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第4章第7節 巌谷と久留島の来訪


明治42年は、地方都市富山で児童文化運動がはじまった年である。それは次々に花が開くかのようであった。5月に巌谷小波と久留島武彦の講演、7月に富山市教育会による児童博覧会の開催、そして同じ7月に五番町児童講談会の月例開催がスタートしている。10月には『富山日報』に子ども欄が設けられた。こうした一連の動きが、翌43年の富山お伽倶楽部の発足へとつながってゆく。

横浜でお伽倶楽部が始まったのは明治36年のことだから、それから6年がたっている。この間に児童雑誌の創刊が相次ぎ、お伽倶楽部が地方に広がり始め、児童博覧会というイベントも各地で開かれはじめた。そうした動きの中心にいたのが、巌谷小波と久留島武彦である。巌谷・久留島と大井冷光との出会いは必然的であったようにも思われる。

児童雑誌の売れ行きに関心

明治42年元旦、大井冷光が書いたお伽噺「黄金の鶏」が『富山日報』の紙面を飾った。干支の読み物である。ちょうど1年前に『高岡新報』に「猿の御年始」を書いて以来、冷光自身はお伽噺について学び続けていたに違いないが、その形跡はこれまで見つかっていない。

2月1日の『北陸タイムス』に、夢之助の署名で「文壇八ツ当り」という記事がある。年の初めに書かれた文壇回顧や文壇展望の記事を批判した内容だ。「越中文壇はまるで子どものお伽式に書いてあった」という記述を読むと、まだ一部にはお伽噺を児童文学として認めていない状況がうかがわれる。しかし、児童文化の時代は確実に訪れようとしていた。

3月7日の『富山日報』に載った「児童の当り年」という記事は、署名はないが、冷光の記事と推定される。

「児童の当り年 当市立教育会が主催となってこの夏児童博覧会といふ珍らしい会が開かれるが右に付き市内の子供好きな雑誌屋がこんな談話をした『今年はどうも少年の当り年でせう第一近頃小供の雑誌の殖えた事雨後の筍の如しで中田書店や清明堂や金山雑誌店の店頭に並んで居る少年雑誌の種類ばかりが毎月二十種を超して居ます随って取扱ひ高も昨年に比べて約五割の増加ですが其内でも昔からの『少年世界』と近来売出した『日本少年』は何れも毎月富山市内に四五百位は落ちる勘定だと申します(中略)」

「郡部の少年はどうかとのお尋ねですが、それは市内の景気に伴ふて進歩致しませうが而し一般に流行は遅れて来ます殊に唱歌の類は富山でもう流行らなくなって仕舞ふ時分漸く郡部から買ひに来るといふ風です、最も今年の少年雑誌の流行する事丈は同様と見えて今迄『少年世界』は四五冊宛しか売れなかった上市町の某店位は今年は俄かに二十余冊捌けるさうです『少年雑誌』が斯く沢山出ますので競争の結果中には懸賞方法を取る雑誌もありますが、この懸賞の為に余計に売れるといは事は婦人向きの雑誌と違ひまして少年の方では比較的効力がないやうに存じます『尚ほ私共の幾分遺憾に思ひますのは少年向きの出版界がこの様に景気付いて居ますのに教育者側で児童研究者が比較的流行らぬものか其種の書物が殖えませぬ事ですこれはどうしたわけでせうか云々」

冷光がこのころすでに児童雑誌やその販売状況に強い関心を持っていたことがうかがえる記事である。

巌谷と久留島の来訪に話を進める前に、もう一つ興味深い出来事を紹介しておこう。

対照的な2人の主筆

記者たちが親睦を深める懇談会が明治42年3月28日午後6時から富山ホテルで開かれた。富山と高岡の新聞雑誌5社の17人が出席した。有力3紙が含まれ北陸政報が外れている。大井冷光も井上江花も匹田鋭吉もその場にいた。『富山日報』に「新聞界列強交歓」という記事が翌々日に出ているが、これは冷光の記事と見られる。[1]『北陸タイムス』の記事と併せて読むと、この記者懇談会は次の通りだった。

記者懇談会出席者(明治42年3月28日)

富山日報 匹田鋭吉(雪堂)、山田鉄太郎(望天)、大井信勝(冷光)、水野敏男(眠鴎)、横山四郎右衛門(白門)、長谷秀義、西岡周ニ(空莫)  高岡新報 井上忠雄(江花)、赤祖父涼月  北陸タイムス 大内白月、卜部幾太郎(南水)、竹内正輔(水彩)、藤井尚治(黒龍)、若杉亮吉(旅洲)、城石  法政彙報 野村嘉六  薬業時報 永井

富山日報主筆の匹田鋭吉が開会の挨拶をし、新聞攻守同盟の締結を提案した。これに対して高岡新報主筆の井上江花が言った。「愚老もかねてその意見を抱いておりましたが、しかし退いて考えれば攻守同盟などと言って或いは人に誤解されるようなことはありませんか」。匹田が「攻守同盟というのは武装した言葉で、平たく言えば同志の規約を作ろうというのです」と返すと、江花はそれならいいでしょうと同意し、北陸タイムス編集長の卜部南水も賛成した。結局、匹田・江花・南水の3人が起草委員になって▽攻守同盟▽記者の結合▽共通利害問題の研究▽新聞記者の位地と品位の向上について規約をつくることになった。

このあと北陸タイムスの卜部南水が文士劇に取り組むことを提案した。児童養護施設「深敬保育園」の建築費を補助するために記者たちが協力して慈善興行をしようというのである。結局、史劇1幕と喜劇1幕を上演することになった。史劇の脚本は江花が、喜劇の脚本は江花と南水が担当することになった。[2]

食事が済むころ、今度は演説が始まった。

  • 野村嘉六「新聞紙法改悪に関する演説」

  • 卜部南水「新聞記者禁読書論」

  • 竹内水彩「あぐら奨励談」

  • 井上江花「舌をペロリと出すのを低頭の礼に代えよとの説」

  • 匹田鋭吉「新聞記者の権威と自覚」

この記者懇談会は、2人の主筆の対照的な人柄がよく表れている。井上江花はまだ38歳なのに愚老とおどけながら匹田の提案に注文をつける。単なる冗談なのか意味深の風刺なのか、煙に巻くような演説をした。一方、匹田は何かにつけ強腰の物言いである。冗談半分なのだろうが、新聞記者の意識改革を訴え「知事でも事務官でも呼び付け命令的に材料を供呈せしむる斯くの如くするのが本当である」と気炎を吐く。北陸政報の記者が欠席していたとはいえ、この懇談会から、江花と匹田の2人の主筆が富山県内の新聞記者たちをリードしていたことは間違いなさそうでである。

講演スケジュールで右往左往

博文館の雑誌『少年世界』『少女世界』で巌谷小波と久留島武彦の富山来訪が明らかにされたのは、それぞれ明治42年4月号の誌面でである。発行日が4月1日で、富山の読者もそのころに分かったことだろう。誌面では、講話部主任の久留島が「小波氏と共に、裏日本の方面に大巡回講演を試みん計画」として、5月中旬ごろに出発、名古屋・長浜・敦賀・武生・福井・金沢・高岡・富山方面にいくとしている。そして読者に対して「若しその地方地方の愛読者会を開かれるならば、その時期を利用して戴きたいと思ひます」と愛読者会の開催を呼び掛けている。

明治42年5月1日の『富山日報』2面に「巌谷小波来富」という見出しが立った。末尾に30日東京発とある。「お伽噺の泰斗少年世界主筆巌谷小波は尾上新兵衛と共に来廿日頃富山へ巡回講話に来る筈」。「頃」とか「筈」とか、他紙に先んじるため裏付けも取らずに書いたような憶測めいた記事である。

1週間後には「巌谷小波の来県期」という続報があり、2人の富山滞在は5月23日と24日に確定した旨の通知が富山日報社にあったとある。そして、富山の文士たちと教育者たちが講演会をそれぞれ計画していると報じている。ただ同じ日、『北陸タイムス』にも同様の記事は出ていて、2人の来訪は富山日報の独占的な開催ではなかった。そもそも2人の来訪は博文館の児童雑誌『少年世界』『少女世界』の愛読者会が主目的であって、せっかくなら講演もしていただこうと地元の新聞記者や教師たちが右往左往しているのである。

2人の滞在スケジュールは10日前の5月13日になって内定したが、それも実際の会場や時間とは違っていた。来訪が急に決まったためなのかあまりに段取りが悪い。正確なスケジュールが紙面に出たのは、前日の22日だった。

巌谷小波 (40歳ごろ)
『お伽十八番』(明治43年10月)
久留島武彦 (37歳ごろ)
『お伽倶楽部』第2巻4号口絵(明治45年4月)

うれしい5年ぶりの再会

巌谷と久留島の「大巡回講演」(北陸口演旅行)は明治42年5月16日京都、18日福井、20日金沢、22日高岡とめぐって、ついに5月23日、2人が富山に来る日が来た。北陸線はまだ魚津止まりであったから、富山は北陸最奥の都市といってよかった。[3]

この日、富山日報記者の大井冷光は朝早くからわざわざ2人を高岡に迎えに行った。するとすでに北陸タイムス記者の竹内水彩(紅蓮)がいた。竹内は巌谷と旧知で、前夜から巌谷を迎えていたのだった。冷光と竹内が、2人の案内役となった。呉越同舟なのか、それとも児童文化の同志なのか、冷光と竹内の関係は詳しく分かっていない。

一行は高岡を7時に出て午前8時11分着の汽車で富山に着いた。5か月前に新築されたばかりの駅舎には、子どもを含めて大勢の人が出迎えに来ていた。[4]

巌谷と久留島は桜木町の富山ホテルにいったん入り、それから少女世界愛読者会の会場である富山市公会堂へ向かった。

冷光が巌谷小波の姿を生で見るのは、東京での受験浪人時代に講演会を聞きに行って以来、5年ぶりだった。あのときは観衆のうちの1人に過ぎなかった。この時点でも、巌谷が相変わらず雲の上の存在であることは変わりがないが、冷光は案内役という立場でずいぶん近づけたような気がしたことだろう。5年の間に、冷光は文士の端くれとなり、富山という地方都市でのことだが本を出版し、紙面に自作のお伽噺を書くまでになった。冷光はとにかく嬉しかった。それが紙面に色濃く残っている。

翌日掲載された2紙の記事を紹介しよう。

「お伽噺の日曜日 小波のおぢさん来富 市内六千の少年少女は勿論十年前二十年前よりの少年世界愛読者諸君が待ちに待ちたる日本お伽噺のおぢさん巌谷小波山人は昨日午前一番富山着で来富せられた、十五年前よりの愛読者の一人なる予はうれしさの余りお迎えに出かける、今の愛読者の少年諸君も沢山に停車場迄来て居る、おぢさんと同行のお伽倶楽部主任の尾上新兵衛のおぢさんは優しく出迎えの少年諸君に愛嬌を言って一先づホテルに着かれる(以下略)」

『富山日報』明治42年5月24日

「小波山人来る 少年世界の主筆としてお伽話元家本元として有名なる巌谷小波先生及び尾上新兵衛と号する久留島武彦先生は今朝八時十一分着の汽車を以て来富し富山ホテルに投宿せられ直ちに別項記載の各講演を為されたる(以下略)」

『北陸タイムス』明治42年5月24日

『富山日報』の記事には「大坊ちゃん」と署名があり「15年前よりの愛読者」という記述から冷光が書いたものとみられる。一連の記事は、『北陸タイムス』のほうが客観的でコンパクトにまとまっている。冷光の記事は主観的で冗漫だが、嬉しさがにじみ出ている。久留島はこのころ『少年世界』『少女世界』誌面で尾上新兵衛でなく本名を名乗るようになっていたから、冷光の記事では本来久留島武彦と表記すべきところだが、尾上新兵衛のほうが読者に分かりやすいと考えたのであろうか。ただ冷光にとっては、巌谷小波と久留島武彦は並列でなく、やはり巌谷が別格の存在であった。

この日、10時4分着の列車で、大浦兼武農相の一行も富山を訪れていた。紙面は当然、農相関連の記事が多いが、巌谷と久留島の記事にもかなり紙面が割かれている。2人の来訪は大きな関心事であり、連日の行動が報道されている。

明治42年5月24日付の新聞記事の扱い
『富山日報』 農相108行、巌谷久留島92行
『北陸タイムス』 農相128行、巌谷久留島57行

お伽趣味の普及

ここで、少し時間を戻し、巌谷と久留島が当時何をしていたのか触れておこう。

巌谷小波は、雑誌『少年世界』の主筆を続けながら、力を注いできた「世界お伽噺」叢書を明治40年末に完結させた。明治32年1月のスタートから毎月出版し100巻になった。完結を記念して明治41年6月6日から8日まで「お伽祭り」という催しを東京座で開いた。そして7月30日から15日間、久留島ととも長野県内各地を巡回し愛読者会などで講演している。

また巌谷は明治41年に三越呉服店に新設された子供部の顧問となった。三越は42年4月1日から初めての児童博覧会を開催し、巌谷が北陸口演旅行に発つちょうど5月15日に終わったところだった。

一方、博文館講話部主任の久留島武彦は明治40年7月に少年世界お伽幻燈隊で栃木・福島・岩手・宮城・茨城を16日間巡回講演した後、しばらく地方行脚の記録はない。東京でのお伽倶楽部を中心に活動していたようだ。明治41年に入り1月神戸、2月静岡、再び神戸でお伽講話。そして3月18日から6月21日まで朝日新聞の世界1周旅行に参加している。帰国後、『少年世界』『少女世界』の地方巡回が再開され、7月30日から15日間かけて長野県内各地を、10月から11月かけては京都・岡山・広島・下関・博多・熊本・静岡などを巡回している。

明治42年に入って講話部への講演依頼はますます増えていた。1月に静岡、2月に神戸、4月に長野を再び巡っている。

「お伽趣味の普及するにつれて、吾が少年世界講話部は各方面よりの要求に忙殺されて、殆ど編輯に顔を出す暇すら無い。二月から三月にかけては、少年方面の要求ばかりで無く、各種中学の談話会同窓会各女学校の会合、婦人会、父兄講話会と云ふ様に、多種多方面からの招きに会して、何れを謝絶し何れを後に為してよきものか、殆選択に苦しんだ事であった」[5]

「停車場を玄関とし汽車を住居としていた」とのちに幾度も形容される久留島のたびの仕方はこのあたりから始まっている。この形容はのちの冷光にも当てはまるが、もともとは『少女世界』記者の沼田笠峰(1881-1936、本名藤次)が久留島に送った書面に書かれてあったと、久留島自身が書き残している。[6]

吉野桜と八重桜

初日の5月23日、巌谷小波と久留島武彦は富山市公会堂で午前と午後に分けて開かれた『少女世界』と『少年世界』の2つの愛読者会でそれぞれ講演した。少女世界は200人余り、少年世界は500人余りの参加があり、記念の絵はがきが配られた。

少女世界愛読者会(明治42年5月23日午前9時開会、富山市公会堂)

  • 開会の辞(河合牧師)

  • 君が代(会員一同)

  • 歓迎の辞(島田すみ)

  • 歓迎の歌(幹事一同)

  • お伽話(久留島新兵衛)

  • 弾琴(松田よし、木村せつ)

  • お伽話(小波山人)

  • 独語〓姫(稲垣ゆか)

  • お話鳥の音楽(金森きよ)

  • 朗読(島田すみ、森永まつ江、青山むつを)

  • 少女の歌(幹事一同)

  • 閉式の辞(森永)

『北陸タイムス』明治42年5月24日3面による。河合牧師とあるのは川合錠治牧師(1870-1938)である。

特に少女世界の愛読者会は整然と進行した。そのことが久留島に強い印象を残したようだ。混雑して運営がうまくいかない他の愛読者会を知っていて、「今日まで参加した愛読者会の内、此の点で尤も整頓を誇るに足るのは、富山市少女世界愛読者会でした」と後に振り返っている。[7]

少年世界愛読者会では、2人の講演のほか、委員の演説や仮装舞踊(滑稽踊り?)、吟詩、謡曲、蓄音機などがあったという。

巌谷と久留島、2人の話しぶりはどのようなのものだったのだろうか。富山県高岡市の大坊謹道という人が27年後にこんな回想文を綴っている。

明治の末期頃であったと思ふ。お伽噺小波小父さんと御一緒に、縣の師範学校で生徒と集めてお噺をして下さいました。小波先生のお噺は書物や、雑誌で讀んだものより直接聴いた方が、却って感銘が湧きませんでした。久留島先生のお噺と来てはトテも面白く、その駈り聲聲色、身振り、何とも譬へ様のない愉快を覚えました。

(以下略、安倍季雄・樫葉勇編『いぬはりこ』1936年、p15)

巌谷と久留島をよく知る生田葵山(いくた・きざん、1876-1945)は世間の評判を次のように書いている。

世評では彼(久留島)の童話振りは涙を誘い、深く深く胸に撤して、いつまでも忘れられないものがあり、巌谷小波氏のは軽妙そのもので、淡々として水の如く何も残らないやうでやはり残るものありと云はれていた。花に譬えて見れば、巌谷氏のは飽迄一重の吉野桜式でパッと開くと麗はしく、陽気でその下で踊りたい気分に誘われるし、彼(久留島)は濃厚な八重桜であり、重厚な牡丹であってその美しさの印象をいつまでも目に残したい望みに燃えると云ふのである。更に小波氏と彼(久留島)とを比較して或人達は、小波氏の童話は都会人向きで、あらゆる文化に接触している者に喜ばれる垢抜けしたものであるし、彼(久留島)のは洒脱とか、皮肉とか、軽妙とかを一切心得ない地方人にも喜ばれるコクの強さがあると論ずるのであった。

(丸括弧内は引用者注、生田葵『お話の久留島先生』1939年、p138)

巌谷は、2つの愛読者会の間、総曲輪尋常小学校で開かれた市教育会定期総会にも出席し、教員たちを相手に教育とお伽噺について話した。

玩具収集に同行

初日の夜は、富山文芸会主催の講演会が開かれた。会場の市公会堂には300人が集まった。富山文芸会は前月11日に新聞記者や弁護士・医師・教員ら60人が集まり発足式を開いたばかりで、このころ富山では文芸趣味が広がりを見せていた。

2日目の5月24日月曜日。午前中、巌谷と久留島は、大井冷光らの案内で神通橋をはさんで北にある橋北(いまの愛宕町周辺)に行った。その目的は郷土玩具の収集である。巌谷は児童博覧会の関連で玩具に関心が深く、久留島が前年の世界1周旅行で玩具を集め、このころ2人とも玩具研究に熱心だった。巌谷は午年生まれで馬の玩具を集め、久留島は戌年生まれで犬の玩具を収集していた。

購入したのは、土偶玩具(土人形?)や木彫り馬(愛宕村田村木彫り屋)、焼き物の牛、着衣の猿、天神様の鋳型などである。20日の金沢でも木製の獅子頭を購入していたが、2人は富山はいろいろな材料の玩具があるといい、木彫りの馬は特に理想的にできていると喜んだ。

2日目の午後、2人は富山高等女学校で600人を前に講演した。この後、県庁と富山日報社の前に前月完成したばかりの公園で松の記念植樹が行われた。2人は少女世界の読者たちとともに松を植えた。
県師範学校での講演が終わると、午後6時近くから歓迎晩餐会が富山ホテルで開かれた。会費1円で、教員・新聞記者・医師・弁護士ら26人が出席した。まず裏庭で記念撮影をしたあと、あぐらで洋食、酒の替わりにサイダーという風変わりな宴会が食堂で開かれた。富山日報主筆の匹田鋭吉が挨拶し、巌谷が感謝の言葉を述べた。宴会は和やかに2時間近く続いた。

巌谷は隣に座った県師範学校校長の安藤季雄に向かって言った。「私も(本名は)季雄ですが、私の季雄は末っ子という意味でつけたのです」。すると、匹田が安藤にあなたも末っ子ですかと聞いた。「いや、私の家では代々当主が『季』の字をつけるのです、それで私も総領です」。

誰かが「先生はかつて漣山人とお書きになったのですが、なぜ小波という字に変えられたのですか」と聞いた。巌谷はこう答えた。「私の姓は大江ですから大江小波は面白いと言って変えたのです。漣という文字は間違えて読む人があって、ある人はシズク山人などと言うので嫌になったのです」[8]

この日は宴会の後さらに午後7時から公開お伽講演会が常盤町の可愛座で設定されていた。酒を飲まなかったのはそのためらしい。宴会が1時間近く延びたために午後8時から講演会が始まった。竹内水彩が開会の辞を述べ、いつものように久留島・巌谷の順で講演した。

下足料金2銭で子ども向けのはずだったが、大人の姿が思いのほか多かった。翌日列車を待つ間、雑談で久留島が「大供が多いのには面食らった」と話すと、匹田は「富山人が稚気に富んでいる証拠ですよ」と弁護した。しかし口の悪い誰かが「いや、富山人の知識は大供がちょうどお伽噺を聞くくらいの程度だろう」と言った。[9]

夜10時近くに講演を終えてホテルに戻ると、疲れ切った巌谷と久留島には、揮毫の依頼が待っていた。「扇子絹地絵はがき等雨の如く両氏の膝の上に落ちて来る」ようだった。しかし2人は嫌な顔もせず一つひとつ筆を走らせたという。

一方で、午前中買い集めた玩具を荷造りするのは、大井冷光と竹内水彩の仕事だった。「抱え切れぬ程有る奴を煙草の大空箱に鉋屑古新聞等を入れて入れ冷光と紅蓮が手伝ってホテルの一番善い室を籔程を撒き散らした」という。[10]さまざまな思い出を残してまたたくまに2日間が過ぎた。

5月25日、2人が富山市を離れる日である。富山駅には、川合牧師、中田書店の金子安太郎、富山日報の匹田鋭吉、読者会代表らが見送りに来た。2人は9時40分発の二番列車で高岡へ向かった。

巌谷と久留島のその後の日程は次のようである。「高岡打ち上げ後は直ちに出発、武生一泊に続いて、近江國長浜にて講話あるべく夫より久留島氏は来月廿日頃迄九州を巡回し小波山人のみは帰京すべし」。[11]

竹内水彩は児童雑誌の先輩格

冷光とともに2日間を通じて案内役をつとめ、最後の公開お伽講演会で開会の辞を述べた竹内水彩とはどんな人物なのであろう。

竹内は本名正輔、明治13年1月生まれで、冷光よりも5歳年長だ。富山県下新川郡入善町出身である。[12]明治29年ごろ雑誌『少年園』の投稿者だったらしく、同誌の読者投稿集『詞藻 新體詩集』(明治29年2月)に「荻ふく風」という作品が竹内水彩の名で載っているほか、『文庫』3巻3号(明治29年8月)にも「ひまゆく駒」という作品が本名で載っている。その後、竹内は紅蓮と名乗り、東京で児童雑誌『少國民』の主筆を務めていた。明治32年12月から明治35年1月までの誌面で、唱歌や歴史読み物、お伽話、など40編ほどが確認されている。明治34年1月1日発行の第13年第1号広告欄最終ページに「北隆館編輯局」の30人が記されていて、一番最後に竹内紅蓮の名がある。

『少國民』は、もとは『小國民』という雑誌だった。明治22年7月に学齢館が創刊し、『少年園』『少年文武』とともに国内児童雑誌の先駆け的存在とされる。石井研堂が編集主幹をつとめ、『少年世界』が創刊されるまで大変な人気を博したという。明治28年、戦争に関する記事をめぐり発行禁止処分を受けた後、『少國民』と改題して再スタートしたが、学齢館が経営難に陥った。その後、発行元が明治29年12月に北隆館(京橋区鎗屋町14番地)、明治34年4月に鳴皐めいこう書院(東京市麹町区三番町53番地)へと替わった。そして明治35年2月1日発行の『少國民』には「竹内正輔氏編輯局を辞し今後関係無之候追て少国民本年第二号までの原稿料等はすべて同氏に払渡し申置候為念申添候」と記されているという。[13]

竹内は鳴皐書院から2冊のお笑い小噺集を出版している。明治33年10月に『小哲学(一名笑林)』、明治34年7月に『続小哲学(一名笑林)』である。前編には巌谷小波が序文を寄せていて、後編には「少國民主筆 竹内紅蓮」と記されている。『少國民』と『少年世界』は競合誌のはずである。相手方の主筆に序文を寄せてもらったということだろうか。一方、巌谷の「初蝉日記」では「紅蓮氏わ曾て本誌にも寄稿した人」と記されていて、竹内と巌谷が知り合いであったことが推測される。ただ、『少年世界』に紅蓮や水彩の名は見つかっておらず、ペンネームが違う可能性も含めて調査が待たれる。

竹内は、明治41年11月の『北陸タイムス』創刊時から同紙の記者となり、2面を担当した。明治42年1月の時点で冷光とともに新派俳句結社「墨汁吟社」に名を連ねている。このあと、竹内は冷光とともに富山お伽倶楽部にかかわるなど児童文化運動の一翼を担う。明治43年5月に『北陸政報』に移籍し編集長をつとめ、その後、『立山新聞』(滑川)の主筆となり、大正2年12月に『富山風景論』を自費出版している。[14]

竹内は、冷光から見て児童雑誌編集の先輩にあたる。とすれば、富山の児童文化の中心に立ったのは、冷光でなく竹内でないか。そのような推定も成り立つ。しかし、明治42年5月、巌谷と久留島の2人に強烈な印象を残したのは、竹内でなく冷光であった。

[1]『富山日報』明治42年3月30日3面。「世界の列強に見立てると、高岡新報が虎視眈々経済的の発展に抜目の無い処は先づ独乙(ドイツ)といふ格、又タイムス(北陸タイムス)が独裁君主を戴かずして一種の帝国主義を行ひ、而かも新を競ひ奇を好むといふ風ある處は米国式である、又薬業時報と法政彙報とは、規模も小さく陸海軍は備はって居ないが、列強の間に伍して侮を受けざる處は白耳義(ベルギー)瑞西(スイス)の類であらう、我社(富山日報)に至ては頗る立憲的で、文明的で、而かも其営業振りに保守的の気味ある處、僭越乍ら英国の地歩を占むるものと申しても甚しき自惚れではあるまい」。丸括弧内は引用者注。これが冷光の記事である根拠は具体的にはないが、たとえば同年11月5日の「社員の野外大運動会」の記事のように冷光の署名がある記事を読んでいくと、面白おかしく仕立てるのが冷光の得意とするところだった。富山日報には他に同様の柔らかいタッチの文章を書いた記者が見当たらない。

[2]実際に文士劇が上演されたかどうかは分かっていない。今後の調査が待たれる。

[3]巌谷小波の「北陸口演旅行 初蝉日記」『少年世界』15巻9号(明治42年7月)の書き出しはこうである。「『木から木え飛ぶ間を蝉の休かな』という句がある。僕の口演旅行わ、正しく其観がある。而して今度の北陸行わ、今年度の初の旅である、依って其題斯の如し」。巌谷が富山をそれまで訪れたことがあったかどうかは不明である。久留島は大阪毎日新聞時代の明治35年に取材で富山を訪れ、井上江花に会っている。

[4]北陸線は明治41年11月16日に魚津駅まで延伸し、同時に富山駅が田刈屋の仮停車場から牛島の沼地そばの荒野(現在の富山市明輪町)に移転して新駅舎が完成した。北陸線が直江津まで延び全線開通するのは大正2年である。

[5]「講話部の巡回」『少年世界』15巻5号(明治42年4月1日)による。

[6]「泊行きの五七三列車より」『お伽倶樂部』2巻6号(明治45年6月)による。「少女世界の沼田笠峰君より『君のやうに停車場を玄関とし、汽車を住居として居る人間には、旅などと云ふ感じも興るまいが云々』と書てあつたのを見て、如何にも巧い事を云たものだと感心させられた」

[7]「諸嬢の會合法」『少女世界』4巻13号(明治42年10月)による。

[8]『富山日報』明治42年5月26日3面。

[9]『富山日報』明治42年5月26日3面。

[10]『北陸タイムス』明治42年5月26日3面。

[11]『北陸タイムス』明治42年5月26日3面。ちなみに巌谷はこの年明治42年8月19日から12月17日まで渋沢栄一渡米実業団の一員として海外に出ている。

[12]筏井竹の門選句集『奈古の浦』(明治35年3月)の巻末に「越中日本派俳家金蘭」という俳人名簿(40人)が掲載されている。下新川郡の項に「在東京竹内水彩」がある。『昭和俳人録』(昭和5年1月20日刊)に略歴があり、雅号「大三位」、職業「十数年来失業」、現住所も本籍も東京市となっているが、添付された写真は大きく口を開けた顔で、変わり者の感がある。竹内水彩については、例えば雑誌『むさしの』6巻2号に「曾て「少国民」の編輯主任をなすや寄稿家に仕拂ふ可き原稿料を誤魔化死ロハを以て寄稿せしむるより各家立腹同盟して同紙に筆を執らず、終に廢刊の運命にまで堕落れたる竹内水彩其後故國富山に雲隠れし居たるが近頃又外交係をなすとか」あるなど、他にも問題視する記事がある。その真偽は今は確認ができない。

[13]『少國民』については、鳥越信『児童雑誌「小国民」解題と細目』(2001年)による。なお、北隆館は富山と関連が深い。明治24年、北陸3県の書籍取次業者たちが新聞・雑誌・書籍の卸売を目的に「北国組」を創立、明治27年に北隆館と改称した。代表になった福田金次郎(1860-1946)は、清明堂書店の福田栄太郎と義理の兄弟であるという。また、北隆館編輯局30人の名簿の中には、富山県氷見出身の服部霞峰の名がある。

明治38年3月21日に神田青年会館で「社交婦人音楽会」が開かれたが、米田流星・遠藤清子とともに雑誌『社交婦人』編集に竹内正輔がかかわっていたらしい。『三浦環 伝記資料考』三 東京音楽学校時代後編による。

[14]『富山風景論』には、13人が序文を寄せた。そのうち、高田浩雲は「友人」、高田稲光は「竹馬の友」「十三四にして巳に文壇の人たりき」、舟木香洲は「高陵文林の特別寄稿家だった」などと書いている。また北陸タイムスの同僚だった藤井黒龍は、同社で3年間机を並べたことや竹内が立山新聞主筆となったこと、その後竹内が隣家に越してきたことなどを振り返っている。

巌谷小波と久留島の富山来訪(明治42年)

5月22日(土) 12時に高岡着。高等小学校で2回講演(巌谷「コケコウ王」「萬太郎」・久留島は不明)。巌谷は夜、梅松園で小宴会、旧友の馬場正太郎(商業学校教頭)、梅澤墨水(大阪スレート会社重役)、吉野左衛門(國民新聞社理事)、服部霞峰(氷見町)が集い、12時まで語り合う。  5月23日(日) 7時に高岡出発、竹内は前夜から、大井は朝早くから迎えに来た。  午前8時11分着の列車で富山駅到着。基督教会(二番町)の日曜学校で子供デイ、久留島のみ参加。  午前9時、少女世界愛読者会(市公会堂)。久留島「西洋お伽噺」、巌谷「石の花」、200余名。記念撮影。歓迎の歌、琴演奏、お話鳥の音楽、朗読、少女の歌など。  午後1時、市教育会定期総会(総曲輪尋常小学校)。巌谷「新時代のお伽噺」40分。  午後3時、少年世界愛読者会(市公会堂)。久留島「ネルソンの海獣談」、巌谷「何も仙人」、600人(500余名)。記念スタンプ、記念絵はがきを配布。5時すぎ散会。  午後7時、富山文芸会主催の講演会(市公会堂)。久留島(玩具など有趣味の話)巌谷(詩聖ゲエテ論評)、300人。10時散会。  5月24日(月) 午前、冷光・紅蓮・渡辺技師が巌谷を訪問、記念の筆。その後、市中散策し、愛宕の田村木彫り屋の木彫馬や、牛や獅子頭などの玩具を購入。  午後1時、講演会(富山高等女学校)、久留島「教育と母と玩具」、巌谷「正直正吉」、600余名(800余名)。  県庁前新設の小公園で記念植樹。松を植える。愛読者10数人と記念撮影。  午後3時20分、講演会(富山県師範学校)。久留島「三つの教訓」、巌谷「独乙の決闘」、5時終了。  午後5時半(予定)、歓迎晩餐会(富山ホテル)。会費1円、申し込みは中田書店。教育家・新聞記者・医師・弁護士ら26人出席。(森井周義、中林初太郎、吉川綱四郎、渡辺、高松覚太郎、大内義比、布上彰、浅地、安藤季雄、萩原建太郎、石原即聞、並木文右衛門、赤祖父涼月、大井冷光、柴谷寛龍、梅林寺勝三、小林圭三、佐々木松蔵、木下福七、浦部舜、高田範國、中田宇兵衛、匹田鋭吉、竹内正輔、金子安太郎、山本吉三郎)。あぐらで洋食。酒の替わりにサイダー。匹田鋭吉が挨拶。  午後8時、公開お伽講演会(常盤町の可愛座)。久留島「(美ちゃんという小猫の為に正直な子供が出世する話)」、巌谷「牛千匹」、500~600人。下足料金2銭。北陸タイムスの竹内水彩(紅蓮)が開会の辞。10時近く散会。  5月25日(火) 停車場で川合錠治牧師、中田書店の金子安太郎、匹田鋭吉、読者会代表らが2人を見送る。9時40分発、二番列車で高岡へ。  高岡到着後、高等小学校で講演会。巌谷「新瘤取」、久留島不明。歓迎会(高岡・景望楼)。教育会総会で巌谷「お伽噺の見本」。武生に向かい武生泊。
※『富山日報』明治42年5月24日・25日・26日いずれも3面、『北陸タイムス』明治42年5月24日・25日・26日いずれも3面、「初蝉日記(北陸口演紀行)」『少年世界』15巻9号(明治42年7月)による。
  • (2013/04/06 16:56) 2023/11/3、竹内水彩の部分を追記。

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