【資料】大井冷光「追悼・永島永洲」『少年』170号(大正6年)
秋立つ日 冷光
むかしから『心、肺は不治の病』といふ、
十七の春、学校通ひのみちで初めて
心臓病が起り卒倒された悲しき思い出、
爾來五十有一歳の秋立つ日まで、
先生はその不治の病と闘はれたのだ。
姓は永島、号は永洲、
身長五尺に足らぬ先生に於て、
永洲の号は皮肉であった、
それも心臓のためだ、不治の病と、
持久戦中の悲しき皮肉であったのだ。
三月、雪もよひの夕、麹町の書斎に、
先生を訪ねて明治文芸談に花が咲き、
長座したのが、おもへば永別であったが、
八月十日インマヌエル教会の葬式に列し、
はからずも先生の柩を搬ぶ
親近者の群れの一人に加へられたる因縁よ。
病床を訪ね得なかった恨みを、
せめてはここに慰めよとの、
先生の霊のみちびきではなかったか、
いやいや、先生は君子人であった、
いやしくもせざる君子人であった。
【編注】時事新報記者で児童文学者、永島永洲(1867-1917)。永島永洲の児童文学 (internet.ne.jp)を参照されたい。大井冷光は、6月8日から20日間の満鮮旅行に出るなどこのころ多忙を極めていた。冷光もまた大正10年に心臓発作で亡くなることになる。因縁めいた追悼詩といえる。
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