第7章第5節 新年に飛躍を誓う
明治42年から43年にかけて、大井冷光は児童文化活動以外にさまざまな足跡を残している。新聞各紙をもとにまとめておこう。
自宅で墨汁吟社例会
大井冷光が所属していた新派俳句結社「墨汁吟社」は明治42年7月17日、組織改編を行った。
この日は『北陸タイムス』編集長、卜部南水(幾太郎)の自宅(桜木町1丁目)で例会を開き、会の方針変更が了承した。それまでの墨汁吟社には俳句を常時詠んでいない親睦だけの会員も含まれ、同年正月の広告によれば47人の会員を数えていた。俳人のみの団体とすることになり、会員は以下の16人に絞られた。
田村無尽(武三・連隊副官)
大井冷光(信勝・富山日報記者)
日比野正之
卜部南水(幾太郎・北陸タイムス編集長)
日俣愛松(八郎平)
萩原椿川
富川亀汀(芳太郎)
高田稲光(範國・小児科医)
福井白柿(清三郎・元富山電燈会社)
蜷川酔眼光(義正)
水上不流
舟木香洲(廣義・北陸タイムス記者)
竹内水彩(北陸タイムス記者)
中田錦紗(為太郎・中田書店)
赤江蓼花(時二)
黒田兎毛
南水宅の例会では、そばとビールが出され、参加者は「毛虫」「夏痩」の二題で俳句を詠んだ。蚊に攻められながら気焔を吐いた、という。散会は午前1時だった。記事には冷光の名がない。夏山駐在の準備で忙しく、この例会を欠席したようだ。
墨汁吟社は毎月1回、場所を変えて例会を開いている。明治42年11月12日、南田町杉苗にある大井冷光宅で月例会を開いた。出席者は錦紗・冷光・柴の戸・香洲・稲光・蓼花・椿川・酔眼光・白柿・愛松・不流の11人である。「水鳥」と「霜」の題で詠み、互選したという。闇汁が振るまわれ、出席者は俳論を戦わせたという。散会はやはり午前1時と記録されている。
この会で冷光が詠んだ句。
日報吟社
墨汁吟社の11月例会から2日後、11月14日には、富山日報の主導で「日報吟社」が発足した。社員とみられる7人と、小児科医の高田稲光が参加した。『富山日報』16日3面に冷光の署名記事が出ている。それによると、主筆の匹田雪堂(鋭吉)が、夏の立山登山で俳句を初めて詠んで以来、俳句にのめり込み、匹田の自宅で句会を開くことにした。題は「落葉」「火鉢」「女」で詠んだという。
この会で冷光が詠んだ句。
日報吟社は1か月後の12月15日、匹田の家で義士忌記念俳句会を開いた。日報社員のほか、弁護士や画家、医師など合わせて24人が参加した。
匹田雪堂・磯部醇・大井冷光・水野眠鴎・西岡空莫・卜部南水・横山白門・島田神水・山田望天・山田天南・森田幸太郎・野村嘉六・柳四郎・渡邊亥八・舟木香洲・高田稲光・亀田外次郎・柴谷龍寛・〓村静處・佐久間有平・渡邊梅辰・遠藤霜井・高田浩雲・竹荘
この会で冷光が詠んだ句。
この義士忌句会の様子は、「雪堂宅の義士忌」という2回連載の記事にまとめられている。署名はないが、文体からみて冷光が書いたものと推測される。
大沢野で社員野外運動会
主筆の匹田鋭吉は思い付きで次々に新しいことを命令する人物だった。時は遡るが、富山日報社は11月3日、天長節の祝日に大沢野村(現在の富山市大沢野)の原っぱで社員野外運動会を開いた。冷光は、5日から4回連載の記事を書いている。
運動会には24人が参加して校正競争・文選競争・植字競争などを行った。読者を意識して趣向を凝らしているのは分かるが、社内報に書くような内輪ネタを新聞紙面の3面トップ記事に仕立てる感覚は、現代ではなかなか理解しがたい。
この大沢野での運動会をきっかけに涜職事件が起き、匹田は明治44年に有罪判決を受けることになる。このことはおそらく冷光の進路選択にも影を落としたことであろうが、後で詳しく述べる。
連載「日報パノラマ」
冷光が『富山日報』でどんな記事を書いていたかは、署名が少ないためよく分からない。が、文体から冷光が書いた可能性が高いものがある。たとえば、明治42年11月10日から始まった連載「日報パノラマ」である。3面トップの雑観記事で、12月29日まで47回続いている。このうち署名があるのは5回で「大里」「白砂」「影法師」「喝生」が確認できる。白砂はかつて冷光が使っていた雅号「白沙」に近い。12月18日の「属僚共の冬籠り」を書いたのは「白郎子」(横山白門)であることが分かっている。
連載「日報パノラマ」はおそらく分担執筆だろうが、中心になったのは冷光であると見られる。書き手が「パノラマ子」という表現で記事の中にも出てくる主観的な雑観は、冷光が得意とする記事スタイルだからだ。宇佐美知事を取材した「富山紳士の趣味」(明治42年6月19日)がその典型的な記事で、これには冷光の署名がある。
11月21日には、第2回「舌の会」が開かれた。5分間演説で弁舌を鍛えるという趣旨で、6月12日に匹田鋭吉が世話人になって発足した。1回目は20人が参加した。2回目は北陸タイムス編集長の卜部南水が幹事を務め、宇佐美勝美知事と永井金次郎県内務部長をはじめ、弁護士や新聞記者など約20人が参加した。冷光の名前はない。
北陸探検団
冷光が所属した団体としては、墨汁吟社のほかに北陸探検団があった。高岡新報主筆の井上江花が司令をつとめる団体で、冷光は高岡新報から富山日報に移籍したあとも会に参加していたようだ。
北陸探検団は明治42年12月6日夜、団憲法制紀念式と追悼会を高岡新報富山支局で開いた。団員十数人が出席した。
江花は、団憲法を朗読し訓示した。荒井、白舟、赤祖父凉月があいさつした。引き続き行われた追悼会では冷光もあいさつした。
北陸探検団は翌43年1月15日に富山公会堂で新年会を開き、34人が出席したが、冷光が参加したかどうかは不明である。
クリスマス会の対話に注目
明治42年12月。年の瀬に大井冷光は2つのクリスマス会を取材したものと見られる。25日と26日の紙面にその記事は出ている。署名はどちらも一記者。開かれたのは24日だから、掛け持ち取材をしたか、あるいは片方は後日取材だろうか。どちらの記事も、子供の様子が丁寧に書かれている。
日本基督教会のクリスマス会は富山公会堂で開かれ、市内外から700人ないし800人の子供が参加した。会場正面にプレゼントの玩具を吊るしたツリーが電灯に照らされた。日曜学校の子供が、聖書の暗誦、賛美歌合唱、オルガンを使った対話(簡単な演劇)、演説を行った。最後に挨拶をしたのは、同教会富山講義所の中村慶治牧師だった。
一方、二番町のメソジスト教会は、ウイルキンソン宣教師らがクリスマス会を開いた。教会付属幼稚園児と日曜学校の生徒たちが参加した。ウイルキンソン宣教師の3人の子どもが、ウイルキンソン婦人のヴァイオリンで賛美歌を歌った。余興として、やはり対話や新体詩朗吟が行われた、という。
2つの記事は、クリスマスそのものより、対話や新体詩朗吟などに力点が置いて書いているように読める。
この年の最後の紙面を飾る「こども欄」の記者通信に、冷光は次のように書いた。
充足感を感じさせる編集後記だ。この29日の時点で明治43年1月1日の紙面はもう出来ていたはずで、そこで重要な発表をすることになる。
新年号紙面に編集者の片りん
大井冷光が編集した『富山日報』明治43年元旦号6面の「少年ページ」は、それまでの子ども欄とは大きく違う。2色刷りで強烈な印象の体裁である。児童雑誌編集者の片りんをうかがわせる紙面と言うべきか。
冷光は自ら、赤い犬の図案を34種類も紙面の周りに描いた。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえ」と文字が添えられ、左下には「冷光写」という署名がある。真ん中には、学生服に学生帽の少年が犬の戯れている赤い絵があり「チンネンおめでとう ぼっちゃんワンザイ」と見出しがある。
お伽噺「犬の初旅」 ……… 冷光
少年小説「出世犬」 ……… 布村杵人
少年短文 …………………… 読者投稿(2編)
懸賞募集 少年俳句 ………… 読者投稿(27点)
懸賞募集 少年笑話 ………… 読者投稿(3編)
懸賞お伽「犬のお年玉」 … 読者
記者通信 …………………… 冷光
トップ記事は、冷光の署名があるお伽噺「犬の初旅」である。1650字の短編で、犬を主人公にした冒険物だ。クルクル山まで雪姫伯母さんを迎えに行ってくれと両親に頼まれた白助が、途中で雪達磨と鶴に出会い、最後は鶴に乗って山にたどりつくという粗筋だ。内容は園児ないし小学校低学年程度向け。巌谷小波の「わ仮名」を用いている。漢字が使われているので読み聞かせを意識しているようである。
注目すべきは、編集後記に当たる「記者通信」である。
冷光はここで重要な予告をしている。富山で「少年少女の大会合」というのは、明治43年7月4日に発足する富山お伽倶楽部の大会である。お伽旅行とは、同年8月7日から11日にかけて行われた瀬戸内海子供周遊会「お伽船」(お伽倶楽部主催)である。
2つの出来事にはいずれも久留島武彦が関与している。おそらく明治42年5月の巌谷小波と久留島武彦の富山訪問以来、冷光は久留島と文通を重ねながら半年の間で久留島の児童文化活動に傾倒していったものと思われる。
華々しい少年のページだったが、新年早々、冷光は病気で療養を余儀なくされていたらしい。富山少年会の新年大会が1月3日午前8時から富山市公会堂で開かれ、冷光は『北陸タイムス』の竹内水彩とともに出席する予定だった。しかし実際は参加できなかった。この会では会長の布村杵人ら10数人が演説し、福引やお伽噺の余興があったという。
児童雑誌編集を視野に
1月13日の少年欄から、冷光は自分が創作したお伽噺を相次いで発表した。4月までに計5作品を連載している。
少年欄(少年のページ) 1910年(明治43年)
明治43年年初から始まった少年欄で、冷光は児童雑誌を強く意識して記事を書くようになった。
1月17日から自分に届いた年賀状を紹介している。地方都市にいながら、中央への人脈が広がっていたようにみえ、この年の年末に上京する布石と見ることもできる。まず敬愛する『少年世界』主筆の巌谷小波、翌18日は巌谷の友人で『探検世界』(明治39年5月創刊)主筆である江見水蔭(忠功)。江見は、後述する猛獣狩りにかかわることになる人物だ。巌谷と江見は、元読売新聞記者だった主筆の匹田の人脈である。
19日には、文部省視学官の吉岡郷甫からの賀状を紹介している。吉岡は第1期国定『尋常小学読本』を編纂した人物で、明治40年2月から高野辰之とともに『家庭お伽噺』シリーズを春陽堂から出していた。吉岡は明治42年11月24日に富山市を視察に訪れたのだが、冷光はその際取材してつながりを作ったらしい。
1月21日の少年欄では、久留島武彦から15日付で届いた賀状を紹介している。
明治43年に入ってから、冷光は久留島武彦という人物の魅力に引き寄せられていったようにも見える。[1]
この久留島の賀状紹介のすぐあとから、冷光は新年雑誌の批評記事を書き始めている。
ある人が冷光宅に訪れ、『日本少年』は北陸タイムス式、『少年界』は北陸政報式、『少年』は高岡新報式、『少年世界』は富山日報式だと評した。冷光はそれが面白くて、自身も児童雑誌の批評をしたくなったというのである。
冷光は明治42年頃からたびたび新刊紹介欄で、児童雑誌を紹介してきた。この明治43年1月21日から30日かけてみられる雑誌紹介は、単なる内容紹介にとどまらない辛口批評である。『日本少年』『少年』『少年界』の3誌を取り上げている。1年半後には東京で雑誌編集をすることになるのだが、すでにこのころ冷光自身が児童雑誌に対する批評眼を養っていたことがよく分かる貴重な資料である。
批評した3誌のうち、冷光が高く評価したのは時事新報社の『少年』である。この記事から2年9か月後の大正元年9月、冷光は『少年』編集部主任になるのだから、奇縁というべきだろう。
◇
『富山日報』明治43年1月30日1面、少年欄の記者通信に次のような記事が出ている。
冷光は、新年号で掲げた目標を早速行動に移そうしていた。
◇
[1]『グラヒック』2巻1号(明治43年1月)には、久留島武彦が「戌歳と戌の玩具」という文章を寄稿し、そのなかで「富山の友人大井冷光氏」から「木彫犬張子」が寄せられた、と記している。
(2018.07.29)