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生誕120年吉田博展と比べて

1996年、生誕120年のときは、木版画ばかりでなく、水彩画や油彩画にも注目が集まっていました。木版画だけを見ていては、吉田博の本当の凄さが見えません。


(1)秀作《干潟の夜》欠品は残念

20年前の1996年に開かれた「近代風景画の巨匠 吉田博展 清新と叙情」。120年展と140年展を比べてみると、意外なことに140年展ではいくつかの秀作が欠けていたことが分かる。酷な言い方だが、"欠品"である。

まず水彩画から見ていこう。120年展では37点、140年展では28~78点が展示された。140年展で幅があるのは、半期だけだと28~31点しか見られないためで、5会場すべてで前期後期を見た最大で78点見られることになる。つまり、実質的には120年展の方が、水彩画の展示は充実していたと言ってよい。

とはいえ、比べるのは37点と78点である。78点のなかに37点が含まれるのならば論議する意味も薄いが、実はそうではない。120年展で展示されたうちの6点は、140年展ではリストに入らなかったのである。

"欠品"6点は、《農家への小道》《霧の木立》《街道》《山路》《干潟の夜》《つつじと人家(下仁田村)》である。
どれも味わい深い作品ばかりだが、このうち秀逸なのは《山路》と《干潟の夜》だろう。

《干潟の夜》明治40年頃 水彩 35.5×51.0

《干潟の夜》は、140年展で出品された《滞船、薄暮》(郡山市立美術館蔵、千葉と郡山のいずれも後期でのみ展示)に雰囲気が近い。いずれも帆船が主題で新月が見えている。《滞船、薄暮》はふた回りほど小さい。

図録で見る限り、2作品の出来栄えは雲泥の差である。構図といい色調といい、《干潟の夜》が断然いい。夜とは言いつつも微妙な明るさや色が残る時間帯で、空の淡い紫色が印象的だ。帆を下ろしかけた船。その近くで3~4人が網を仕舞う場面だろうか。船から人、人から遠方の街灯りへと視線を誘導するあたりが吉田博らしい。画面のわずかな面積を占める水面に、人影や街灯りが反射している細かい描写もいい。120年展の図録を見ると、米国人所蔵らしい。欠品6点のうち3点は同じ米国人所蔵だ。要するに140年展では、この米国人から借りることができなかったのだろう。そのこと自体を責めることはできないが、実物が見られなかったのは本当に残念だ。

《干潟の夜》は、伊藤匡編『日本の水彩画15吉田博』(1989年・24作品所収)に、A4判ほどで掲載されている。2003年「もうひとつの明治美術展」で展示された11点の一つ。(2017-08-12)

(2)《山路》に見る物語性

一見すると色褪せて黄ばんでいる。しかし修復されれば傑作ではないか。

それは《山路》という水彩画だ。明治36年頃の作とされる。《干潟の夜》とともに生誕140年展では見られなかった水彩画6点のなかの1点である。

《山路》明治36年頃 水彩 32.3×49.3

それほど美しくもない松の木立。その奥に色鮮やかなフジの花が横一線に咲く。赤い提灯をみると茶屋なのだろうか。山道は画面左手前から右中央へと続き、そこに杖を手にした脚絆姿の旅人がいる。橙色っぽい装束、若い女性か。右足を一歩先に進め、いま歩き出すところだ。その旅人の奥には、もう一人、横顔の旅人。背に菅笠、手に杖をとって茶屋を出るところのように見える。

構図だけをいうなら道路山水のような遠近感はない。右端前景の松の根と右端遠景の霞んだ山林に遠近感はあるが、この絵の妙味は物語性にある。(2017-08-14)

Amenonakanokomori

《雨の中の子守》明治36年頃 水彩 33.0×50.3 福岡市美術館蔵
《雨上がりの少年のいる風景》明治36年 水彩、49.7×67.5 府中市美術館蔵

(3)油彩《渓流》《奔流》フル展示しないのはなぜ?

生誕120年の吉田博展で展示された油彩画は75点を数える。一方、140年展では、久留米前期で56点にとどまり、5会場を前期後期すべて見たとしても71点の展示だった。つまり、油彩画の展示数でも、水彩画同様、120年展のほうが140年展より充実していたといってよい。今回の140年展で不可解だったのは、油彩の代表作がフル展示されなかったことだ。《精華》は何度か既に記した。今回は《渓流》と《奔流》について書こう。

《渓流》明治43年 油彩 119.0×149.0 福岡市美術館蔵 第4回文展

油彩《渓流》は20年前、120年展で図録の表紙を飾った大作である。明治43年の第4回文展に出品された。所蔵する福岡市美術館は120年展の主催者で、吉田博研究第一人者の安永幸一氏が長く在籍していた。140年展には《雲叡深秋》《チューリンガムの黄昏》《堀切寺》《渓流》《アルプスの山小屋》《劔山》《溶鉱炉》計7点の油彩画が、福岡市美術館から貸し出されている。このうち6点は全5会場で通期展示されたが、なぜか《渓流》だけは久留米・上田・東京の3会場で見られなかった。惜しいことだ。

《渓流》1928年 木版 54.5×82.8

《渓流》は、NHK日曜美術館のおかげで今や同じ題名の木版画の方が有名になってしまった。木版画《渓流》が好きになったファンなら、ぜひとも油彩《渓流》と見比べてもらいたかった。吉田博は水流を好んで主題にした。大正元年第6回文展の《奔湍》、大正4年第9回文展の《奔流》、大正7年第12回文展の《潤聲》、昭和13年第34回太平洋画会展の《奔流》などがそうだ。一堂に見比べられたらどんなに愉しいだろう。

《奔流》昭和11年 油彩 96.8×130.5 石橋財団蔵

石橋財団所蔵の《奔流》も吉田博の油彩画の代表作に挙げてよい。石橋財団は120年展と140年展で同じ4点を出した。《上高地》《ウダイプール宮殿》《風景(ダージリン)》《奔流》。しかし140年展で展示されたのは千葉と郡山の2会場(いずれも通期)だけ。《奔流》は、《渓流》と合わせるかのように、久留米・上田・東京の3会場で展示が見送られた。4点とも見送られているのは、2017年4月~8月にオランジュリー美術館で開かれる「石橋財団コレクション展」の絡みでもあったものか。久留米市美術館の前身である石橋美術館は、久留米市出身の洋画家として青木繁や坂本繁二郎を重くみてきたようであり、吉田博の扱いは意外なくらい低い。《奔流》は、その26年前に描かれた《渓流》と比べながら、今後もっと評価されていい作品だ。(2017-08-15)

(4)傑作《川のある風景》が見たかった

東京にある府中市美術館は、吉田博の水彩《府中》を所蔵している。地元ゆかりの絵画ということだが、140年展にその《府中》は残念ながら展示されていなかった。典型的な「道路山水」、秋の集落と人物、それほど強い印象はない。府中市美術館にはほかにもすばらしい吉田博作品がある。特に注目すべきは油彩《川のある風景》だ。

140年展では計7点が出展されていたが、肝心の《川のある風景》がなかった。

《川のある風景》明治29年 油彩 72.0×149.8 府中市美術館蔵

《川のある風景》は最初期の明治29年(1896年)の作とされ、あの油彩《雲叡深秋》(明治31年)とは、横構図と縦構図、明るい画面と暗い画面というふうに好対照をなす傑作だ。

その横長画面は、一見なんでもない河原の景色に見える。木々の色からすると季節は秋だろうか。奥の山々は低い雲がかかってわずかしか見えない。小さい画面で分かりにくいが、よく見ると中央には2頭の牛を連れた人が橋を渡っている。そして画面右側には川岸の高台にある農家を描き、そこにも人らしい姿が見える。吉田博は本当に添景人物がうまい。やはり実際の場面を見たのか。

府中市美術館と言えば、静岡県立美術館とともに「もうひとつの明治美術展」を開いた美術館だ。なぜ《川のある風景》を20年ぶりの大回顧展のために貸し出しできなかったのか、担当学芸員に聞いてみたい気がする。

ちなみに、静岡県立美術館の油彩《上高地の春》は140年展で5会場通期フル展示をしていた。(2017-08-17)

(5)見られなかった《槍ヶ岳》競演

今回の140年展に、吉田博作品の所蔵があるにもかかわらず出展しなかった美術館がいくつかある。茨城県立近代美術館、河口湖美術館、長野県信濃美術館、東京都現代美術館である。主催者が借りに行かなかったのか、あるいは借りに行ったけれども借りられなかったのか。4つの美術館が120年展のときに貸し出した所蔵作品(油彩のみ)を下に掲げる。

140年展に貸し出しがなかった美術館の所蔵品

茨城県立近代美術館……《ヨセミテの谷》《槍ヶ岳》
河口湖美術館…………《富士》《富士》
長野県信濃美術館……《有明山》《鑓ヶ岳 杓子岳》《乗鞍岳》
東京都現代美術館……《江の浦湾》

このうち茨城近美の《槍ヶ岳》、信美の3作品、都現美の《江の浦湾》あたりはぜひとも見ておきたい作品だ。

《槍ヶ岳》大正10年-昭和元年 油彩 61.0×80.0 茨城県立近代美術館蔵

茨城近美の《槍ヶ岳》は、雄大な風景画だ。近距離から山頂を描いた油彩《鎗ヶ岳》や木版《槍ヶ岳》とは趣が大きく違うから面白い。野口五郎岳(2924m)山頂付近から真南の方角、裏銀座縦走路と槍ヶ岳(3180m)を描いた。左手前に南真砂岳(2713m)。中央に赤茶色の崩壊地の硫黄尾根。そして右側から槍ヶ岳へと続く西鎌尾根。尾根がジグザグに折り重なるイメージだ。

《雲かかる》大正2年-昭和元年 油彩 45.8×60.6福岡市役所蔵

これとほぼ同じ場所からやや望遠気味に描いた油彩《雲かかる》(福岡市役所蔵)も140年展には出ていなかった。《雲かかる》は大正年間の作、《槍ヶ岳》は数年後の作と見られる。吉田博にとって野口五郎岳山頂はお気に入りの場所だったのだろう。《槍ヶ岳》は眺望がよい大全景だが、《雲かかる》はまさに槍に雲がかかり硫黄尾根に日が差し込んでいる瞬間を描いている。好みもあるだろうが、私なら物語性のある《雲かかる》を選ぶ。120年展では2点を並べて見られたのだろう。本当にうらやましい。(2017-08-18)

(6)信美の油彩3点は出展されず

長野県信濃美術館の所蔵品は、生誕140年吉田博展に1点も来ていなかった。主催者側の事情だろうからそれを責めるつもりはさらさらないが、やはり残念である。

1996年の生誕120年展で展示された《有明山》《鑓ヶ岳 杓子岳》《乗鞍岳》の3作品はぜひ見てみたかった。信美といえば、1990年に「吉田博と山の画家たち展」、2003年に「もうひとつの明治美術展」を開いた。信州と吉田博の切っても切れない関係を大切にしている美術館だ。

《有明山》は、大正9年頃に描かれた縦長2枚1組の油彩である。140年展にあった《槍ヶ岳と東鎌尾根》と似ている。この《有明山》は、木版《大天井岳より》(日本アルプス十二題シリーズ)と似た構図である。140年展の油彩《烏帽子岳の旭》《鷲羽岳の池》も同様で、のちに日本アルプス十二題の木版に採用されている。

《鑓ケ岳 杓子岳》大正9年頃 45.5×60.6 油彩 長野県信濃美術館蔵

《鑓ヶ岳 杓子岳》は不思議なタイトルである。横画面いっぱいに土蔵をふくめた農家を描き、奥に白馬三山が見える構図。三山のうちなぜ鑓ヶ岳と杓子岳だけがタイトルになるかが意味不明である。白馬三山と言えば、140年展にも展示された《白馬鎗》(東京国立近代美術館蔵、第9回帝展)が印象深いけれども、この《鑓ヶ岳 杓子岳》も捨てがたい魅力がある。

《乗鞍岳》大正9年頃 45.2×60.4 油彩 長野県信濃美術館蔵

最後に《乗鞍岳》。冬の到来が間近な山麓の一軒家。画面3分の2に紅葉の山裾、上3分の1に雪をかぶった山。空は切り詰められている。やや寂しさを感じさせるが、雪を被った山容は意外と優しい。剣ヶ峰(3026m)を中心にした山の連なりは、もっとも乗鞍岳が美しく見える位置取りである。現在の乗鞍高原あたりから写生したものだろう。吉田博は「紅葉の山」を描いた作品が意外に少ない。大正7年の《山村の秋》(油彩61.0×45.0)、北九州市立美術館蔵の《渓谷秋景》(昭和8年頃・油彩80.4×60.4)あたりが知られている。(2017-08-19)

(7)山と渓谷の注目の油彩3作

120年展で見られて140年展では見られなかった吉田博の油彩画は意外なことに27点もある。いずれも画業を振り返る大回顧展なのだが、主催者によって作品選びが大きく違うのだ。

27点のうち、これまで紹介していない「山と渓谷」の注目作3点を掲げよう。

《山頂の花崗岩》大正5年 45.5×60.6 油彩

まずは《山頂の花崗岩》。北アルプス・燕岳(2763m)の奇岩。左上に見えるのが「いるか岩」(2683m)。画面中央やや右寄りに屹立する円錐形の岩に名前があるかどうかは分からない。その根元にはコマ草らしい高山植物が見える。そして背景は槍ヶ岳である。槍ヶ岳のピークと円錐形の岩を重ねあわせるかのような位置取りはいかにも吉田博らしい。大正5年の第10回文展に出品された。

《尾根伝ひ》大正9年 80.3×60.6 油彩

《尾根伝ひ》は、野口五郎岳(2924m)から三ツ岳(2845m)にかけての二重山稜をとらえた作品。手前には高山植物が咲き乱れ、緑の帯が画面奧へと連なる縦構図。画面奧中央の青紫の鋭峰は針ノ木岳(2821m)とみられる。大正9年の第2回帝展出品。

《黒部川の吊橋》大正7年 116.7×80.3 油彩 島根県立美術館所蔵
鐘釣吊橋 明治42年撮影 井上江花『黒部山探検』(明治43年9月)p83

《黒部川の吊橋》は、島根県立美術館所蔵。吊り橋は手前と奥に2本かかっているようにみえ、橋脚は大きな岩の上に載っている。奔流が印象的である。夏の昼下がりか、やや乾いた感じがする画面だ。井上江花『黒部山探検』(明治43年9月)に掲載された「鐘釣吊橋」(明治42年7月撮影)と岩や川面からの高さが似ているので、おそらく鐘釣吊橋を描いたものだろう。しかし明治42年と大正7年では、9年の経年があり、橋のたわみがずいぶん違う。(2017-08-20)

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