第1章第1節 「赤い鳥」前の音楽ブーム
大正7年、東京の帝国劇場で「少女」音楽大会という子どもたちの音楽会が開かれた。選抜された百人近くの児童が好きな唱歌を歌う催しである。現代ならどこでもありそうな催しだが、2000人の観衆が押し寄せ、新聞5紙や音楽専門誌が取り上げた。批評の中には「楽界に刺激を与えた」「唱歌界の革新発展を促す」などという賛辞もあった。オペラや歌舞伎、東京フィルハーモニーの演奏会が行われた国内最高のステージに、素人の子どもたちが上がったことにどんな意味があったのであろうか。
階上階下立錐の地なし
音楽会を企画したのは雑誌『少女』の編集主任、大井冷光(32歳)である。東京音楽学校の研究科生で東京家庭音楽会の主事だった室崎琴月(27歳)も企画にかかわり、ピアノ伴奏者として出演した。
『赤い鳥』に代表される童謡運動が音楽運動として始まるほんの少し前に開かれたこの音楽会を読み解くことで、童謡運動前史とも言える子どもの音楽に関する情勢と、そこに室崎琴月と大井冷光の足跡が見えてくる。
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大正7年6月16日、日曜日。梅雨の季節に入っていたが、この日は朝から青空が広がった。
皇居の堀端にある帝国劇場前の広場には、午前9時ごろから人が集まりはじめた。多くは10歳から12歳ぐらいの少女で、保護者や付き添いの先生もいる。時事新報社主催の『少女』音楽大会は正午開演だった。[1]
混雑を回避するため午前11時に予定されていた開場は30分ほど繰り上げられた。『少女』誌上でのPRと本紙『時事新報』の事前告知が首尾よくいき、30~50銭の入場券は5日前に発売されてから4日間でほとんどが売れ、当日券はわずかしか残っていなかった。
1階から4階まで計1700席ある客席はたちまち埋まった。「三、四階席さえ五百人以上を入れて階上階下立錐の地なきまでに少女諸君を以って満たされたことは空前の事」とも「満堂二千に余る」とも記されている。[2]
明治44年に設立された帝劇は国内初の本格的な洋式劇場で当時東洋一と言われた。大理石の柱が立つ広間からホールに入ると、壁は金色に統一され、天井には大きなシャンデリアが取り付けられ、舞台前にはオーケストラピットがあった。「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーが物語るように、帝劇は富裕層や新中間層があこがれる時代の最先端をいく施設だった。
舞台天井にかかるアーチには、白い鳩の群れの彫刻が装飾されていた。雑誌『少女』は鳩ちゃんという愛称で呼ばれていたから、まるで『少女』のために用意されたようなステージとなった。大井冷光が事前の記事で「わが日本少女界に於てはかつて試みられたことのない新計画」と見栄を切った音楽会がついに始まるのである。[3]
当日のプログラムは以下のとおりである。
『少女』音楽大会曲目(大正7年6月16日、帝国劇場)
【第1部】
【第2部】
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[1] この「少女」音楽大会の記述は、時事新報社『少女』68号(大正7年8月号、音楽号)の「『少女』音楽大会の記」p2-14による。この記事の署名は『少女』記者で、大井冷光や阪口利三郎らの共同執筆とみられる。
[2]『少女』68号(大正7年8月号)p120、安倍季雄の編集余話。『帝劇の五十年』1966年によると特等80席、 1等528席、2等452席、3等390席、4等250席で計1700席。3・4階はベンチ席だった。
[3] 『少女』66号(大正7年6月号)、p100-101。
[4] 『少女』67号(大正7年7月号)、p31-32には社告とプログラムが掲載されているが、このプログラムは未確定版である。実際には曲順や伴奏者などがかなり変更されている。『少女』の歌の伴奏も、この未確定版で室崎清太郎と記されているので、実際に清太郎が伴奏したかは分からない。(2012/07/13 23:42)
「少女の歌」にみる世代交代
正午、金色の房の付いた薄紫の緞帳が上がった。上品な緑色の幕を背に、出演者と大井冷光ら『少女』編集部の記者が現れた。帝国劇場で時事新報社主催の『少女』音楽大会がいよいよ開幕した。
まず「君が代」斉唱。陸軍軍楽隊長、永井建子[4]の指揮で帝劇管弦楽部が演奏した。続いて『少年』『少女』主幹(主筆)をつとめる安倍季雄(村羊)が、主催者を代表してあいさつした。
『少女』音楽大会は2部構成である。出演者は第1部が96人の子どもたち、第2部は東京高等女学校講師の内田琴子(ソプラノ)と鈴木采子(ピアノ)。[5]子どもたちは京橋高等小、鉄砲州小(京橋区)、駒本尋常小(本郷区)、泰明尋常小(京橋区)、礫川尋常小(小石川区)、根津尋常小(本郷区)、豊島師範学校附属小、柳島尋常小(本所区)の8つの小学校から選抜された3年生から6年生までの児童である。
第1部の曲目は16ある。『少女』編集部が大正6年11月から読者の好きな唱歌を"少女愛歌"として募集し、1000通を超える応募の中から人気のある曲を中心に決められた。東京音楽学校研究科生で東京家庭音楽会の主事だった室崎琴月は、冷光から依頼を受けてその選定に加わったものと思われる。選ばれた16曲の多くは学校で歌われていた歌で、《故郷》《朧月夜》など今日も歌われている歌が含まれる。
琴月は16曲のうち4曲のピアノ伴奏をし、第1部の終わりに番外として行われた琴合奏「春の曲」ではヴァイオリン伴奏も披露した。
第1部は《『少女』の歌》でスタートした。出演者全員がステージに上り合唱した。「どうぞ一緒に、なるべく大きい声で」。第一節を過ぎたところで、司会の大井冷光が客席にも歌うよう促した。皆初めて耳する歌だったが、歌詞が配られていたからか、ホール全体に歌声が広がった。
『少女』の歌 大井冷光作詞作曲 室崎琴月補作
《『少女』の歌》は、雑誌のいわばテーマ曲として、編集主任の大井冷光が作詞作曲したものである。[6]琴月は冷光から相談を受けて「いくぶん修正を加えた」といい、「冷光には多分に音楽的才能があった」と記している。[7]冷光は、大会で歌ってもらうため、大会直前に発行した『少女』67号(大正7年7月号)の巻末に手書きの曲譜を載せていた。
雑誌のテーマ曲をつくり音楽大会で歌うという発想は、新聞記者・雑誌記者としてさまざまな編集企画を提案してきた冷光らしい着想である。ライバル誌の『少女の友』は1年余り後の大正8年11月号で《少女の友の歌》を発表している。
ただ冷光のアイデアが独創的だったかというと、それには疑問符がつく。《少女の歌》は以前に同名の歌がある。『少女世界』明治42年1月号にある巌谷小波の作詞曲である。冷光は巌谷を師として尊敬していたから、巌谷の《少女の歌》を知らなかったはずはない。明治42年5月23日、巌谷小波と久留島武彦は富山市を訪れ、市公会堂で開かれた『少女世界』『少年世界』愛読者会に参加した。『少女世界』愛読者会の演目の中に《少女の歌》(幹事一同)という記録がある。当時案内役をつとめた冷光はこの会に参加し、この歌を聴いていたとみられる。[8]
少女の歌 巌谷小波作詞 東儀鉄笛作曲
ここで注目すべきなのは同じ《少女の歌》で、雑誌のテーマ曲という性格の歌でありながらその内容の違いである。
同じく花を題材にとっているが、巌谷の歌は文語体で良妻賢母教育を連想させるのに対し、冷光の歌は覚えやすい口語体で自由な気風で綴られている。巌谷の歌はいかにも唱歌であるが、冷光の歌は唱歌でなく大正8年から始まる感傷的な童謡の類でもない。バラと鳩という少女好みの題材を組み合わせ、いかにも子どもが口ずさみたくなるような歌に仕上がっている。
2つの歌の違いはおおよそ10年の間に、子どもの歌の嗜好が大きく変化したことが背景にある。大正時代前半に、教育を目的にした学校唱歌に加えて、吉丸一昌『新作唱歌』全10集(明治45年-大正3年)や小松耕輔・梁田貞・葛原しげる『大正幼年唱歌』全12集(大正4-7年)など親しみやすい創作唱歌が次々に生み出され、子どもたちの間には歌う楽しさが芽生えてきていた。冷光も大正3年12月に創作唱歌12編を収録した『お伽幼稚園』を出版している。《『少女』の歌》は、子どもの歌がブームになりはじめた時代の気分を映した歌であり、同時に、児童文化の牽引役が巌谷小波らから大井冷光らに世代交代したことを感じさせる。
「少女」音楽大会で《『少女』の歌》の合唱は、第1部の後の空き時間にも行われ、この音楽会に訪れた人に強い印象を残している。
琴月自身は「花はなんの花 四季咲きばらよ」という歌い出しを回想記に記している。童謡作詞家の葛原しげるは、大会の批評を寄稿し、こんな称賛の言葉を記している。「歌は勿論冷光先生のお作ですが、曲も、冷光先生のお作ときいて、先生の有ってをられる善いリズムに敬服しています」。そしてよほど気に入ったのか、批評の最後を「花は何の花……鳩よ」と歌詞で締めくくっている。
また、大井冷光の同僚の阪口利三郎は編集後記で面白おかしく記している。「おかげで大会以来、『君ケ代』の他には何も歌へない私まで、仕事の間々につい『花は何の花……』をやっております。でもこれが全く鼻歌ならぬ花歌でございませうねえ」
◇
[4]永井建子(1865-1940) 日本の陸軍軍楽隊第6代軍楽隊長で音楽家、作曲家。
《独唱の後》山本美音子が独唱後に花束を受け取る場面
[5]第2部の組み立ては、東京府立豊島師範学校教諭の山本正夫に一任され決まった。内田はのちに室崎の中央音楽学校で講師を務めている。大井冷光は最初、社内の文芸部主任と相談して声楽家の柳兼子(柳宗悦の妻、旧姓中島、明治43年東京音楽学校卒)に依頼したが、東北旅行の先約があった柳に断られ、山本に依頼したという。山本は、音楽教員らの全国団体「教育音楽会」の理事で、雑誌『音楽界』編集者の一人。琴月とは、作曲を教えるなどの交流があったものとみられる。
[6]大井冷光は『少女』59号(大正6年11月)で、それまでの『少年』担当から、『少女』担当に代わった。その際、編集余話には、「花ならば野菊よ/ばらよ鳥ならば/可愛い鳩の『少女』めしませ」という、『少女』の歌の原型になる詩を、読者へのあいさつとして掲げている。また、この《『少女』の歌》は、『少女』150号(大正14年1月号)の記念号で歌詞と曲譜が再録されたが、歌詞が一部間違っている。
[7]室崎信子編『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』1991年、p90。琴月の長女、信子さんがまとめた本で、琴月の随筆14編を所収。その1番目の収録が「大井冷光氏を憶う」という短編である。
[8]大井冷光は『富山日報』記者だった明治42年夏、立山に滞在して連載ルポ「天の一方より」を書いているが、これも『少年世界』明治41年7月号にある巌谷の詩「天の一方」からとったものであろう。(2012/07/14 21:00)
《友よいづこ》と教え子
帝劇で開かれた『少女』音楽大会の曲目のなかに、室崎琴月と大井冷光の関係を考えるうえで、もう一つ注目される歌がある。《友よいづこ》である。
友よいづこ 大井冷光作詞、室崎琴月作曲
《『少女』の歌》と比べると、ずいぶん古めかしい表現の歌である。冷光は富山県立農学校時代から俳句を詠み、『富山日報』記者時代は墨汁吟社という句会にも属していたというから、文語には慣れ親しんでいたのであろう。
当時の雑誌編集者は、編集者であり執筆者であるケースが多かった。冷光は『少年』『少女』のほぼ毎号で小説や紀行文を書いていた。
『少女』大正6年6月号(第54号)から連載していたのが少女小説「大波小波」である。主人公の少女、萩野瑞子をめぐって、友人の少女が行方不明になるというサスペンスタッチの小説である。大正7年1月号では「大波小波」後編がはじまった。冷光は、瑞子が出かけた音楽会で、別のある少女が独唱する場面を設けた。その場面で歌われるいわば"作中歌"が、《友よいづこ》である。冷光はわざわざ楽譜(五線譜)をつくり、1ページの4分の3ほど使って載せた。そして編集余話でこんな裏話を明らかにしている。
「序に本号の『大波小波』の内に室崎君の曲をのせました。あれは同君の傑作で、私の「友よいづこ」などいうお粗末な歌詞を盛るのは勿体ない位ですが、同君の好意で思い切って戴きました。若し皆さまの内、あの曲の伴奏曲を知りたい方がございましたら本郷区千駄木町百六十三番地東京家庭音楽会室崎琴月氏にあててお申し込みください、返信切手さえおつけになればいつでも送ってくださることになっていますから」
琴月は「大井冷光氏を憶う」と題した回想記で、次のように記している。
冷光が、琴月と知り合ったのは、『少女』編集主任となって少女愛歌の募集を始めた大正6年10月か11月ごろと推定される。琴月に執筆を依頼して『少女』大正7年1月号から「名曲物語」という音楽コラムを連載するようになって、交流が深まっていったようである。琴月が大正7年5月26日に開いた東京家庭音楽会の演奏会に、冷光が出演し、番外として「おとぎ噺」を披露している。琴月が主催した演奏会は30余りが確認されているが、おとぎ噺が口演されたのはこれ一度きりである。
「大波小波」の中で出てくる音楽会の情景は次のように描写されている。
「曲目はまだ十一二の少女の筝曲を最先きに、独唱、弾奏、合奏と次々に品を代えて演奏されましたが、その内には、十一二の少女の弾奏、あのような幼い手でどうしてあのような音色が出るのであろうか、と驚嘆の眼を見はらされるばかり巧みなピアニストもございました」
冷光が書いた音楽会は、箏曲がありピアノがある和洋取り混ぜたものである。琴月の東京家庭音楽会は当初まさに和洋混合の音楽団体であった。あくまでも推測になるが、冷光は大正6年10月14日の東京家庭音楽会をすでに見ていて、「大波小波」のこの場面を描いた可能性がある。
『少女』音楽大会では実際に、尋常小学校6年生の佐藤静千代が《友よいづこ》を独唱した。伴奏した琴月は、佐藤静千代が1年生のころからピアノを教授していたというから、師弟の息はぴったりだった。独唱が終わると、司会の冷光が機転を利かせ、佐藤のピアノ演奏を促した。佐藤は番外でベートーベン・ソナタをピアノ独奏で披露し、会場の注目を集めた。
(2012/07/17 21:33)
恩師と先輩そして家庭音楽会
帝劇『少女』音楽大会で室崎琴月がかかわった4曲のうち、残りの2曲は《木がくれの歌》と《昼》である。
《木がくれの歌》は、琴月にとっては恩師である東京音楽学校教授、吉丸一昌の作詞である。音楽学校で生徒監をつとめ、修身・国語を担当していた吉丸は、明治44年5月から発行された文部省編『尋常小学唱歌』の編纂委員会で作詞担当の主任だった。また、明治45年7月からは、自身の作詞に曲をつけてもらい『新作唱歌』全10集(第1集と第2集は『幼年唱歌』)を編纂している。
《木がくれの歌》は当初、舟橋栄吉作曲で『新作唱歌』に収録されたが、吉丸はこれに満足していなかったらしく、琴月にも作曲させた。そこで出来上がった琴月の《木がくれの歌》を褒め、琴月に本格的に作曲の道に進むことを決意させたという。
吉丸は大正5年、急死している。特別な思い入れがあるからか、琴月は演奏会でたびたびにこの恩師の曲を演奏している。
《昼》は、東京音楽学校の先輩、弘田龍太郎の作曲である。琴月は『少女』に連載した音楽コラム「名曲物語」大正7年6月号(第66号)でこの曲を取り上げ、「和製品であり乍らこれ程綺麗な曲は滅多に御座いません」と記している。弘田は琴月より1年年下だが、明治43年予科に入学して本科器楽部(ピアノ)を大正3年に卒業するまで、琴月より3年早く進級していたことになり、琴月は回想記で弘田のことを先輩と書いているのもうなづける。
後で詳細に記すが、大正から昭和にかけて琴月と弘田龍太郎の音楽活動の方向性は、童謡・唱歌・工場音楽・仏教音楽などとても似通っている。大正9年秋、大井冷光作の童話劇「あわて木兎」に、弘田が中心になり琴月も参加して曲をつけている。
『少女』音楽大会第1部の最後に行われたのは、番外で筝曲《春の曲》だった。演奏するのは、東京家庭音楽会の女性会員5人で、室崎琴月はヴァイオリンで伴奏をつとめた。5人は、筝曲家、山岡清舟に師事していて、一番年下が高等女学校2年生である。
東京家庭音楽会は、琴月が1年前の大正6年6月に立ち上げた団体である。詳細は後述するが、「家庭音楽」の普及こそが当時の琴月の目標であり、それは冷光が目指す方向とも近いものがあったのであろう。
山岡清舟は、幕末の剣術家で明治時代は政治家でもあったあの山岡鉄舟の三女である。琴月は千駄木町に下宿していた頃、近くにあった山岡家に出入りしたらしい。《春の曲》は、『少女』音楽大会の趣旨と違うことから番外とされたものだが、これ番外として取り入れたところに、冷光と琴月の深い関係を読み取ることができる。
第2部は、女流音楽家2人が出演し、少女に人気のあった歌を歌い演奏した。ソプラノ歌手の内田琴子(東京音楽学校本科声学部大正5年卒)とピアノの鈴木采子(同本科器楽部大正5年卒)である。二人は琴月にとって1年先輩にあたる。
帝劇『少女』音楽大会は盛況のうちに3時間5分で幕を閉じた。
(2012/07/21 22:45)
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