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第4章第1節 井上江花との出会い


早稲田進学を断念

「明治三十八年四月は僕が悲運のドン底に蹴落とされた月だった、後見人[1]が家産を踏んだくって逃げたと知れ、その遺族が路頭に迷はうとすると知れて、入学し掛けの早稲田の予科から引っぱり戻された、その月であるのだ」

(「拾はれた日」『探検』第14号明治43年7月10日発行・富山県立図書館蔵)

大井信勝(のちの冷光)がこう記したのは、その出来事から5年後、新聞記者となって4年目である。人生のドン底というものは、それが底だと分かるのに時を要する。19歳の信勝は、その事態に直面し、それこそ底知れぬ不安に襲われたちがいない。

伯母の家に戻ると、玄関の戸障子に差し押さえの紙が貼られていた。出迎えた伯母は泣きつくように言った。「どうして下はれる」。奥の間に上がってみると、亡き母の写真や父の筆跡など、大井家のわずかな遺品を収めておいた箪笥が差し押さえの紙で封じられていた。後見人である伯父が投機の失敗で遁走したあとの家は、想像以上に悲惨だった。

調べてみると財産はもう滅茶苦茶である。ある田は二重抵当に入り、貸金と借金を比べると借金が多かった。滞納税を督促され、信用借りの返済を求められた。伯父は、親戚の替え玉を使って偽の家族会議を開き、私文書を偽造していた。進学の拠り所だった大井家の財産も横領していた。

伯母は育ての親である。その夫である伯父をどれだけ憎いと言っても警察に訴えるのは忍びない。この家には4人のいとこと、それに80歳を過ぎた祖母もいた。自分がすべてを背負って後始末を付けなければならない。運命にあらがうことなどできない。そう決意するまでどれだけの時を要したことであろうか。

信勝は、家財を東京に残したままで、兵役検査を受けるために一時帰省のつもりだった。しかしあまりに悲惨な事態に直面し、もう東京には戻れなくなった。巌谷小波が講師をつとめる早稲田大学への進学は、入学手続きまでしておきながら、あきらめざるを得なかった。お伽作家の夢は一気にしぼんでしまったのである。

「同窓の友へ衣食の途を」

とにかく働いて稼がなければならない。代用教員(雇教員)として雇ってもらうことはできないだろうかと信勝は考えた。教員の伯父を嫌って教員という職業自体を罵っていた時期もあったが、もうそんなことは言っている場合でない。まず相談したのは、農学校時代の先輩、久田二葉(賢輝)だった。手紙で問い合わせると自分は富山にいないので農業関係の職を紹介するのは難しいが、最近文通を始めた井上江花という人がいるので頼んでみるという返事だった。久田は、新聞記者の井上江花に頼んで信勝を記者にでもと考えたらしいが、それほど簡単な話でなかった。

井上江花は、明治4年3月20日生まれ、ロシア正教会の伝道学校を卒業し、愛媛県松山市で布教活動していたが、病を患い故郷の金沢に戻った。その後、新聞に小説を書いていたが、縁があって明治33年に『高岡新報』の記者となった。明治37年に富山支局主任となり、38年当時は34歳である。記者らしく幅広い視野を持ち、さまざまな分野の記事を書いていた。その頃もう小説は書かず、明治初めの農民騒動「塚越ばんどり騒動」を取材して連載し、一方で中越史談会を結成して郷土史研究にも力を入れてはじめていた。

久田と井上が文通するようになったいきさつは不明である。江花の日記には明治38年1月から3月まで計13回の書簡のやりとりが記されている。[2]久田は、江花の写真を受け取ったり身上談や小説を送ったりしている。

「同窓の友へ衣食の途を授けてほしい」。江花に久田から最初の依頼状が届いたのは、明治38年4月13日のことである。江花は翌14日返信したが、すぐさま16日にまた依頼があった。3週間おいて5月6日、久田はまた頼んできた。5月10日に久田の来信を受けて、5月13日「大井信勝君採用のことに決し中新川郡西の番の同君へハガキ出す」と日記に記している。信勝の件で、久田は合わせて4回、江花に書簡を送ったことになる。

江花は、久田とは文通だけで生涯顔を合わせたことはなかったと書き残している。久田はこのころ社会主義思想の著作を愛読していることがきっかけで、石川県鶴来町にあった葉煙草専売局の技術官を辞めていた。5月には静岡に移住して「放浪生活」をしていたという。自分が苦境にあるにもかかわらず、後輩の就職斡旋のために何度も筆を執るというのはどういう思いであったのだろうか。農学校時代から植物と文学に関心を持ち、文章力はあったにちがいない。顔も知らない江花を説得するのだから。一方で江花も、いかに世話好きとはいえ、見ず知らずの人物の就職先まで世話をするというのは尋常ではない。久田の文章を信じ、信勝の人となりを想像したことであろう。若いころの布教活動で、弱き人を見つけたときに放っておけない性格だったのだろうか。

差しのべられた救いの手

信勝が帰省してから2か月半の日記は残っていない。伯父が残した借金を整理し、何をせねばならないのかを考える毎日だったことであろう。

5月15日、鉛筆で走り書きしたはがきが届いた。「久田氏から紹介の一件好都合に搬び候間明日県庁迄出頭云々」。差出人は井上忠雄。富山中学1年のとき、『富山日報』で小説を書いていた井上江花からだった。「憧憬して居た」人だという。信勝はすぐにそのはがきを持って隣村にいた深山庄作に知らせに行った。深山は、太田高等小学校で信勝と一緒で、農学校でも同級生、そして東京もよく話をした仲だった。深山は信勝の一連の騒動を聞き心配してくれていた。[3]

井上江花 撮影時36歳。
明治38年当時は34歳
※『江花文集』第1巻(1910年)高岡市立図書館蔵

明治38年5月16日の火曜日は忘れられない日になった。荒い絣の綿入りに伯父の袴をはいて、幅広で焦げ茶色の中折帽子をかぶった信勝は午前8時ごろ、鹿島町にある井上江花の自宅を訪ねた。県庁にいく前にまずはお礼を述べたいと思ったのだが、江花は出た後で、妻の操しかいなかった。操の応対は丁寧で優しかった。信勝は「妙な運命に翻弄されて漂へ寄った若者に対して、千金にも換え難い、暖かい懐かしい同情の言葉、慰安の言葉を与えられた」とのちに回想している。

富山県庁
明治33年の富山大火の後、新築された。
富山県米穀検査所は県庁内にあった。
出典:『富山県写真帖』明治42年

午前9時、県庁に着くと、高等小学校で同級生だった三鍋保三(竹聲)に会った。米穀検査所の書記をしている三鍋は「君の話は聞いた、井上さんを呼んで来よう」と言った。しばらくして江花がやって来た。「やああなたは大井さんですか」。焦げ茶色の背広姿で、人なつこい顔に笑みをたたえて言った。これが、終生付き合うことになる井上江花との初めての対面だった。江花は冷光死後の回想記で「インキに染んだ古い帽子、すこぶる謙遜な態度で、誰にでも好感をもって接する」と印象を記している。[4]

県の米穀検査助手に

その日午後3時ごろ、信勝は「富山県米穀検査所助手を命ず日給三十五銭を給す」という辞令を受けた。『富山日報』『北陸政報』明治38年5月18日付の富山県辞令に「大井信勝」の名が掲載されている。

井上江花が米穀検査所の仕事を紹介したのには背景がある。明治になって米の自由取引が行われるようになり、早場米の産地である富山県では乾燥が不十分な粗悪な米が大量に出荷されていた。東京や大阪の市場で越中米はひどく評判を落としていた。もともと米商機関紙から出発した『高岡新報』は、米に関する報道に力を入れていた。明治36年には産米改良キャンペーンをはり、公正な米穀検査を県営で行うべきという世論をつくった。富山県はこれを受ける形で明治37年2月に米穀検査規則を制定、同年4月、県庁内に米穀検査所を設置したのである。江花は県の米穀検査事業に人材が必要とされていることを知っていた。[5]

農学校を卒業した信勝だが、上京して農学から遠ざかり、別の道に進むつもりでいた。しかし学んだことはいつかどこかで役立つものである。県営米穀検査という時代の要請のなかで、信勝は農学を学んでいたために人生最大のピンチから救われたのである。

助手としての仕事は、検査米統計表の作成や検査員選考の事務などである。検査所設立2年目には県内17か所に出張所、159か所に駐在所が設けられ、事務も増えていた。信勝は数字が苦手でそろばんに慣れるまで大変だったようである。しかし、米穀検査の集計は意義ある仕事であったらしく、8月4日に「今後は越中米輸出検査高は凡て予の十呂盤珠から現はるべきものなり」、9月5日には「産米検査成績表をつくる、之れが本縣の産米検査の嗜矢なるものか」と日記に書いている。

信勝は明治38年6月26日に検査員の合格証を得るが、助手のままである。8月31日、日給を5銭上げて40銭とする辞令を受けた。しかし、伯母が「今になって上げてもらっても(辞職するまで)あと2か月ばかりだ」と言うのを聞いて、不快な気持ちにさせられる。そして11月16日「本所詰検査員を命ず、月俸十四円」という辞令。11日後の27日には退職するので、ご祝儀のような昇進であった。

日記全体を通して読むと、米穀検査の仕事に就いた時点から、この仕事が長く続くものとは考えていなかったようである。というのも、信勝はこの年11月に満20歳となり、軍への入営を避けて通ることはできなかったからである。

梅沢町の借家に移る

米穀検査所に働き始めて1か月余りたった6月19日、大井信勝(のちの冷光)は上新川郡西番にある伯母の家から、富山市梅沢町の借家に移った。西番から富山市街までは約10キロの砂利道で徒歩で約2時間もかかる。それまでは朝5時半に弁当を持って家を出るのが日課だったが、負担が大きいため借家を見つけて住むことにしたのである。

この日、退庁してその借家に来てみると、伯母が家主と6畳二間の準備をしていた。伯母といとこたちがこの家に同居するのはまだ1か月以上先のことで、とりあえず、15歳で高等女学校2年の次女ふみが同居して、ここで炊事や家事をすることになった。ふみは炊事が苦手でよく信勝ともめるが、一方で日常生活に微笑ましいエピソードがいくつも生まれてゆく。信勝にとって嬉しかったのは、通勤時間が短くなり、日記や手紙を書くなど時間の余裕ができたことであった。

生き生きした墨染日記

信勝が明治38年6月19日から綴った日記を『借家墨染日記』という。3月31日に「帰郷」と書いてから80日ぶりの日記である。その間、早稲田大入学を断念して伯父の借金を背負い、一時は悲壮感にみちた日々を送っていたことであろう。日記の再開は、米穀検査所の仕事に慣れて借家住まいが始まるというきっかけがあったからだが、そこには心機一転して人生を再出発しようとする意欲も感じさせる。そして「墨染」と名づけたのにはやはり文筆の道に生きたいと気持ちが込められているようにも思われる。

『借家墨染日記』は同年11月27日まで162日間と短いが、「記事なし」と書いた2日間を除いて毎日丁寧に綴られている。農学校時代のような激しい心情が表に出ることはなく、また東京時代のような淡白な出来事の羅列でもない。貧しいながらも生き生きとした暮らしぶりが描かれていく。それは他人に読まれることを想定したかのような文章である。日記を再開した2日後には『涙の痕』と題して自分の履歴をつづり始めたと記していて、自分の人生を振り返る心の余裕が生まれてきたようである。[6]

この年のエピソードは数々あるが、借家住まいの最初の1か月間のいくつかを挙げておこう。

6月24日土曜日。伯母の家から家具が運ばれてきた日の夜、信勝はふみと意見が衝突する。いまいましくなって8時に床に入ると、外から水鶏の鳴き声が聞こえた。ふみと、泊まりに来ていたふみの友人の咲子に水鶏の声だと説明し、跳ね起きて外に飛び出した。「南田町の小学校の辺まで目茶苦茶散歩す、帰路出口の路次にて初めて今年の蛍を見るとは随分呑気なことなり」。意見が衝突したのは、嫁いだ姉の綾からの催促が原因だったらしい。綾は季節がら浴衣をほしいと言ってきたのだが、ふみは自分が着ている白がすりを「まだ汚れていないからこれを送ればいい」と言ってすぐに肩上げをしはじめた。信勝は「気の早き女なるが、予の愉快少なからず」と記している。

翌日曜日も引越しである。伯母の家と往復してその帰り道、美しい虹を眺め、日記に延々とその様子を綴っている。借家まで帰ってきたとき、つがいの水鶏を見つけ、「昨夕の声の主は確かに此奴ならん」。その夜、信勝はふみと咲子と大家の嫁の3人に、綾に送る白がすりを買いにやらせた。一家を背負った責任感だろうか。どれだけ貧しくても、嫁に行った綾に寂しい思いをさせたくなかったにちがいない。

東京時代を思い感慨

貧しいなかにも心の豊かさを感じさせる行動がある。6月27日夜、島谷直方への手紙を投函したあと、ついでに町を散歩し「二銭の散財で夏菊三本と石竹を求めかへりてコップに挿す」。花への関心は、先輩の久田二葉の影響であろう。農学校時代には自分の誕生日にバラの花を飾っていたし、明治37年の上京中には「晩に石竹一鉢二銭の散財」をしたこともあった。のちに井上江花の家の花壇を世話したり、『少女』編集者になって《少女の歌》に四季咲きバラを書いたのも、久田の影響のように思える。

7月8日土曜日。信勝は仕事から戻ると、ふみにせまってモデルとならせ、写生を始めた。2日前にふみに頼まれて手拭にユリとツユクサを描いたことで、絵心を刺激されたのであろうか。縫い物姿の全身をスケッチしたが気にくわず、半身でまた描いた。「ふみが編物の、意の如くなるを喜ぶ、その様をうつして予又その顔のよく描き出られしを喜ぶ、黄昏までにやう顔を着色しおわる、但しかかる有趣味な生活をやりしは借家墨染後今が初めてなり(中略)就寝までふみとまたしてもとり出して微笑む今日のスケッチ」。スケッチは友人の五島健三の影響であろう。

7月14日、銭湯から帰って夕食の後、ふみと十二夜の月を眺めて東京時代の思い出話になった。「ちょうど去年の今日この頃は湯島生活、物干台の夕涼み等を語るにつれて何時しか京がなつかしくなって居たたまらずなりぬ、毎晩のようにきく明笛の遠声もいやに身にしみて想はず窓より首をさし出して月を睨んで嘯き居れば、何時しかホロリとなるは縁起でもなし」。未練がましさを振り払おうとする信勝だが、この時ふみは既に、もう一度上京して文筆の道に進みたいという本心を感じ取っていたのかもしれない。

「大井信勝君及一族」『老梅居日記』口絵
(江花叢書第5巻・大正15年12月5日発行)
後列左が大井冷光、後列右が文(のちの冷光の妻)
帰京して入営するまでの明治38年頃撮影とみられる

恩返し、金策に走る

働き口と生活の場所が決まり、この6月から7月にかけて、信勝は2つの問題で奔走した。1つは先輩久田二葉の金策、もう1つは伯父が残した借金の処理だった。

久田二葉は明治37年、石川県鶴来町の葉煙草専売局で技師として働く一方、平民社の堺利彦の主張に共感して『平民新聞』に投稿し、堺が編集する『家庭雑誌』にも毎号のように園芸の記事を書いていた。[7]翌38年には葉煙草専売局を辞め、静岡にいたらしい。この年にも『博物学雑誌』に7回、『少年世界』に2回に植物学や園芸の話題を寄稿しているが、金には困っていたようである。

6月19日、信勝は久田から金策を求めるはがきを受け取り、農学校時代の親友で経済的な余裕があった盛一一隆に相談した。6日後、それが不調に終わったことを久田に報告すると、そのさらに5日後に久田から「今一度の建議」を求める旨の知らせがきた。自分の窮地を救ってくれた久田に恩を返さなければと考えたのか、信勝は盛一に直接会って頼むことを決断する。翌々日の日曜日、一番列車で金沢に向かった。盛一はちょうど軍隊に入営していた。話を聞いてみると、金を工面できないでいたのはそう深い理由があるわけでなかった。盛一は大きなかばんに入ったたくさんの古い手紙を見せ、大半が妻と信勝からの手紙で寂しいときに読んでいると言った。語り合ううちにいつしか6時間もたっていた。「兎に角長時間の会談中些細の邪氣をまじいざるぞうれしき次第なり」と信勝は記している。それから、2週間余りの後、盛一から5円が届き、久田の金策は解決する。久田はこのあと読売新聞の園芸記者となり、信勝より1年ほど先んじて文筆の仕事に就くことになる。

信勝が奔走したもう一つの件は、日記に「差解」と記した問題である。この言葉の意味が不明であるが、差し押さえの解決、あるい貸金借金の差額の解決といったような意味なのだろうか。「僅か拾余円の調金に面倒がついて差解も出来ない騒ぎになって居る」ために、伯母の家まで往復20キロを何度か行き来するはめになる。7月1日、四面楚歌を嘆く伯母を見かねて、信勝は俸給の半分、おそらく5円ほどを渡したのだが、案の定解決しない。

7月6日木曜日の夜は大変だった。午後5時すぎ帰宅すると祖母が泣き声で言った。「差解の金がまだ出ぬさうな、すぐ往って見て来い」という。夕食をとって、7時頃に家を出て「青葉の陰、瀧の二里半を水音聞えて」、伯母の家に着いたのは夜9時すぎだった。眠っていた伯母を起こし、愚痴まじりの話を深夜12時頃まで聞いた。そして早朝、米穀検査所へ出勤、10キロの道のりである。

野上吉平という人物が立ち回ってくれて、伯父が引き起こした問題の真相が次第に分かってきたようである。「結局は伯父が処世のマヅかったむくゑなれば詮方もなし、さり乍ら僅か拾有四円の差解料の為め斯くもイヂケさせらるとは、無念の至りなり」。自分の軍隊への一年志願の手続きにからむ詐欺も疑われた。結局、7月19日に問題はようやく解決に至る。

「数十百日我が家族を生ごろしにせし差解問題(やうやう今日、予の俸給迄打ちこんで)落着せしなり」

(大井冷光『借家墨染日記』)

もちろん、これで伯母や信勝の借金がなくなったわけではない。16年後の大正10年、冷光(信勝)は亡くなったとき、まだ借金を返し続けていたという。[8]

[1]この文章では、後見人は元教員で投機を行った伯父と読むのが妥当と思われるが、『波葉年表』(井上江花「酉留奈記」204『高岡新報』大正10年8月5日)によると、後見人はもともとこの伯父ではない別の叔父で、その叔父も問題を起こしたようにも読み取れる。明治28年の項に、「富山に一人の伯父が居て、その人が私の後見をして居たのですが、二ケ年の中に大分年貢米の方に都合も出来、また気が少々狂はしくなったので、伯母の夫が三十八年から後見をする事となりました」とある。三十八年は誤植で二十八年とみればつじつまが合うが、さらに検討を要する。後見人が問題を起こした話は、『高岡新報』3月14日1面の井上江花「紅海を渡る」、『高岡新報』8月8日1面、「酉留奈記」2・07を参照。

[2]井上江花『老梅居日記』大正15年(1926年)11月(※『井上江花著作集』第3巻1985年所収)。

[3]「冷光余影」55『高岡新報』大正11年5月18日3面、「去年の今日」。

[4]『老梅居日記』p4。

[5]米穀検査所の歴史は、富山県穀物検査所編『富山県穀物検査創始弐拾五周年紀念誌』1929年に詳しい。玉真之介「米穀検査制度の史的展開過程ー殖産興業政策および食糧政策との関連を中心にー」『農業総合研究』第40巻2号(1986年)によると、県営米穀検査は、明治34年の大分が最初で、鹿児島、岡山に次いで富山は全国4番目に早くスタートした。

[6]『涙の痕』という作品はまだ確認されていない。

[7]週刊『平民新聞』明治37年1月17日付に「予は如何にして社会主義者となりし乎」、2月14日付に「父と財とに別るゝ記」。堀切利高「久田二葉と添田唖蝉坊」『初期社会主義研究』第9号(1996年)に詳しい。久田は明治37年には結婚していて妻(誠子)がいたという。明治38年5月に静岡に移り、焼津に住んでいたという。『家庭雑誌』への寄稿は、明治36年10月から明治40年2月まで26回を数える。

[8]『高岡新報』3月20日1面、「酉留奈記」72。
(2013/01/01 16:18 2024/03/13追記)

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