第8章第1節 雑誌『お伽倶楽部』の挫折
はじめに
地下鉄の表参道駅を降りて地上に出た。ガラス張りのビルが聳えている。向かいには大手IT企業アップルの店。高級ブランド店の角を右に曲がって、ロハス通りという小路を歩く。渋谷区と港区のちょうど境界線だ。
坂を少し上った後、緩やかに下る。右側の一区画が神宮前5丁目1番地である。今から110年余り前の明治時代末、ここは東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字穏田村隠田4番地、久留島武彦が経営する早蕨幼稚園があった場所である。「地質ハ粘土質ニシテ飲料水ハ井水ニテ純良、附近は大山元帥邸東隣ニテ土地高燥南西に開潤セル空地ヲ有ス」。明治43年3月5日に提出された幼稚園設立認可願にはそう書かれている。
早蕨幼稚園の面影が残っていないだろうか。しばらく周辺を探して見つかったのは、大山元帥邸の場所に戦前、大山史前学研究所があったことを顕彰する看板ぐらいである。一帯は東京大空襲で全焼したという。
大井冷光は明治43年の年末に富山から上京して、久留島の早蕨幼稚園で助手となった。本人は後年「保姆」になったと書いている。しかし後の仕事ぶりを見ていくと保育士ではなくて、お伽倶楽部という組織の運営者の1人とみたほうがいい。約半年後の明治44年6月、雑誌『お伽倶楽部』が創刊され、冷光は編集主任となるのだ。その後、冷光の活躍ぶりは目覚ましく、久留島と互いに支えあうことになる。雑誌編集は上京する前から2人の約束事であったようにも思われる。
一方の室崎琴月は、明治43年末の時点で、東京音楽学校への入学を目指して私立東京音楽院(神田区今川小路2丁目12番地)で学んでいた。明治40年に小学校の唱歌が必修科目となり、児童雑誌にも創作唱歌が掲載されるようになっていた。琴月と冷光が東京で出会って、帝劇で少女音楽大会を開くのは大正6年だからまだ6年先のことである。
関西へのお伽周遊列車に随行
大井冷光は明治43年12月25日の夕方、新橋駅に降り立った。気温2度、底冷えのする寒さだったが、木枯らしは吹いていなかった。約3年7か月ぶりの上京である。日露戦争後に発展を続ける帝都の光景をどんな気持ちで眺めたであろうか。久留島武彦が迎えに来ていた。「よく来てくれたな」。久留島は、4歳になった長男光雄の口にお菓子を入れた。一家は、赤坂区青山隠田四番地にある「旧表参道の細い道下の家」に入り、都会生活の第一歩を踏みだした。[1]
念願である少年文学研究・児童文化研究のスタートラインにようやく立つのである。4年前に早稲田大学入学寸前で帰省し、失意のどん底にいた。そこから懸命に働き、這い上がってきた。回り道はしたが、無駄ではなかったはずだ。自分にそう言い聞かせて青山隠田に向かった。青山隠田四番地は表参道からすこし下った場所にあった。
「明けましておめでとうございます」
年が明けて明治44年元旦。大井冷光は早蕨幼稚園で園児たちを前にして年始のあいさつをした。
早蕨幼稚園は、久留島武彦がお伽倶楽部附属の研究機関として開設して約7か月がたつ。設立認可願によれば、東京女子高等師範学校出身の女性2人を雇い、年少組年長組計60人を4時間保育することになっている。
正月早々の1月3日、お伽倶楽部主催の「お伽周遊列車」(以下お伽列車)というツアーが行われ、冷光はそれに隨行した。「お伽列車」は、品川駅を出発し、名古屋・四日市・津・伊勢神宮・奈良・京都を巡って品川に戻る5泊6日の団体旅行だった。前年夏に瀬戸内海で行われた「お伽船」と似ている。
子供と大人合わせて約120人が参加し、巌谷小波・久留島武彦・天野雉彦が付き添った。列車内で子供たちは巌谷の話を聞いたり、唱歌を歌ったり、双六をしたり、賑やかだった。そして、京都では、京都お伽倶楽部の歓迎を受けて子供同士の交流を深めた。
その一部始終を、冷光は巌谷が編集する博文館の雑誌『少女世界』6巻3号に「お伽列車の少女」と題して寄稿した。冷光にとって上京後の初仕事である。
東京府内のお伽倶楽部
上京してから冷光はおそらく東京府内各地にあるお伽倶楽部の支部を、主幹である久留島とともに訪ねて回ったことだろう。明治44年当時、府内には次のような支部と友好団体があった。
記録は見つかっていないが、巌谷小波の自宅「楽天居」(高輪南町53)で開かれた文学同人サロン木曜会にも、久留島と参加したにちがいない。
競合する児童雑誌
明治時代後期は児童雑誌がリードする形で子ども文化の花が開きつつあった。
雑誌の競争は、『少年世界』『少年』『日本少年』の三つどもえ、そして『少女世界』『少女の友』の争いになりつつあった。『少年世界』『少女世界』は博文館、『日本少年』『少女の友』は実業之日本社の発行である。博文館一強という時代は終わり、『日本少年』が躍進していた。[2]
麹町にある劇場、有楽座では2年ほど前から毎週「子供日」が設けられ、お伽芝居など子ども向けの興行が行われていた。『日本少年』は明治44年3月5日、その有楽座で第1回愛読者大会(誌友会)を開き、勢いを見せた。
3月10日には、同文館が雑誌『小学生』を創刊し、4月からは葛原しげるが小学校訓導を辞し専任編集者となる。この葛原は翌大正元年秋に博文館に移籍し巌谷小波のもとで『幼年世界』を編集することになり、冷光にとっては雑誌編集の仲間となる。室崎琴月作曲の童謡「夕日」の作詞者である。
一方、3月1日に開館したばかりの帝国劇場で5月14日、時事新報社の『少年』が第2回愛読者大会を開いた。この大会に久留島がゲストとして参加し、講話をした。冷光は約1年半後、この『少年』の編集主任に転身することになる。
児童雑誌が盛んになるなかで、6月10日に創刊されたのが雑誌『お伽倶楽部』である。記者歴4年という25歳の冷光が編集主任となり、ここから雑誌編集のキャリアを積んでいくことになる。
主な少年少女雑誌の創刊
希少雑誌の先行研究
久留島武彦による「お伽倶楽部」運動は、明治から大正にかけての児童文化運動を語るうえで欠かせない重要事項である。2020年の時点で、久留島武彦の個人史という視点から調査は進んでいる。しかし「お伽倶楽部」運動そのものが明治43年から大正2年ごろにかけてどのような展開を見せたかは、資料整理がそれほど進んでいない。
雑誌『お伽倶楽部』はいわゆる希少雑誌である。明治44年6月から約1年で通算11号が発行されて廃刊になった。現在、所蔵するのは全国にわずか10館前後である。11冊をまとめて閲覧するのは難しい。[3]
この11冊には、久留島武彦の口演が記録されているほか、特に久留島の米国視察旅行(明治44年9月26日~45年2月11日)の一連の記述は多くの写真を含めて極めて重要な史料である。
一方、久留島が4か月半もお伽倶楽部を留守にしていた事実を裏返すと、『お伽倶楽部』の編集は冷光らに任せられていたのである。冷光らは久留島の信頼を得ていたとも言えよう。久留島ではない視点から『お伽倶楽部』を見直す意義は決して小さくない。[4]
創刊号の編集後記に見る親近感
それでは雑誌『お伽倶楽部』の創刊号を詳細に見ていこう。表紙には、「明治四十四年六月十日発行(毎月一回一日発行)明治四十四年六月八日第三種郵便物認可」とある。本記は80ページだが、目次と広告を含めると96ページ。定価は10銭である。この時代の人気雑誌『少年世界』『日本少年』『少年』と比べて、価格は同じ10銭ながら、ページ数はやや少ない。しかし内容は、小説から時事記事、学術談までそれほど見劣りはしない。
奧付にはこうある。
発行人の國廣知二は、東西社(本郷区森川町一番地)の発行を手掛けており、東西社が9頁も広告を出していることからも、『お伽倶楽部』と東西社という出版社とのつながりが推測される。[5]
記念すべき巻頭ページには、お伽倶楽部の総裁を務める伯爵・柳原義光(1876-1946)の告辞と巌谷小波の祝句がある。主幹である久留島の創刊の辞はなぜかない。柳原と巌谷を立てようとしたものか。柳原は、貴族院議員で大正天皇の従兄である。柳原白蓮は異母妹にあたる。告辞は、創刊の辞というべきものでなかなか高尚である。全文引用しておこう。
巌谷の祝句は、
というものだった。紙のぼり=『お伽倶楽部』が上昇しますようにという意味を込めたものであろう。
冷光はこの創刊号で「編輯人」として無署名で多くの部分を書いていると見られる。署名入りでは「僕の公園」「(少女小説)森蔭の少女」「記者一筆」の3編を書いている。
このうち「記者一筆」は編集後記にあたるもので5月23日の日付がある。ここで『お伽倶楽部』誕生のいきさつを短く記している。全文引用しよう。
行間から喜びが伝わってくる文章だ。久留島との出会いから久留島を頼っての上京までを「運命とは妙なもの」と振り返っている。「咄嗟に雑誌發刊が成り立ち、あわてゝ編輯が開始されて」には、4月から5月にかけての慌ただしさも想像される。
普通の少年雑誌ではない、いたずらに雑誌を売るために歓心を買うようなことはしない、筆を働かせる前に足を働かせる、活きた社会の新事実をとらえてお伽料理、というあたりの表現は、久留島の教えを受けているとはいえ、必ずしも久留島の代弁ではない。冷光が新聞記者時代から培ってきた文士としての信条を綴っているのだ。締めの「諸君ちと遊びに来てくれたまえ」は、『富山日報』少年欄でも見られたように、読者の距離感を縮める親近感を感じさせ、いかにも冷光らしい。
『お伽倶楽部』の編集がスタートしたとみられる明治44年4月は、冷光の上京から3か月余り過ぎた時点である。遡って推測するなら、冷光の上京はまさに雑誌編集のためだったのかもしれない。6月1日に印刷納本され4日後の『朝日新聞』には広告が出ている。「出た出た少年少女雑誌の王様」とキャッチコピーがある。第2号(8月号)も8月9日の同紙に広告がある。
同僚は宿利重一と能勢哲
雑誌『お伽倶楽部』の編集には、大井冷光と宿利重一(しゅくり・しげいち:1887-1948)と能勢哲(のせ)の3人があたった。これはお伽倶楽部主幹である久留島武彦が米国視察中に3人に宛てた絵葉書からほぼ確実である。久留島は「尾上新兵衞」「武彦」「さわらび」「さわらびの翁」などの筆名で多数寄稿していて、寄稿者の多くは久留島人脈であるものと見られる。しかし、雑誌の編集実務はほとんど3人が行い、冷光が主任である。
宿利重一は、冷光の2歳年少である。筆名は「山中冬湖」「冬湖学人」。久留島と同じ大分県の出身である。雑誌『お伽倶楽部』では、尾崎行雄や大隈重信らの談話筆記をはじめ、殖民小説「愛国詩人」、滑稽小説「近視眼」、冒険小説「強行軍」、通俗史伝「加藤清正」、少女小説「乙女心」などを書いている。また、1巻2号の読者文芸で選評を担当した。
宿利は後に『児玉源太郎』『乃木希典』『メッケル少佐』など軍事関係の伝記作家として名を残した。[6]
能勢哲は筆名が「蕾山人」「蕾生」。明治42年には小田原町第二尋常高等小学校で教鞭を取っていたようだ。その後、京橋区でお伽倶楽部京橋支部を運営した。年齢は不明だが、冷光よりも年長とみられる。雑誌『お伽倶楽部』では「学校眼鏡」という学校紹介の連載や、「模範学校の入学準備」など入試対策記事などを多く書いている。また、野外活動を得意とし、明治44年8月に小田原で開かれた夏期臨海学校と、同年11月の郊外写生旅行でも引率役を務めている。
大正2年7月に『子供の対話』(小柴博と共著)、大正15年に『子供の叱り方』という著書がある。のちに冷光が編集する雑誌『少年』139号(大正4年4月号)に能勢海南の筆名で「少年斥候演習(新案遊戯)」を寄稿している。この寄稿によれば、当時は予備陸軍少尉で東洋家政女学校教師。大正時代後半に少年体育会理事、大正13年5月には杉並町高円寺に子寶幼稚園を開設することになる。[6]
博文館との関係
『お伽倶楽部』が創刊した明治44年6月、久留島が博文館の『少年世界』講話部を辞職している。雑誌対雑誌の関係を見れば『お伽倶楽部』は巌谷の『少年世界』『少女世界』『幼年世界』と競合してしまうわけだから、久留島にしてみると仁義を切る意味で、『少年世界』講話部を辞めたのかもしれない。久留島の『少年世界』への寄稿は、16巻13号(明治43年9月号)が最後で、それ以降は確認できない。『少女世界』も同年12月号の寄稿が最後である。ただ『冒険世界』は明治44年4月以降で1件の寄稿がある。
雑誌『お伽倶楽部』創刊によって、久留島と巌谷の間に溝ができたのだろうか。巌谷側つまり博文館側からみると『お伽倶楽部』は会員向け機関誌にとどまるもので、競合関係にはならない、とみていたのかもしれない。『お伽倶楽部』に巌谷自身はほとんど寄稿しなかったが、博文館側の沼田笠峰・竹貫佳水・黒田湖山が寄稿している。
久留島は、帝国劇場が明治44年3月に開場してから時事新報社と急接近していく。同年5月の時事新報社『少年』の愛読者大会で講演し、翌明治45年3月の愛読者大会では客員になっている。
一方、冷光はこの時期、博文館の『少女世界』『少年世界』に寄稿しているから、お伽倶楽部と博文館との対立するような関係にあったとは考えにくい。
大井冷光の博文館雑誌への寄稿
「お伽列車の少女」『少女世界』6巻3号(明治44年2月1日発行)
少年小説「名誉の徽章」『少年世界』17巻9号(明治44年7月)
「寫生少年」『少年世界』18巻10号(大正元年7月)
「日本アルプス探検記」『少年世界』18巻12号(大正元年9月)
「日本アルプス探検記」『少年世界』18巻14号(大正元年10月)
「日本アルプス探検記」『少年世界』18巻15号(大正元年11月)
「日本アルプス探検記」『少年世界』18巻16号(大正元年12月)
「同窓生」『少女世界』6巻16号(明治44年12月)
「沈丁花」『少女世界』7巻4号(明治45年3月1日発行)
ミス続発で前途多難
創刊号を細かく見ると粗が目立つ。例えば冷光の少女小説「森蔭の少女」は、26ページの末尾に(以下三八頁に續く)とあり、38ページには(三十六頁の續き)とある。これは二十六頁が正しいわけだが、こうした泣き別れは普通なら禁じ手だ。80ページ目の懸賞作文募集は「五月二十日に締切りと致します」とあるが、印刷納本が6月1日なのだから、これは「六月二十日に締切り」の誤植か。やはり相当慌てた編集だったのであろう。
『お伽倶楽部』は「毎月一回一日発行」を謳ってスタートしたが、案の定つまづいてしまう。7月号は出せずに第2号は8月号となった。ところがこれも不十分で、表紙は前号と色違いの版を使用したうえに、奥付は「明治四十四年六月一日發行」と誤植がある。冷光は通信欄で次のように言い訳している。
この通信欄はページにわたって、13人の投書が紹介され、8通の返信があったことが記されている。反響はまずまずといってよい。
捲土重来を期す冷光は、この第2号にわざわざ1ページを割いて「予告 新秋号の大発展!第三号の大改善!」を謳った。そこには「久留島主幹獨特の新作お伽講話を初め、諸名士の社会教育談、その他時事問題を逸早く捉へ來ってお伽化せる畫報、小説、實驗談等管々しくは吹聴しませんが唯誓ふ、九月を待たずしてまみゆべきわが九月號は必ずや諸君の期待に背きますまい」とある。
ところが、第3号の発行は印刷納本が9月20日にずれ込み、結局再び1か月遅れの10月1日なってしまう。「記者通信」で冷光は「雑誌の出版の遅延や編輯上の不統一に就いてはなんとも今更申譯はいたしませんが唯偏に今日迄の諸君の深甚なる御同情に反かないことをお誓ひ致します」と記している。
結局ようやく月刊誌となるのは第4号(11月号)からである。日刊紙とは違う月刊誌の編集の難しさを、冷光はつくづく感じていたことだろう。
久留島渡米で留守役
明治44年の春先から冷光はとにかく多忙だった。
3月26・27日に「箱根山周遊」という事業が終わるとすぐに雑誌編集が始まった。
5月10日には、久留島が早蕨幼稚園の場所を活用してお伽倶楽部附属の早蕨塾をスタートさせた。小学3年生から中学2年生までを対象に平日2時間の補習教育を行うもので、教育担当者はお伽倶楽部員3人とあるから、おそらく冷光と能勢と宿利が担当したのだろう。早蕨塾には、ミドリ会という親睦会があり、設立当初から月例会が開かれていた。
塾頭は能勢だった。この早蕨塾はおそらく3人の収入を得るためでもあったろう。早蕨塾は5か月後の明治44年10月頃に「イートン英語学校」と改められ、『お伽倶楽部』にも広告が載っている。[8]
7月9日には京橋小学校で少年少女会が開かれ、冷光も出席した。7月25日から27日にかけて能勢とともに富士登山を決行。8月4日からは、小田原で21日間の夏期臨海学校が行われた。[9]
9月10日、米国へ視察旅行に出かける久留島の送別会が開かれた。小林勇太郎が幹事としてあいさつした後、冷光が「各支部に代りて」と送辞を述べた。
久留島の旅行は2月11日まで約4か月半に及ぶ。それにしてもである。雑誌編集が決して軌道に載っていないなか、責任者の長期不在だから、傍目には心配だろう。しかし、『お伽倶楽部』を読む限り、そうした不安はほとんど感じられない。冷光の楽観的な性格ばかりが誌面に残っている。[10]
久留島にしてみれば、「冷光君、能勢君、宿利君、任せたぞ」ということなのだろう。
明治44年10月29日、名古屋お伽倶楽部の発会式が名古屋市の伊藤呉服店で開かれた。冷光は東京本部代表つまり久留島の代理として出席した。式では巌谷小波と並び「両先生」と呼ばれ出迎えを受けた。冷光はここで「中心の力」という演題でお伽倶楽部の必要を説いたという。
11月5日にイートン英語学校の高尾山遠足会が、11月23日には郊外写生旅行が行われ、明けて明治45年1月3・4日には日光周遊列車というツアー企画も行われている。冷光は雑誌編集が主で、旅行企画は能勢が中心になっていたものとみられる。
明治44年12月号(1巻5号)には、「正月號の大發展」という見開きの告知記事があり、洋画家の岡田三郎助のカラー画「飛行機上の少年」が特別付録として宣伝されている。その12月号の編集後記は11月下旬に冷光が書いたものである。
この広告をめぐる冷光のこだわりは、後々雑誌の存続にかかわることになるのだが、この時点で編集はようやく軌道に乗ったようである。
注目すべき記事2編
明治45年1月号で冷光は注目すべき2つの記事を書いている。
一つは「立山建夫」の筆名で書いた小説「日本アルプス猛獣狩」である。猛獣狩と言えば2年前、『富山日報』記者時代に発案し結局実現しなかった企画があった。熊狩りの猟師たちからの聞き取った話を基に、今度は小説を書いたのである。冷光の少年小説としてはあまり知られていないが、明治時代の熊狩りの記録文学として高く評価されてよい作品である。3回連載の最終回の挿絵は南枝知一の作で印象的な挿絵だ。
冷光は『お伽倶楽部』の毎号に小説を書いている。中でも明治44年12月号の「警鐘」は異色作だ。心の病を患って郊外の山里で静養する兄を見舞いに行ったところ、村じゅうにけたたましく鐘が鳴り響き大騒ぎになっている。その鐘を鳴らしたのは兄だったという結末である。「日本アルプス猛獣狩」にしても「警鐘」にしても、久留島や巌谷が得意とするお伽講話とは明らかに一線を画している。冷光は新しい児童文学を具体的に追求し始めたとみていい。
1月号(2巻1号)に掲載されたもう一つの注目記事は「昨年の少年読書界」という批評である。明治44年8月号(1巻2号)から、他の雑誌の内容を紹介する連載「雑誌の雑誌」があり、冷光の筆とみられるのだが、署名がない。が、「昨年の少年読書界」は冷光の署名がある。
この批評記事で冷光は明治44年1年間に出版された4つの新刊誌と既刊の15誌、10余りの書籍について率直な批評を展開している。内容は中学生以上程度でかなり難しい。
たとえば、同文館から創刊された『小学生』。「教鞭を取って居られた葛原しげる氏が主任で記事も絵も凡て学課と連絡をつけた編輯法は教育者側から好評を得て、最初は非常な勢いで売り出されたが、然しそれは実際少年読書界の潮流とシックリ合ったかというと尚未だ惑星に過ぎないのであった」と記す。
少年雑誌主要3誌『日本少年』『少年世界』『少年』の批評も注目される。『日本少年』は営業本位で大人から見ると不真面目な記事が気がかりだとし、『少年世界』はひところ記者も読者も疲れ気味に見えたが編集主任の竹貫佳水氏が少年冒険読物に新機軸をつくったと評した。そして、『少年』は、出版された最初から営業を度外視した都会向けの編集で、安倍村羊氏の独特の編輯法は円熟を示している、という。
『日本少年』と『少年』の記者を比較しての例えが軽妙である。『日本少年』の記者は、舞台で跳ねまわるのが狭くて時には見物席まで飛び込む役者で、『少年』の記者は舞台に上がっても花役者の影に立って働く黒頭巾のようなものだという。
冷光は久留島武彦の直弟子で、巌谷小波の門下にあったから、巌谷の『少年世界』への批評はやや控えめだが、それでも『少年世界』を評して次のような一文がある。「唯記者等が今昔の感に措へぬのは毎号巻頭のお伽話で、巌谷氏自身がおなじ他の主管の雑誌に勢力をそがれる為めでもあろうか、昨年の各六月に亘る長編お伽話の如き甚だ気乗りのせぬ心地がせられた一事である」と、自ら尊敬する大御所巌谷に対して注文を付けている。
冷光の批評には、のちに一緒に仕事をすることになる松美佐雄(本名戸塚俊、1879-1962)も出てくる。4月に博文館から出版された『軍旗物語』を、久々に出た少年向き冒険物だと評価している。
雑誌編集者と寄稿者、書籍の著者など計約30人の名前を挙げているが、主な人物を上げおく。
ちなみにこの年、大井27歳、葛原26歳、安倍32歳、松美33歳であり、琴月は21歳である。
編集者の個人名を挙げて同業他誌の内容を批評するのは今も昔も異例なことであろう。相当の反響があった。次号の投書欄には4通の激励が載せられ、中には「ずっと以前少年世界にもこの種の記事が掲げられたこともあるがそれは凡て博文館の自家宣伝に過ぎなかった。一般出版界の趨勢を斯う列べ挙げ忠実な批評を加えられたことは蓋しこれが最初の試みであります」などという投書もあった。一般読者でさえこうだから、当事者たちの受け止めはいかがなものであったろうか。
雑誌『お伽倶楽部』には2巻2号以降も無署名の「雑誌の雑誌」が連載されているが、回を追うごとに単なる内容紹介となり、批評精神は影を潜めている。
「昨年の少年読書界」の内容がどこまで的を得ているのか。今後の研究が待たれるところだが、上京してわずか1年で、冷光が児童雑誌の業界を見渡す広い視野と批評の眼を養っていたことがこの批評記事から推測される。
葛原しげるに言及
明治44年に冷光が書いた「昨年の少年読書界」で、注目されるのは葛原しげる(1886-1961)の名があることである。11年後の大正10年、葛原は童謡「夕日」を作詞し、室崎琴月がそれに作詞し、後世に歌い継がれる愛唱歌が生まれるのである。明治44年の時点で大井27歳、葛原26歳、室崎21歳である。3人はこの時点でまだ知り合っていない。
葛原は明治41年3月に東京高等師範学校英語科を卒業し、翌年から私立の九段精華女学校初等科に訓導として勤務していた。明治44年3月『小学生』の創刊とともに編集主任となり、女学校は非常勤となった。
広島県安那郡八尋村(現在の福山市)出身の葛原は、祖父が生田流箏曲の名人葛原勾当ということもあり、早くから音楽的な活動に関心を示していた。高等師範学校時代に明治40年ごろから子供向けの歌を含めた歌の作詞を書き始めた。明治44年には音楽専門誌『音楽界』に西洋曲の訳詩「門の大松」(重音唱歌)を発表している。
葛原は生涯4000曲とも言われる驚異的な数の歌を作ったとされるが、雑誌に子どもの歌を載せたのは、『小学生』明治44年10月号の「兎と狸」(小松耕輔作曲)が最初と見られている。[11]翌明治45年には『小学生』に毎月、唱歌を発表している。「門松」「ネズミ」「ひなまつり」「サクラ」「春」「親鳥子鳥」「噴水のうた」「ブランコ」「まつむし」「かぢやの歌」といかにも子供向けの歌詞ばかりである。
児童雑誌の歌は当時、博文館の『少年世界』に巌谷小波作詞(1870-1933)東儀鉄笛作曲のお伽唱歌が多数発表されていた。時事新報社の『少年』では岩野泡鳴(1873-1920)作詞北村季晴作曲の歌謡詩がいくつも出ていた。だから葛原の作歌がそれほど注目されたとは思えないが、童謡運動が巻き起こる8年前、世代交代を予感させるものであったに違いない。
明治44年は、文部省『尋常小学唱歌』が発行され始める年であった。5月に第1学年、6月に第2学年というふうに、1年に2学年分ずつが出版され、大正3年6月18日に第6学年が出て終わっている。
この頃の大井冷光は、子どもの歌に関心を示していた形跡はない。
挿絵画家たち
さまざまな角度から雑誌『お伽倶楽部』を読み解いておこう。まずは画家・デザイナーである。
創刊号の表紙は服部愿夫(はっとり・よしお)の「ともだち」(2色刷)である。服部は、久留島武彦と旧知の画家で、明治39-40年に中央新聞日曜付録『ホーム』の編集時に同じ編集部員として挿絵を描き、本の装丁なども手掛けた。後に時事新報社に移って『少年』『少女』の挿絵を担当し、さらには東京中央放送局の初代放送部長となった人物である。
創刊号ではこのほか、渡邊審也、鏑木清方(1878-1972)、五島健三、杉浦非水が口絵・挿絵を担当している。服部・渡辺・杉浦はいずれも中央新聞社関連で、久留島人脈であろう。五島健三は、冷光の中学時代からの友人で東京美術学校出身。岡田三郎助は五島の師。蒲生俊武も五島の関係か。
『お伽倶楽部』創刊号を詳細に見ておこう。80ページで1冊10銭はほぼ妥当な価格設定か。広告が12ページあるが、このうち東西社が9ページ、弘報館・三省堂・文成社の3社が1ページである。1社に依存するような広告は営業面ではやや心もとない。
久留島の代役
冷光は、久留島が米国視察で不在の間、代役をこなした。明治45年元旦に、早蕨幼稚園の園児を前にした講話を、久留島夫人のミネから頼まれ、豊臣秀吉の幼年時代を語って聞かせた。
1月4日午後8時ごろ、名古屋お伽倶楽部の久保田金僊という人から「五日の晩のこどもの会に来てくれまいか」という電報が届いた。ミネに相談すると「雑誌も忙しいでしょうし、無理は申されません」と言う。能勢は日光周遊列車に出かけて留守。思案した結果、行くことに決めその晩に返電を打った。
5日昼に名古屋に着いてみると、5日晩というのは間違いだった。会は6日と7日に計4回開かれ、少年音楽隊の演奏、画伯の絵噺、河村武七社中のこども狂言、太田常彦氏らの講話に交じって、冷光も「幼稚園の実験談」「のんぼうの奉公(お伽)」「かるくち娘」「鰹節」などを話した。
冷光は名古屋での体験を『お伽倶楽部』2巻2号に「金城の初旅」というエッセイに書いた。「これも私のとっては偶然の好修業」と記している。口演家としての一人立ちしていくための訓練にもなった。
ボーイスカウト関連記事
『お伽倶楽部』で注目される記事は、ボーイスカウト関連である。1巻2号(明治44年8月号)は、ボーイスカウトを意識した記事が多数含まれる。ロンドン駐在の長谷川天渓が「ボーイスカウト」を寄稿し、能勢哲がボーイスカウトにあたる「少年斥候演習」の趣旨を説明している。また、宿利重一が東京高等工業学校長の手島精一から聞き取りで「英国少年のテント生活」を書いている。『萬朝報』に掲載された「横浜少年義勇団編成」もボーイスカウト関連と言ってよい。能勢哲が中心になり明治44年7月から8月にかけて行われた小田原夏期臨海学校の記事でもボーイスカウトが出てくる。
突然の休刊廃刊
雑誌『お伽倶楽部』は明治45年6月1日発行の2巻6号を最後に突然休刊し、廃刊となった。休刊を説明する記事は見つかっていない。ただ最終号には、それを予期させるような「記者通信」と「親愛なるわが投稿家諸君!!!」と題した小文が載っている。[12]
「記者通信」は680字で末尾に冷光生の署名があり、編集者の弱気と誇りが交錯する内容である。最初に「大した売行も見なければ大した人気もなく誠にお恥かしい」と卑下しながらも「気にかけるものではない」「少年少女諸君に対する忠実さに於ては決して他雑誌に後れをとるものでないと信じます」と書いている。
そして売れ行きが悪い理由を、自己宣伝の広告を中止しているからであり、「記者は読者の歓心を買うことに努め、挑発的な小説や画をもって読者を引き付けることを絶対に禁止しているのが大なる原因ではあるまいか」と推測している。さらに、金儲けのためや記者の人気集めのための雑誌でなく、お伽倶楽部が社会教育ために尽くす一つの方法としての発行なのだ、とまるで自分に言い聞かせるように書いている。
「この雑誌が全く売れなくなったら発行をよす迄の事」と休刊もしくは廃刊を予感させるような記述はあるものの、「現在の如く月々堅実なる読者の増加を見る以上は何時か目醒しく売れ、大に勢力を占めることもありましょう」「わが親愛なる読者諸君も記者のこの精神をお含みにあって一層御引立てあらんことを祈り置きます」と結ばれている。
これに対して、小文は奥付のページの懸賞募集規定の隣に記されている。冷光の文章のようでもあるが、以前に読者作文の評を宿利重一が担当していたことがあるので、宿利が書いた可能性もある。
この小文は430字。前号(明治44年5月号)の発行が遅れたために、読者投稿が少なく、読者文芸欄の休載を詫びる内容である。募集規定の締め切りが6月10日と7月10日の2つ記載されていることからしても、これが記された5月20日印刷納本の少し前の時点では、まだ次号(7月号)の発行が予定されていたと読み取ることができる。
廃刊の理由は何か。やはり売れ行きの伸び悩みによる赤字経営であるに違いない。編集はそれなり機能していたが、広告営業となるとその態勢がどのようなものだったのかは不明である。
創刊した時から既に、先行誌『少年世界』『日本少年』などと比べて、広告ページがかなり少なく、最終号でもあまり増えていない。奥付の発行所と印刷所を詳細に見ると、紆余曲折があったことがうかがえる。印刷所は、1巻2号まで日進舎(京橋区南水谷町七番地)、1巻3号からは日清印刷株式会社(牛込区榎町七番地)に変更された。発行所は、1巻4号まで「お伽倶楽部出版部」(本郷区森川町一番地)であり、1巻5号からは「小林又七本店」(麹町区隼町四番地)となっている。また、編輯人はすべての号で「大井信勝」だが、発行人は1巻3号まで「國廣知二」(本郷区森川町一番地)であり、1巻4号以降は「大井信勝」が編輯発行を兼務している。
明治44年秋から冬にかけて、1巻3号から5号までで相当の苦難があったのであろう。それは久留島不在の時であり、冷光自身がその解決に奔走したことは想像に難くない。
約1年間の月刊誌編集を経験し、冷光が大きな成長を遂げたのは確かである。久留島の交友関係をなぞるようにして、人脈は飛躍的に広がったし、26歳という若い編集者の存在を同業者の間に強く印象付けたのは間違いない。
久留島武彦は早蕨幼稚園を開いたのと前後して玩具研究会「小児会」と話し方研究会「回字会」を立ち上げ、月1回の例会を開いていた。冷光は回字会に深くかかわり、安倍季雄によると「死ぬまで世話をやいていた」という。また生田葵によれば、回字会は冷光が久留島に「進言して出来た」ともいう。しかしこれを裏付ける冷光の日記などは見つかっていない。いずれにしても回字会は、久留島の考え方を広めた人々の集まりであり、上京1年目の冷光が深くかかわっていたのは間違いない。[13]
最終号の奥付の対抗面にある広告が鮮烈である。冷光が上京して初めて上梓する自著「腕白」が近刊として紹介されている。これは、最終号所収の少年小説「雷太郎」の続編にあたるらしい。口絵を杉浦非水、挿絵を南枝知一が担当している。
「腕白」の発行所は、子文社(北豊島郡巣鴨町上駒込124番地)である。子文社を経営していたのが藤野至人という人物で、冷光が急死した後、一家の世話することになる。「腕白」は、表紙に早蕨幼稚園百合組で6歳の息子大井光雄が描いた原画を使い、6月22日に発行された。
◇
[1]大井光雄「久留島先生を讃ふ」『いぬはりこ』1931年。明治45年6月29日発行の著書『腕白』の奥付によると冷光の住所は「東京青山隠田4番地」。赤坂区青山隠田四番地は広さ約1万2000坪もあるエリアであり、早蕨幼稚園も同じ隠田四番地である。冷光一家がどこに居住したのかは確定できない。本ブログは2021年8月まで住所を「青山北町6丁目36番」としてきたが、誤認であった。2024年3月、あらためて、富山県立図書館の冷光が大正3年1月に差し出した書簡を確認したところ、「青山北町六丁目四十六」であることが分かった。なお、「青山北町」にういては、荒木丈太郎「『青山北六』時代随想」『高志人』16巻10号(1951年)、藤井尚治「柳村と露香」『高志人』15巻1号(1950年)、藤井尚治「転向せる記者」『高志人』16巻5号(1951年)を参照されたい。
[2]上田信道「大衆少年雑誌の成立と展開―明治期「小国民」から大正期「日本少年」まで―」『国文学』第46巻6号 (2001年5月)によると、『日本少年』の明治44年1月号は初版12万部の売れ行きだったという。
[3]同志社大学今出川図書館・大阪府立中央図書館国際児童文学館・白百合女子大学児童文化研究センター・富山県立図書館・日本近代文学館・県立神奈川近代文学館・函館市中央図書館など。
[4]雑誌『お伽倶楽部』に関する先行研究は以下の通り。
大津祐司「久留島武彦と雑誌『お伽倶楽部』」『史料館研究紀要』第6号(大分県立先哲史料館、2001年)
浅岡靖央「お伽倶楽部はいつ始まったのか―お伽倶楽部研究序説―」『大阪国際児童文学振興財団研究紀要』30号(2017年3月)
浅岡靖央「『お伽倶楽部』―娯楽と教育の結びつき―」『白百合児童文化開花宣言』9巻(2017年3月)
[5]國廣知二は、大分県東国東郡来浦村出身。明治33年に東京帝国大学農科大学農学科乙科を卒業した。全国農事会で働いた跡があるが、その後出版を生業としたらしい。大井冷光『お伽の旅 哈爾賓まで』(大正8年6月15日発行)180~184ページに追想の記述がある。「私の友人で、農科大学を出て一年志願兵をした國廣といふ人がありました。私が東京へ出て間もない頃、その人は児童向の雑誌を出版することを計画しましたので、偶然二人が久留島先生の下で一つの雑誌を出しました。処が國廣君は主にその経営を引受け、私は編輯を受持ったのですが、その頃はまだ二人共経験に乏しく、随分無鉄砲なことをしました上に準備も足りなかったものですから、一箇年も経たぬ中に止めなければならなくなりました。國廣君と私とはそれっきり分れ分れになっていつか便りも絶えてしまったのです」。『お伽倶楽部』の奥付では、創刊号から1巻3号(明治44年10月1日発行)まで「発行人 國廣知二」の名が確認できる。『お伽倶楽部』の創刊は、國廣の発案であった可能性が否定できない。
[6]マツノ書店『児玉源太郎』復刻版内容見本1993年、同『メッケル少佐』復刻版内容見本2010年によると、宿利重一は、明治二十年大分県生まれ、県立大分中学校を卒業後上京、久留島武彦の門下生をへて軍事関係の伝記専門家となったという。中学生のとき暴発事故のため両手の指を失い、両手首をハンカチでくるみ、ペンをはさんで筆記していたようだ。安倍季雄「回字会の思出」『童話教育』12巻9号(1960年)によると、明治38年か39年にできた久留島主宰の『回字会』の発起人だという。後年、回字会の機関誌「響」を編集した。昭和二十三年没。著書に『乃木希典』『乃木静子』『メッケル少佐』『小村寿太郎』ほか。
「冷光余影」『高岡新報』によると、冷光が師である井上江花に大正9年ごろの夏送った手紙に宿利は「両手が不自由な旧友」「かつての独身論者が現在家族五人」と記されている。
『大将夫人乃木静子』(大正2年8月25日発行)の奥付によると、宿利の住所は「東京市赤坂区青山南町六丁目四十七番地」である。
宿利重一の著書は以下の通り。
『メッケル少佐』日本軍用図書 昭和19年3月
『小村壽太郎』春秋社 昭和18年6月
『乃木將軍言行録』三省堂 昭和13年3月
『乃木希典』魯庵記念財団 昭和4年8月
『人物評論公開状』大日本雄弁会 大正4
『大将夫人乃木静子』東華堂 大正2年
『独身論』越後屋書店 大正4年
[7]能勢蕾「慈善少女の編物」『お伽倶楽部』1巻4号(1911年10月)。2巻4号の草鞋會の告知の際に、4人の連名順は、[会長]久留島[指導]能勢・大井・山中である。能勢哲の住所は、2巻1号の日光周遊列車の募集広告によれば「京橋区本八丁堀一ノ九田代方」である。『少年』大正4年4月号の寄稿を深読みすれば、このときお伽倶楽部は実態としてすでに解消していたとみることもできる。能勢は『少年』130号(大正3年7月号)に冒険小説「怪島の少捕虜」なども含め計4編を寄稿している。
[8]早蕨塾には補習科と英語科があった。
[9]夏期臨海学校に冷光がどこまでかかわったかは不明。東京市の15校から22人の子供が参加した。校長は能勢哲。「英国少年斥候団」すなわちボーイスカウトを模したという。
[10]久留島は9月26日、横浜港を地洋丸で出発し、翌明治45年2月11日に横浜港へ戻った。
[11]畑中圭一『日本の童謡九十年の歩み』2007年 p125
[12]時事新報社『少年』107号(明治44年8月号)の編輯だよりに、主幹の安倍村羊が7月9日付で次のように記している。
久留島君主幹の雑誌『お伽倶楽部』は事情あって先月限り一時休刊する事になりました。同誌は、挿絵といい、記事の配致といい、子供の雑誌中に一異彩を放って居りましたが、休刊の止むなきに至ったのは残念です。殊に編輯一切をやって居られた大井冷光君の遺憾如何ばかりかと記者は同情に堪えません。
[13]生田葵『お話の久留島先生』1939年のp218の記述と、安倍季雄「回字会の思出」『童話教育』12巻9号(1960年)の記述とでは齟齬が生じている。生田によれば、明治43年5月の雑誌『雄辯』4号に久留島が「私共は只今回字會と言ふものを起して同志の者と辯舌について研究してゐる」と書いているから、回字会は明治43年5月の段階で結成されていたとみていい。ただ、冷光が上京したのは明治43年末であるから、冷光がまだ富山にいたときに回字会にかかわっていたと考えるには少々無理がある。回字会の初期については不明な点が多く、今後の調査で新しい事実が出てくれば曖昧な記述を書き替えていく。
(2020-04-30 00:00:00)(2021年8月15日訂正)(2023年3月17日追記・國廣知二関連)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?