』明治43年6月1日3面

【解説】久留島武彦と大井冷光の初期の関係を考察するうえで、最も重要な資料である。明治43年5月末、久留島武彦は石川県金沢市で講演した。冷光はわざわざ面会に行き1年ぶりに再会した。

1年前の初対面の際は巌谷小波もいたので、もともと思慕していた巌谷の方にに冷光の関心は注がれていたに違いない。しかし、このときは久留島と一対一で話し、久留島の考えに直接接する機会を得ている。「書き手」でなく「語り手」として児童文化運動を進める久留島への、冷光の傾斜が始まったのはこのころであろう。久留島の口から巌谷の話題が出るなど、久留島と巌谷の親密さもうかがい知れる。

生田葵著『お話の久留島先生』(1939年)によると、久留島が明治43年に結成した話術研究会「回字会」は、大井冷光との出会いがきっかけだったとされているが、まさにこの文章が書かれたころとみられる。

(2013-05-11 22:50:00)

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