第7章第8節 お伽船参加と上京決断
大井冷光は明治43年12月、故郷富山を離れ、生活と仕事の拠点を東京に移すことになる。一家を伴っての上京か、それともまず単身上京し後に家族を呼び寄せたものか。一連の経緯を記した日記や回想録はまだ見つかっていない。
冷光自身は後に後に振り返って短く記している。「二十三歳の秋久留島武彦氏が作者の郷土のお伽講演に迎へられたのが同氏に見出される機会をつくり、その暮上京」。これまでの調査によると、久留島が富山を訪れたのは明治42年5月、明治43年7月と12月であり、秋に訪れた記録は見つかっていない。また久留島は明治43年10月7日から28日まで満州口演旅行に出掛けている。「その暮」という記述が正しいとすれば、「見出される機会」はやはり明治43年にあったと見るべきだろう。冷光が故郷を離れるという人生の決断をしたのは、7月の久留島巡回講演の後か、8月の「瀬戸内海子供周遊会」(お伽船と略す)の後か、おそらくこの2か月間のことだったと推測される。
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287人と4泊5日の周遊
帆柱の先に犬張子の旗と万国旗がはためいている。甲板で少年音楽隊の演奏が始まった。ちょうど1年前の夏は北アルプス立山室堂にいたが、不思議なもので今は瀬戸内海にいる。小さな島々がさまざまな形をしていてまるで子ども一人ひとりのように思える。
明治43年8月7日、大井冷光は大阪商船会社の汽船「利根川丸」(大出伊佐吉船長、乗組員44人)の船上にいた。犬張子は、戌年生まれの久留島武彦が好んだ図案であり、お伽倶楽部のロゴマークであった。
「お伽船」は大阪・京都のお伽倶楽部が大阪商船とともに企画した子ども向けの団体ツアーである。大阪港と別府港を4泊5日で往復する。大阪・京都・神戸の子どもと付き添いの大人を合わせて287人が参加した。途中の停泊地で名所旧跡を巡るほか、船内では「お話のおじさん」として人気がある巌谷小波と久留島武彦らが口演するなど、さまざまな催しが行われた。[1]
子どもの数は、京都・大阪・神戸を合わせて約240人、うち京都63人であった。これに対して引率の大人は、会長の巌谷と総指揮の久留島をはじめ医師と看護師を含め43人である。大阪お伽倶楽部主事の高尾楓蔭(1879-1964・本名亮雄、大阪日報記者)、大阪お伽倶楽部講話部主任の園部紫嬌、[2]京都お伽倶楽部主事の鈴木吉之助それに毎日新聞京都支局記者の瀬川や朝日新聞京都支局の記者も参加していた。冷光もお伽倶楽部の幹部の一員だった。お伽芝居(家庭劇協会)で知られる天野雉彦(1879-1945・本名隆亮)の姿もあった。
宮島で天野雉彦と2人に
起床のラッパが鳴った。2日目の朝、目を覚ますと周囲は多島海だった。利根川丸は塩飽諸島を縫うように進んだ。巌谷の句「近よれば島に聲あり蝉時雨」。甲板では郵便局が開かれ、子どもたちがこぞって絵葉書や切手を買い求めた。この日の午前中、利根川丸は阿武兎観音を右手に見て尾道港に着いた。そして、猫の瀬戸、音戸の瀬戸を通り、呉軍港に寄った後、2日目の停泊地である宮島港まで来た。巌谷の句「瀬戸涼し我招き得し風の神」。
宮島桟橋に降り立つと、冷光たちは厳島神社の見物に出掛けた。この日はちょうど立秋、山の向こうに入道雲が立ち昇っていた。まず豊臣秀吉ゆかりの千畳閣へ。巌谷の句「詩を談ず千畳閣や雲の峰」。
玩具店の小路を通って、紅葉谷を少し分け入ったが、名物の鹿の姿はなかった。厳島神社に戻って、回廊を歩いた。海上の大鳥居は前年夏の落雷で修復工事中だった。あいにくの干潮で風情はあまりなかった。
久留島が平清盛の歴史を語って聞かせると、子どもは『あの清盛が音戸の瀬戸を開いたのですか、そしてこんな立派な神社を建てて海上の覇権をしめたのですか、偉いなあ』としきりに感心した。巌谷の句「涼しさや七浦かけて七蛭子」。
いつの間にか一行とはぐれて、冷光は天野雉彦と一緒になり社殿を巡った。
天野雉彦は島根県津和野の出身で、冷光より6歳年上である。明治33年に師範学校を卒業して小学校の先生をしていたが、明治38年、演劇を志して上京した。坪内逍遥の文芸協会に参加するためだった。明治40年、石川木舟(為一)とともに久留島を訪ね、「お伽倶楽部」でお伽芝居を演じることになり、東京お伽劇協会を立ち上げた。明治43年当時は、家庭劇協会に属していた。[3]
夕方、岩惣旅館の楓山で囲まれた水亭で、冷光は巌谷・久留島・天野の4人で一緒に食事を取った。船に戻る途中、4人は暗がりで道に迷った。ふと神社の前に来て、扁額をよく見ると「幸神社」とある。前日から腹痛に苦しんでいた巌谷は「ああ縁起がいいよ」とふざけてみせた。
8日午後7時、利根川丸は錨を上げて厳島を後にした。波が静かな伊予灘を航行して翌9日午前5時、別府に到着した。午前7時上陸すると、歓迎の花火が打ちあがり、小旗が振られた。別府町の町長日名子太郎は、町営の西温泉を無料にして一行の便宜を図った。
一行は、馬車に分乗して6キロほど離れた鉄輪温泉に出掛けた。山あいにある温泉に着くと、蝋石でできた共同浴場を訪れた。番人がいない。水晶のように澄んだ湯が流れ込んでいて、「土足で入って汚すものは五銭の掃除料を徴収さるべし」と掲示されている。この浴槽のような新聞が欲しいと冷光は思った。[4]
馬車に揺られて別府に戻ると、海水浴を楽しむ者もいれば海辺で砂風呂を楽しむ者もいた。午後5時乗船。別府の一日が終わった。
9日午後7時、利根川丸が沖に出ると、久留島が子どもに瓜生島沈没伝説を語って聞かせた。日はすっかり暮れて新月が見える。速吸瀬戸に差し掛かると、波が高くなり、船酔いする子どもいた。[5]
お伽船第4日の8月10日、利根川丸は午前10時、古くから交易で栄えた香川県の多度津港に着いた。一行は汽車に乗り換えて琴平に行き、金刀比羅宮を参詣した。多度津まで戻って3時間余りで高松に着き、市教育会の案内で栗林公園を訪ねた。その晩は高松港沖で停泊、翌11日、源平合戦の古戦場「屋島」を船上から眺め、久留島が子どもに歴史を語って聞かせた。小波の句「史を談ず屋島の浦や雲の峰」。船は須磨の浦沖合来ると、そこで仮泊し、解団式が行われた。
11日午後4時、神戸港に着き、冷光は巌谷・久留島・天野とともに船を降りた。
冷光はその後、誰かと2人で京都・嵯峨に行き、渡月橋のたもとにある三軒茶屋の3階に宿泊した。同行者は不明である。翌日、宿の隣りある小督の局の塚と、近くにある天龍寺、対岸のやや奥まった場所にある大悲閣千光寺を訪れ、この夏の短い旅は終わった。
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紙面に残る凡記事6本
冷光は5日間の船旅を振り返って『富山日報』1面に6本の記事を書いた。「子供島子供船」「立秋の厳島」「栗林公園」「嵐山の一夜」「朝の嵐山」それと題字下コラム「小天地」である。最初の「子供島子供船」が11日付であるから、神戸に着いてすぐ電信で送稿したものだろう。
この6本の記事は、率直に言って凡記事である。明治43年5月から6月にかけて書いた評論記事「お伽旅行」「お伽ノート」「お伽後祭」と比べれば一目瞭然であろう。なぜ冷光はお伽船の記事を存分に書かなかったのか。冒険心をかきたてられるような旅でなかったからだろうか。
子供船の旅から帰って2週間後の8月26日、冷光と妻文の間に次女喜美代が生まれている。長男光雄の4歳下で、これで大井家は義母・義弟を含めると6人家族になった。その6人を養っていく責任が冷光に重くのしかかっていたはずだ。
お伽船から戻って4か月後の明治43年12月末、冷光は久留島を頼って上京したという事実がある。その決断に至るまでの葛藤は、2019年段階の調査ではなかなか読み解けていない。
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久留島と冷光の会話を推測する
ここからは、お伽船の直後に交わされたかもしれない久留島と冷光の会話を想像して綴ってみよう。
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7月の富山お伽倶楽部設立と8月のお伽船参加は、いずれも『富山日報』元日の紙面ですでに冷光自身が予告していたものである。もし元日に時点で上京を決心していたとしたら、7月の富山お伽倶楽部設立にあれだけ身を粉にして注力できたであろうか。家族を背負って上京という決断は、おそらく7月より後であるに違いない。久留島の巡回講演に同行するうち久留島の考えに共感を深めていったのではないか。さらにお伽船に参加し、大阪・京都・神戸のお伽倶楽部の活動を見て、その思いを一層強くしたに違いない。冷光は明治43年11月で満25歳である。天野雉彦が教員を辞めて上京したのは26歳の時だった。
大津祐司「久留島武彦と雑誌『お伽倶楽部』」『史料館研究紀要』第6号(大分県立先哲史料館、2001年)によると、久留島は明治39年に第2次お伽倶楽部を始めた際に『お伽世界』という機関誌を創刊している。『お伽世界』は稀少誌であるために不明な点が多いが、大津氏は「途中で休止されていたと推測される」としている。久留島が機関誌を作ろうとして何らかの理由でうまくいかず、明治43年の時点で編集者を探していた可能性がある。そこで見いだしたのが冷光だったかもしれない。
明治43年9月ごろから『富山日報』紙面に、冷光の署名記事は少なくなっている。9月25日に日根神社拝殿の上棟祭のルポ。10月には4本の署名記事がある。17日「茶栗鹿記」(一)18日「茶栗鹿記」(二)、19日「少年文学と興味」、23日に「理想の花賣兒」。いずれも児童文化運動に関する評論である。11月14日と15日には秋の夜長物語「坊主に教唆された稲荷様退治」という読み物がある。
富山お伽倶楽部第2回大会は12月5日、総曲輪の西別院で開かれた。午前9時から2時間半、口演と合唱・演奏などの内容で、久留島武彦と市川禅海(恵治)という海軍少尉が子どもに語って聞かせた。[7]入場無料で、参加者は2000人に上ったという。司会は竹内水彩がつとめた。
久留島と市川は11月25日に富山県入りし、12月8日までの2週間、県内各地で口演活動を行った。第2回大会の新聞記事は第1回に比べると各紙ともかなり少ない。冷光自身は上京を控えて、お伽倶楽部の活動に力を入れる余裕はなかったのではないか。
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水彩移籍、南水逮捕、匹田また電撃移籍
明治43年夏から秋にかけて、富山県内の新聞業界にはいくつも大きな動きがあった。8月10日、竹内水彩が『北陸タイムス』を辞めて『北陸政報』に移った。8月25日に冷光の旧友、三鍋正生が雑誌『越中評論』を創刊、12月に『トヤマ』に改題し、翌年から冷光と深く関係を持つようになる。9月27日、『北陸タイムス』編集長、卜部南水が逮捕され、翌日即刻退社となる。『北陸政報』主筆に佐藤尚友が就き、新聞社同士の争いが激化していく。
『北陸タイムス』は10月30日、紙面改革を予告し、翌日紙面で『九州日報』主筆の匹田鋭吉を主筆に招くと発表した。[6]匹田は2月末に『富山日報』を電撃退社してわずか8か月後に富山に舞い戻ることになった。またもや電撃移籍、しかも移籍先がなんとライバル紙『北陸タイムス』なのだ。入社は11月15日だった。
それから1か月余り後の12月17日、『北陸政報』は1面トップ記事で富山県会議員涜職(汚職)事件をスクープした。[8]
この富山県会議員涜職事件は、国民党選出の前県議、島荘次・藤田久信・中屋静二・玉生道寧の4人が、東岩瀬港口工事・大沢野開墾地・県立娼妓病院・八尾共同揚返場の4つの事業に絡んで地元関係者から賄賂を得ていたというものである。匹田が関与したのは大沢野開墾地事件で、発端は明治42年11月の富山日報社の社員野外運動会(既述)だった。富山地裁検事局がいつ内偵捜査を始めたのかは不明である。紙面を読むかぎり、匹田が富山日報主筆を辞めた2月末時点で、捜査の動きは察知された形跡がない。匹田が明治44年11月に帰県したのが引き金のようになって、捜査が一気に進展した可能性がある。[9]
さもありなんと思われるのは、この涜職事件の被告となった島荘次と藤田久信は、明治43年正月に企画され、結局実現しなかった「立山山中猛獣狩」の応募者だったことである。おそらく匹田と冷光が考え付いた企画だろう。匹田鋭吉は冷光を『富山日報』に導き、夏山臨時支局や子ども欄の仕事を応援してくれた恩師である。匹田の奮闘主義の功罪を、冷光はどのように見ていたのだろうか。
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早稲田進学を断念して故郷富山に戻って5年9か月。地元紙の記者となってちょうど4年である。東京で児童文学を研究するという夢を実現させる時機がついに来た。12月17、18日と相次いだ送別会については、第3章第1節ですでに詳述した。
明治43年12月24日午後7時34分富山発の列車で、大井冷光は上京した。東京新橋まで乗り換えなしの直通電車で、所要時間は21時間46分である。7年前は単身だったが、今度は一家の生活を背負っての上京である。不退転の決意であったろう。
12月25日の『富山日報』3面に送別記事が出ている。
「少年文学研究のため」という記述に注目したい。明治43年春から夏にかけて久留島に同行したときの記事を考察すると、上京の目的は久留島のお伽倶楽部運動に参画するためと解釈したくなるところだ。けれども、冷光が目指すのは少年文学研究なのである。その意味では、冷光の憧れは久留島武彦というよりはやはり巌谷小波に近いのである。(第7章終)
(2019.08.20)※扉絵は、吉田博「鍋島」(木版画、瀬戸内海シリーズ・1930年)