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第2章第2節 東京音楽学校選科とは

上京した室崎清太郎(のちの琴月)は、受験勉強のため東京音楽学校の選科に入った。選科3年ののち、予科の試験にようやく合格、予科1年本科3年と学んで大正6年3月に卒業する。その後の研究科2年も含めると、東京音楽学校には9年間在籍することになる。

このころの東京音楽学校は予科本科・甲種師範科・乙種師範科・選科・聴講科・研究科の6科制だった。音楽家を養成する予科本科と音楽教員を養成する師範科が二本柱としてあった。

音楽を志す者が誰しも目指すのは、この予科か師範科への入学であった。明治40年の試験では、予科と師範科を合わせて349人が受験し合格は69人、5.06倍の狭き門だった[1]。予科だけに限ると、明治39年122人中入学16人で7.62倍、明治43年75人中入学14人で5.36倍、明治45年62人中18人で3.44倍というデータもある[2]。明治42年の募集人員は予科約30人、甲種師範科約30人、乙種師範科約20人であった。

富山県立高岡中学校では1~3学年で唱歌の授業があったとされ[3]、清太郎はおそらく唱歌を学んでいた。また自分のオルガン[4]やヴァイオリンを手に入れ演奏していたが、「自己流でもて遊ぶにすぎなかった」と述懐している。[5]予科の試験には、国語や英語などに加えて旋律の書き取りや器楽実技もあったろうから、地方の中学校からストレートで入学できるほど甘くはなかった。それに、清太郎はピアノに全く触れたこともないという大きな弱点があった。

そのころの富山県の西洋楽器事情は相当貧弱だった。『富山日報』明治43年9月2日に富山県出身の音楽家、福井直秋(1877-1963)が「市民と音楽」という小文を寄稿している。福井は明治35年に東京音楽学校を卒業したあと当時、清の江師範学校で講師を務めていた。福井によると、長野県にはピアノが17台もあるのに富山県内には富山女学校に1台と宣教師のウエルキンソン氏が1台有しているだけの計2台しかなく、情けない限りという。「音楽会が有っても之を貸出す事が出来ない様な有様だ。ピアノは西洋楽の王だ。ピアノが無ては西洋楽が半分以上解せられない」と嘆いている。

清太郎が、受験勉強のためにまず入った選科とはどんな学科だったのだろうか。

東京音楽学校は、文部省内にあった教育機関の音楽取調掛に代わって明治20年10月に設立された。明治22年1月に学校規則が初めて制定され、その際、予科本科(師範部・専修部)とは別に、すでに選科が設けられている。[6]選科は、洋琴・風琴・バイオリン・唱歌のなかから1科目ないし3科目を選んでレッスンを受けることができるというもので、清太郎が入った約20年後もあまり変わっていない[7]。

明治42-43年の「入学志願者心得」によると、選科は、他の学校に在学中でも昼に職務に従事していても随時入学ができ、欠員さえあれば無試験で入学できるとある。

選科は「正科ではない」という記述もあり、体系的に音楽を学ぶ予科本科や師範科とは一線を画していたのであろう。明治22年の学校規則の第4条には、予科のあと試験を受けて本科に進めない者は、退学するか選科に移ってもよいとも書いてある。また選科生は制服がなかった。明治43年の学校規則の第35条によると、「選科ニ入学ヲ許可スベキ者ハ所選ノ学科目ヲ学習スルニ堪フト認ムル者タルヘシ 但シ必要ノ場合ニハ音楽上ノ能力ヲ試験シテ其許否を決スルコトアルベシ」とあり、受験料の規定がないことから、入学試験はなく比較的簡単な手続きで入ることができたものと見られる。

現代の感覚で言えば、選科とは、予備校と公開講座が合わさったようなものであろうか。東京芸術大学の沿革史では「簡易な技能教育を目的にした選科」と記されている。

明治43年当時の選科は、唱歌・ピアノ・ヴァイオリン・オルガン・箏の5科目があり、1科目をまず選び、兼修科目として2科目を選ぶことになっていた。学校規則によると、入学金が1円、授業料は1科目年額15円、2科目だと計年額25円で、毎週の教授時数は1科目につき3時間以下となっている。

清太郎は唱歌を選び、その一番下の組にあたる男子丙組(20人)に入った。そしてピアノを兼修科目とし、音楽の基礎を一から学びはじめた。

明治時代末の東京音楽学校6学科(明治43-45年)

学科 研究科 本科(声楽部・器楽部) 予科 甲種師範科 乙種師範科 聴講科 選科修業年限 3年 3-5年 1-2年 3年 1年 5年受験料 - 1円 1円 1円 1円 - -入学料 - - - - - - 1円授業料年額 - 20円 15円 - - - 15円授業科目 (略) 修身、唱歌、器楽、音楽通論、器楽合奏、和声論、楽式初歩、音楽史、国語、外国語、体操 修身、唱歌、器楽、音楽通論、国語、外国語、体操 修身、唱歌、ピアノ又はオルガン、音楽通論、和声論、音楽史、教育学、音楽教授法、国語、英語、体操及び遊戯 修身、唱歌、ピアノ又はオルガン、音楽通論、音楽教授法、国語、体操及び遊戯 (略) 唱歌、ピアノ、ヴァイオリン、オルガン、琴明治43年6月 19人 57人 19人 95人 14人 16人 317人明治44年6月 15人 63人 20人 77人 14人 18人 309人明治45年6月 15人 58人 27人 76人 19人 25人 287人
『音楽学校一覧』明治42-45年、明治45年-大正2年から作成

[1]『読売新聞』明治40年4月10日(『東京芸術大学百年史』東京音楽学校編)

[2]文部省『教育統計摘要』明治40年刊、大正元年刊、大正2年刊。東京音楽学校の基礎資料である『音楽学校一覧』とは数字が一致しないため、さらに検討を要する。

[3]高岡高等学校校史編集委員会編『蛍雪九十年』1988年、p7。室崎琴月が在籍した明治38年4月から明治43年3月の間に、高岡中学校で唱歌の授業があったのかどうかは確認されていない。『富山県教育史』1971年によると、明治34年3月制定の富山県中学校規則では唱歌という学科が記載されていない。これは明治34年3月の文部省令「中学校令施行規則」で唱歌が中学校の必須教科とされたものの「唱歌ハ当分之ヲ欠ク事ヲ得」の一項が付け加えられたことに対応したものであろう。しかし、『蛍雪九十年』は明治時代の県立高岡中学校(5学年制)では、唱歌が3学年以下で課されていたと記述している。いずれにしても当時は音楽室がなく、授業があったとしても簡単な内容であったと考えられる。

[4]このオルガンは現存する。山葉製オルガンⅠ型(通称金魚オルガン)で、製造番号から明治42-43年の製造とみられている。したがって清太郎は、上京する前にオルガンを入手し、練習していた可能性がある。

[5]室崎信子編『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』1991年、p104、「音楽と私」1970年

[6]『音楽学校一覧』明治22-23年

[7]坂本麻実子『明治中等音楽教員の研究』2006年によると、正規生よりも多い選科生を減らそうと、明治42年から選科の入学資格がそれまでの9歳以上から12歳以上に、修業年限が1科目につき5年以内に制限されたという。明治43年の時点で、全学科の学生数537人に対して、選科生は317人で、59.0%を占めている。(2012/08/11 15:20)

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