第4章第7節 巌谷と久留島の来訪
明治42年は、地方都市富山で児童文化運動がはじまった年である。それは次々に花が開くかのようであった。5月に巌谷小波と久留島武彦の講演、7月に富山市教育会による児童博覧会の開催、そして同じ7月に五番町児童講談会の月例開催がスタートしている。10月には『富山日報』に子ども欄が設けられた。こうした一連の動きが、翌43年の富山お伽倶楽部の発足へとつながってゆく。
横浜でお伽倶楽部が始まったのは明治36年のことだから、それから6年がたっている。この間に児童雑誌の創刊が相次ぎ、お伽倶楽部が地方に広がり始め、児童博覧会というイベントも各地で開かれはじめた。そうした動きの中心にいたのが、巌谷小波と久留島武彦である。巌谷・久留島と大井冷光との出会いは必然的であったようにも思われる。
児童雑誌の売れ行きに関心
明治42年元旦、大井冷光が書いたお伽噺「黄金の鶏」が『富山日報』の紙面を飾った。干支の読み物である。ちょうど1年前に『高岡新報』に「猿の御年始」を書いて以来、冷光自身はお伽噺について学び続けていたに違いないが、その形跡はこれまで見つかっていない。
2月1日の『北陸タイムス』に、夢之助の署名で「文壇八ツ当り」という記事がある。年の初めに書かれた文壇回顧や文壇展望の記事を批判した内容だ。「越中文壇はまるで子どものお伽式に書いてあった」という記述を読むと、まだ一部にはお伽噺を児童文学として認めていない状況がうかがわれる。しかし、児童文化の時代は確実に訪れようとしていた。
3月7日の『富山日報』に載った「児童の当り年」という記事は、署名はないが、冷光の記事と推定される。
冷光がこのころすでに児童雑誌やその販売状況に強い関心を持っていたことがうかがえる記事である。
巌谷と久留島の来訪に話を進める前に、もう一つ興味深い出来事を紹介しておこう。
対照的な2人の主筆
記者たちが親睦を深める懇談会が明治42年3月28日午後6時から富山ホテルで開かれた。富山と高岡の新聞雑誌5社の17人が出席した。有力3紙が含まれ北陸政報が外れている。大井冷光も井上江花も匹田鋭吉もその場にいた。『富山日報』に「新聞界列強交歓」という記事が翌々日に出ているが、これは冷光の記事と見られる。[1]『北陸タイムス』の記事と併せて読むと、この記者懇談会は次の通りだった。
記者懇談会出席者(明治42年3月28日)
富山日報主筆の匹田鋭吉が開会の挨拶をし、新聞攻守同盟の締結を提案した。これに対して高岡新報主筆の井上江花が言った。「愚老もかねてその意見を抱いておりましたが、しかし退いて考えれば攻守同盟などと言って或いは人に誤解されるようなことはありませんか」。匹田が「攻守同盟というのは武装した言葉で、平たく言えば同志の規約を作ろうというのです」と返すと、江花はそれならいいでしょうと同意し、北陸タイムス編集長の卜部南水も賛成した。結局、匹田・江花・南水の3人が起草委員になって▽攻守同盟▽記者の結合▽共通利害問題の研究▽新聞記者の位地と品位の向上について規約をつくることになった。
このあと北陸タイムスの卜部南水が文士劇に取り組むことを提案した。児童養護施設「深敬保育園」の建築費を補助するために記者たちが協力して慈善興行をしようというのである。結局、史劇1幕と喜劇1幕を上演することになった。史劇の脚本は江花が、喜劇の脚本は江花と南水が担当することになった。[2]
食事が済むころ、今度は演説が始まった。
野村嘉六「新聞紙法改悪に関する演説」
卜部南水「新聞記者禁読書論」
竹内水彩「あぐら奨励談」
井上江花「舌をペロリと出すのを低頭の礼に代えよとの説」
匹田鋭吉「新聞記者の権威と自覚」
この記者懇談会は、2人の主筆の対照的な人柄がよく表れている。井上江花はまだ38歳なのに愚老とおどけながら匹田の提案に注文をつける。単なる冗談なのか意味深の風刺なのか、煙に巻くような演説をした。一方、匹田は何かにつけ強腰の物言いである。冗談半分なのだろうが、新聞記者の意識改革を訴え「知事でも事務官でも呼び付け命令的に材料を供呈せしむる斯くの如くするのが本当である」と気炎を吐く。北陸政報の記者が欠席していたとはいえ、この懇談会から、江花と匹田の2人の主筆が富山県内の新聞記者たちをリードしていたことは間違いなさそうでである。
講演スケジュールで右往左往
博文館の雑誌『少年世界』『少女世界』で巌谷小波と久留島武彦の富山来訪が明らかにされたのは、それぞれ明治42年4月号の誌面でである。発行日が4月1日で、富山の読者もそのころに分かったことだろう。誌面では、講話部主任の久留島が「小波氏と共に、裏日本の方面に大巡回講演を試みん計画」として、5月中旬ごろに出発、名古屋・長浜・敦賀・武生・福井・金沢・高岡・富山方面にいくとしている。そして読者に対して「若しその地方地方の愛読者会を開かれるならば、その時期を利用して戴きたいと思ひます」と愛読者会の開催を呼び掛けている。
明治42年5月1日の『富山日報』2面に「巌谷小波来富」という見出しが立った。末尾に30日東京発とある。「お伽噺の泰斗少年世界主筆巌谷小波は尾上新兵衛と共に来廿日頃富山へ巡回講話に来る筈」。「頃」とか「筈」とか、他紙に先んじるため裏付けも取らずに書いたような憶測めいた記事である。
1週間後には「巌谷小波の来県期」という続報があり、2人の富山滞在は5月23日と24日に確定した旨の通知が富山日報社にあったとある。そして、富山の文士たちと教育者たちが講演会をそれぞれ計画していると報じている。ただ同じ日、『北陸タイムス』にも同様の記事は出ていて、2人の来訪は富山日報の独占的な開催ではなかった。そもそも2人の来訪は博文館の児童雑誌『少年世界』『少女世界』の愛読者会が主目的であって、せっかくなら講演もしていただこうと地元の新聞記者や教師たちが右往左往しているのである。
2人の滞在スケジュールは10日前の5月13日になって内定したが、それも実際の会場や時間とは違っていた。来訪が急に決まったためなのかあまりに段取りが悪い。正確なスケジュールが紙面に出たのは、前日の22日だった。
◇
うれしい5年ぶりの再会
巌谷と久留島の「大巡回講演」(北陸口演旅行)は明治42年5月16日京都、18日福井、20日金沢、22日高岡とめぐって、ついに5月23日、2人が富山に来る日が来た。北陸線はまだ魚津止まりであったから、富山は北陸最奥の都市といってよかった。[3]
この日、富山日報記者の大井冷光は朝早くからわざわざ2人を高岡に迎えに行った。するとすでに北陸タイムス記者の竹内水彩(紅蓮)がいた。竹内は巌谷と旧知で、前夜から巌谷を迎えていたのだった。冷光と竹内が、2人の案内役となった。呉越同舟なのか、それとも児童文化の同志なのか、冷光と竹内の関係は詳しく分かっていない。
一行は高岡を7時に出て午前8時11分着の汽車で富山に着いた。5か月前に新築されたばかりの駅舎には、子どもを含めて大勢の人が出迎えに来ていた。[4]
巌谷と久留島は桜木町の富山ホテルにいったん入り、それから少女世界愛読者会の会場である富山市公会堂へ向かった。
冷光が巌谷小波の姿を生で見るのは、東京での受験浪人時代に講演会を聞きに行って以来、5年ぶりだった。あのときは観衆のうちの1人に過ぎなかった。この時点でも、巌谷が相変わらず雲の上の存在であることは変わりがないが、冷光は案内役という立場でずいぶん近づけたような気がしたことだろう。5年の間に、冷光は文士の端くれとなり、富山という地方都市でのことだが本を出版し、紙面に自作のお伽噺を書くまでになった。冷光はとにかく嬉しかった。それが紙面に色濃く残っている。
翌日掲載された2紙の記事を紹介しよう。
『富山日報』の記事には「大坊ちゃん」と署名があり「15年前よりの愛読者」という記述から冷光が書いたものとみられる。一連の記事は、『北陸タイムス』のほうが客観的でコンパクトにまとまっている。冷光の記事は主観的で冗漫だが、嬉しさがにじみ出ている。久留島はこのころ『少年世界』『少女世界』誌面で尾上新兵衛でなく本名を名乗るようになっていたから、冷光の記事では本来久留島武彦と表記すべきところだが、尾上新兵衛のほうが読者に分かりやすいと考えたのであろうか。ただ冷光にとっては、巌谷小波と久留島武彦は並列でなく、やはり巌谷が別格の存在であった。
この日、10時4分着の列車で、大浦兼武農相の一行も富山を訪れていた。紙面は当然、農相関連の記事が多いが、巌谷と久留島の記事にもかなり紙面が割かれている。2人の来訪は大きな関心事であり、連日の行動が報道されている。
お伽趣味の普及
ここで、少し時間を戻し、巌谷と久留島が当時何をしていたのか触れておこう。
巌谷小波は、雑誌『少年世界』の主筆を続けながら、力を注いできた「世界お伽噺」叢書を明治40年末に完結させた。明治32年1月のスタートから毎月出版し100巻になった。完結を記念して明治41年6月6日から8日まで「お伽祭り」という催しを東京座で開いた。そして7月30日から15日間、久留島ととも長野県内各地を巡回し愛読者会などで講演している。
また巌谷は明治41年に三越呉服店に新設された子供部の顧問となった。三越は42年4月1日から初めての児童博覧会を開催し、巌谷が北陸口演旅行に発つちょうど5月15日に終わったところだった。
一方、博文館講話部主任の久留島武彦は明治40年7月に少年世界お伽幻燈隊で栃木・福島・岩手・宮城・茨城を16日間巡回講演した後、しばらく地方行脚の記録はない。東京でのお伽倶楽部を中心に活動していたようだ。明治41年に入り1月神戸、2月静岡、再び神戸でお伽講話。そして3月18日から6月21日まで朝日新聞の世界1周旅行に参加している。帰国後、『少年世界』『少女世界』の地方巡回が再開され、7月30日から15日間かけて長野県内各地を、10月から11月かけては京都・岡山・広島・下関・博多・熊本・静岡などを巡回している。
明治42年に入って講話部への講演依頼はますます増えていた。1月に静岡、2月に神戸、4月に長野を再び巡っている。
「お伽趣味の普及するにつれて、吾が少年世界講話部は各方面よりの要求に忙殺されて、殆ど編輯に顔を出す暇すら無い。二月から三月にかけては、少年方面の要求ばかりで無く、各種中学の談話会同窓会各女学校の会合、婦人会、父兄講話会と云ふ様に、多種多方面からの招きに会して、何れを謝絶し何れを後に為してよきものか、殆選択に苦しんだ事であった」[5]
「停車場を玄関とし汽車を住居としていた」とのちに幾度も形容される久留島のたびの仕方はこのあたりから始まっている。この形容はのちの冷光にも当てはまるが、もともとは『少女世界』記者の沼田笠峰(1881-1936、本名藤次)が久留島に送った書面に書かれてあったと、久留島自身が書き残している。[6]
吉野桜と八重桜
初日の5月23日、巌谷小波と久留島武彦は富山市公会堂で午前と午後に分けて開かれた『少女世界』と『少年世界』の2つの愛読者会でそれぞれ講演した。少女世界は200人余り、少年世界は500人余りの参加があり、記念の絵はがきが配られた。
少女世界愛読者会(明治42年5月23日午前9時開会、富山市公会堂)
開会の辞(河合牧師)
君が代(会員一同)
歓迎の辞(島田すみ)
歓迎の歌(幹事一同)
お伽話(久留島新兵衛)
弾琴(松田よし、木村せつ)
お伽話(小波山人)
独語〓姫(稲垣ゆか)
お話鳥の音楽(金森きよ)
朗読(島田すみ、森永まつ江、青山むつを)
少女の歌(幹事一同)
閉式の辞(森永)
『北陸タイムス』明治42年5月24日3面による。河合牧師とあるのは川合錠治牧師(1870-1938)である。
特に少女世界の愛読者会は整然と進行した。そのことが久留島に強い印象を残したようだ。混雑して運営がうまくいかない他の愛読者会を知っていて、「今日まで参加した愛読者会の内、此の点で尤も整頓を誇るに足るのは、富山市少女世界愛読者会でした」と後に振り返っている。[7]
少年世界愛読者会では、2人の講演のほか、委員の演説や仮装舞踊(滑稽踊り?)、吟詩、謡曲、蓄音機などがあったという。
巌谷と久留島、2人の話しぶりはどのようなのものだったのだろうか。富山県高岡市の大坊謹道という人が27年後にこんな回想文を綴っている。
巌谷と久留島をよく知る生田葵山(いくた・きざん、1876-1945)は世間の評判を次のように書いている。
巌谷は、2つの愛読者会の間、総曲輪尋常小学校で開かれた市教育会定期総会にも出席し、教員たちを相手に教育とお伽噺について話した。
玩具収集に同行
初日の夜は、富山文芸会主催の講演会が開かれた。会場の市公会堂には300人が集まった。富山文芸会は前月11日に新聞記者や弁護士・医師・教員ら60人が集まり発足式を開いたばかりで、このころ富山では文芸趣味が広がりを見せていた。
2日目の5月24日月曜日。午前中、巌谷と久留島は、大井冷光らの案内で神通橋をはさんで北にある橋北(いまの愛宕町周辺)に行った。その目的は郷土玩具の収集である。巌谷は児童博覧会の関連で玩具に関心が深く、久留島が前年の世界1周旅行で玩具を集め、このころ2人とも玩具研究に熱心だった。巌谷は午年生まれで馬の玩具を集め、久留島は戌年生まれで犬の玩具を収集していた。
購入したのは、土偶玩具(土人形?)や木彫り馬(愛宕村田村木彫り屋)、焼き物の牛、着衣の猿、天神様の鋳型などである。20日の金沢でも木製の獅子頭を購入していたが、2人は富山はいろいろな材料の玩具があるといい、木彫りの馬は特に理想的にできていると喜んだ。
2日目の午後、2人は富山高等女学校で600人を前に講演した。この後、県庁と富山日報社の前に前月完成したばかりの公園で松の記念植樹が行われた。2人は少女世界の読者たちとともに松を植えた。
県師範学校での講演が終わると、午後6時近くから歓迎晩餐会が富山ホテルで開かれた。会費1円で、教員・新聞記者・医師・弁護士ら26人が出席した。まず裏庭で記念撮影をしたあと、あぐらで洋食、酒の替わりにサイダーという風変わりな宴会が食堂で開かれた。富山日報主筆の匹田鋭吉が挨拶し、巌谷が感謝の言葉を述べた。宴会は和やかに2時間近く続いた。
巌谷は隣に座った県師範学校校長の安藤季雄に向かって言った。「私も(本名は)季雄ですが、私の季雄は末っ子という意味でつけたのです」。すると、匹田が安藤にあなたも末っ子ですかと聞いた。「いや、私の家では代々当主が『季』の字をつけるのです、それで私も総領です」。
誰かが「先生はかつて漣山人とお書きになったのですが、なぜ小波という字に変えられたのですか」と聞いた。巌谷はこう答えた。「私の姓は大江ですから大江小波は面白いと言って変えたのです。漣という文字は間違えて読む人があって、ある人はシズク山人などと言うので嫌になったのです」[8]
この日は宴会の後さらに午後7時から公開お伽講演会が常盤町の可愛座で設定されていた。酒を飲まなかったのはそのためらしい。宴会が1時間近く延びたために午後8時から講演会が始まった。竹内水彩が開会の辞を述べ、いつものように久留島・巌谷の順で講演した。
下足料金2銭で子ども向けのはずだったが、大人の姿が思いのほか多かった。翌日列車を待つ間、雑談で久留島が「大供が多いのには面食らった」と話すと、匹田は「富山人が稚気に富んでいる証拠ですよ」と弁護した。しかし口の悪い誰かが「いや、富山人の知識は大供がちょうどお伽噺を聞くくらいの程度だろう」と言った。[9]
夜10時近くに講演を終えてホテルに戻ると、疲れ切った巌谷と久留島には、揮毫の依頼が待っていた。「扇子絹地絵はがき等雨の如く両氏の膝の上に落ちて来る」ようだった。しかし2人は嫌な顔もせず一つひとつ筆を走らせたという。
一方で、午前中買い集めた玩具を荷造りするのは、大井冷光と竹内水彩の仕事だった。「抱え切れぬ程有る奴を煙草の大空箱に鉋屑古新聞等を入れて入れ冷光と紅蓮が手伝ってホテルの一番善い室を籔程を撒き散らした」という。[10]さまざまな思い出を残してまたたくまに2日間が過ぎた。
5月25日、2人が富山市を離れる日である。富山駅には、川合牧師、中田書店の金子安太郎、富山日報の匹田鋭吉、読者会代表らが見送りに来た。2人は9時40分発の二番列車で高岡へ向かった。
巌谷と久留島のその後の日程は次のようである。「高岡打ち上げ後は直ちに出発、武生一泊に続いて、近江國長浜にて講話あるべく夫より久留島氏は来月廿日頃迄九州を巡回し小波山人のみは帰京すべし」。[11]
竹内水彩は児童雑誌の先輩格
冷光とともに2日間を通じて案内役をつとめ、最後の公開お伽講演会で開会の辞を述べた竹内水彩とはどんな人物なのであろう。
竹内は本名正輔、明治13年1月生まれで、冷光よりも5歳年長だ。富山県下新川郡入善町出身である。[12]明治29年ごろ雑誌『少年園』の投稿者だったらしく、同誌の読者投稿集『詞藻 新體詩集』(明治29年2月)に「荻ふく風」という作品が竹内水彩の名で載っているほか、『文庫』3巻3号(明治29年8月)にも「ひまゆく駒」という作品が本名で載っている。その後、竹内は紅蓮と名乗り、東京で児童雑誌『少國民』の主筆を務めていた。明治32年12月から明治35年1月までの誌面で、唱歌や歴史読み物、お伽話、など40編ほどが確認されている。明治34年1月1日発行の第13年第1号広告欄最終ページに「北隆館編輯局」の30人が記されていて、一番最後に竹内紅蓮の名がある。
『少國民』は、もとは『小國民』という雑誌だった。明治22年7月に学齢館が創刊し、『少年園』『少年文武』とともに国内児童雑誌の先駆け的存在とされる。石井研堂が編集主幹をつとめ、『少年世界』が創刊されるまで大変な人気を博したという。明治28年、戦争に関する記事をめぐり発行禁止処分を受けた後、『少國民』と改題して再スタートしたが、学齢館が経営難に陥った。その後、発行元が明治29年12月に北隆館(京橋区鎗屋町14番地)、明治34年4月に鳴皐書院(東京市麹町区三番町53番地)へと替わった。そして明治35年2月1日発行の『少國民』には「竹内正輔氏編輯局を辞し今後関係無之候追て少国民本年第二号までの原稿料等はすべて同氏に払渡し申置候為念申添候」と記されているという。[13]
竹内は鳴皐書院から2冊のお笑い小噺集を出版している。明治33年10月に『小哲学(一名笑林)』、明治34年7月に『続小哲学(一名笑林)』である。前編には巌谷小波が序文を寄せていて、後編には「少國民主筆 竹内紅蓮」と記されている。『少國民』と『少年世界』は競合誌のはずである。相手方の主筆に序文を寄せてもらったということだろうか。一方、巌谷の「初蝉日記」では「紅蓮氏わ曾て本誌にも寄稿した人」と記されていて、竹内と巌谷が知り合いであったことが推測される。ただ、『少年世界』に紅蓮や水彩の名は見つかっておらず、ペンネームが違う可能性も含めて調査が待たれる。
竹内は、明治41年11月の『北陸タイムス』創刊時から同紙の記者となり、2面を担当した。明治42年1月の時点で冷光とともに新派俳句結社「墨汁吟社」に名を連ねている。このあと、竹内は冷光とともに富山お伽倶楽部にかかわるなど児童文化運動の一翼を担う。明治43年5月に『北陸政報』に移籍し編集長をつとめ、その後、『立山新聞』(滑川)の主筆となり、大正2年12月に『富山風景論』を自費出版している。[14]
竹内は、冷光から見て児童雑誌編集の先輩にあたる。とすれば、富山の児童文化の中心に立ったのは、冷光でなく竹内でないか。そのような推定も成り立つ。しかし、明治42年5月、巌谷と久留島の2人に強烈な印象を残したのは、竹内でなく冷光であった。
◇
[1]『富山日報』明治42年3月30日3面。「世界の列強に見立てると、高岡新報が虎視眈々経済的の発展に抜目の無い処は先づ独乙(ドイツ)といふ格、又タイムス(北陸タイムス)が独裁君主を戴かずして一種の帝国主義を行ひ、而かも新を競ひ奇を好むといふ風ある處は米国式である、又薬業時報と法政彙報とは、規模も小さく陸海軍は備はって居ないが、列強の間に伍して侮を受けざる處は白耳義(ベルギー)瑞西(スイス)の類であらう、我社(富山日報)に至ては頗る立憲的で、文明的で、而かも其営業振りに保守的の気味ある處、僭越乍ら英国の地歩を占むるものと申しても甚しき自惚れではあるまい」。丸括弧内は引用者注。これが冷光の記事である根拠は具体的にはないが、たとえば同年11月5日の「社員の野外大運動会」の記事のように冷光の署名がある記事を読んでいくと、面白おかしく仕立てるのが冷光の得意とするところだった。富山日報には他に同様の柔らかいタッチの文章を書いた記者が見当たらない。
[2]実際に文士劇が上演されたかどうかは分かっていない。今後の調査が待たれる。
[3]巌谷小波の「北陸口演旅行 初蝉日記」『少年世界』15巻9号(明治42年7月)の書き出しはこうである。「『木から木え飛ぶ間を蝉の休かな』という句がある。僕の口演旅行わ、正しく其観がある。而して今度の北陸行わ、今年度の初の旅である、依って其題斯の如し」。巌谷が富山をそれまで訪れたことがあったかどうかは不明である。久留島は大阪毎日新聞時代の明治35年に取材で富山を訪れ、井上江花に会っている。
[4]北陸線は明治41年11月16日に魚津駅まで延伸し、同時に富山駅が田刈屋の仮停車場から牛島の沼地そばの荒野(現在の富山市明輪町)に移転して新駅舎が完成した。北陸線が直江津まで延び全線開通するのは大正2年である。
[5]「講話部の巡回」『少年世界』15巻5号(明治42年4月1日)による。
[6]「泊行きの五七三列車より」『お伽倶樂部』2巻6号(明治45年6月)による。「少女世界の沼田笠峰君より『君のやうに停車場を玄関とし、汽車を住居として居る人間には、旅などと云ふ感じも興るまいが云々』と書てあつたのを見て、如何にも巧い事を云たものだと感心させられた」
[7]「諸嬢の會合法」『少女世界』4巻13号(明治42年10月)による。
[8]『富山日報』明治42年5月26日3面。
[9]『富山日報』明治42年5月26日3面。
[10]『北陸タイムス』明治42年5月26日3面。
[11]『北陸タイムス』明治42年5月26日3面。ちなみに巌谷はこの年明治42年8月19日から12月17日まで渋沢栄一渡米実業団の一員として海外に出ている。
[12]筏井竹の門選句集『奈古の浦』(明治35年3月)の巻末に「越中日本派俳家金蘭」という俳人名簿(40人)が掲載されている。下新川郡の項に「在東京竹内水彩」がある。『昭和俳人録』(昭和5年1月20日刊)に略歴があり、雅号「大三位」、職業「十数年来失業」、現住所も本籍も東京市となっているが、添付された写真は大きく口を開けた顔で、変わり者の感がある。竹内水彩については、例えば雑誌『むさしの』6巻2号に「曾て「少国民」の編輯主任をなすや寄稿家に仕拂ふ可き原稿料を誤魔化死ロハを以て寄稿せしむるより各家立腹同盟して同紙に筆を執らず、終に廢刊の運命にまで堕落れたる竹内水彩其後故國富山に雲隠れし居たるが近頃又外交係をなすとか」あるなど、他にも問題視する記事がある。その真偽は今は確認ができない。
[13]『少國民』については、鳥越信『児童雑誌「小国民」解題と細目』(2001年)による。なお、北隆館は富山と関連が深い。明治24年、北陸3県の書籍取次業者たちが新聞・雑誌・書籍の卸売を目的に「北国組」を創立、明治27年に北隆館と改称した。代表になった福田金次郎(1860-1946)は、清明堂書店の福田栄太郎と義理の兄弟であるという。また、北隆館編輯局30人の名簿の中には、富山県氷見出身の服部霞峰の名がある。
明治38年3月21日に神田青年会館で「社交婦人音楽会」が開かれたが、米田流星・遠藤清子とともに雑誌『社交婦人』編集に竹内正輔がかかわっていたらしい。『三浦環 伝記資料考』三 東京音楽学校時代後編による。
[14]『富山風景論』には、13人が序文を寄せた。そのうち、高田浩雲は「友人」、高田稲光は「竹馬の友」「十三四にして巳に文壇の人たりき」、舟木香洲は「高陵文林の特別寄稿家だった」などと書いている。また北陸タイムスの同僚だった藤井黒龍は、同社で3年間机を並べたことや竹内が立山新聞主筆となったこと、その後竹内が隣家に越してきたことなどを振り返っている。
巌谷小波と久留島の富山来訪(明治42年)
(2013/04/06 16:56) 2023/11/3、竹内水彩の部分を追記。