第2章第4節 明治時代末の私立音楽学校
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室崎清太郎(のちの琴月)は東京音楽学校選科に通う一方で、受験勉強のため私立の東京音楽院にも通った。東京音楽院の在学記録が確認できていないため、いつ入学しいつ卒業したかは不明であるが、雑誌『音楽界』の記事中に在学をうかがわせる氏名の記述が2か所あり、明治45年3月と同年7月の時点で在籍したのは間違いない。[1]
東京音楽院は明治45年3月21日、第10回芙蓉会春季演奏会を神田区三崎町パブテスト中央会館で開いた。これに室崎清太郎が出演している。[2]芙蓉会は、東京音楽院の生徒と教職員で構成する団体である。この日は午前中に卒業式があり、午後からが演奏会だった。
清太郎は、第1部第2部計15の演目のうち最初の男声三部合唱で、小沢作太郎・日野彦〔脱字か〕・関根益三とともに4人で「春をたのしめ」(ウエーベル作曲・武島羽衣作歌)を合唱した。そして6番目に、ピアノ独奏「ソナチネ」(クーラー作曲)を演奏した。これが室崎清太郎の演奏記録の初出である。
東京音楽学校予科を目指す受験生が、私立に通うのはよくあることだった。山田耕作は自叙伝のなかで「そのころの私立音楽学校は、全部上野の予備校といった風のもの」と記している。上野とは東京音楽学校のことである。清太郎と同じ年で、富山中学校を卒業した荒木得三(1891-1952、富山県東砺波郡城端町出身)は、東京音楽学校選科には通わずに、東洋音楽学校に入学して2年間学んだ。清太郎より1年早く東京音楽学校予科入学を果たし、最終的には同じ大正6年3月に本科器楽部を卒業している。
明治時代末の東京には、唱歌会や教授所も含めさまざまな洋楽教授所があった。明治39年の『朝日新聞』には20か所、明治41年の雑誌『早稲田文学』には21か所が列挙されている。
東京都下の洋楽教授所(明治40年末ごろ)
主な私立の音楽学校となると数校に絞られる。武石みどり氏の研究[3]によれば、明治43年の時点で存在したのは、開設順に楽声会(明治32年~)、女子音楽学校(明治36年~)、女子音楽園[4](明治37年~)、東京女子音楽伝習所(明治37年~)、東京音楽院(明治38年~)、二葉音楽会(明治39年~)、東洋音楽学校(明治40年~)、音楽研究会(明治42年~)の8校である。
そもそも私立の音楽学校は、明治20年ごろから生まれた唱歌会や伝習所が発展したものである。唱歌会や伝習所は音楽教員の志望者が増えてきたことに対応して次々に開設され、一方で淘汰もされた。明治30年代半ばに各種学校として東京府の認可を受ける学校が出てきた。先駆けは山田源一郎の女子音楽学校[5]であった。次いで、天谷秀の東京音楽院、松山鎰子の女子音楽園[4]、鈴木米次郎の東洋音楽学校が相次いで設立認可を受けている。こうした私立音楽学校は、例えば『新撰東京遊学案内』のような受験ガイド誌に紹介され、新聞雑誌に広告を掲載するなど、明治40年代から大正時代にかけて競争も激しくなっていた。大正元年の新聞には、自宅教授が百か所余りあると出ている。[6]
明治44年の主な私立音楽学校
東京音楽学校選科は男子が夕方からの授業であり、東京音楽院は午後からの授業であった。清太郎にとっては、日中行われる東京音楽院のほうが受験勉強の主軸になっていたかもしれない。清太郎が歩むことになる作曲家や音楽学校経営への道は、「家庭音楽」や「音楽教育会」というキーワードから推定すると、東京音楽院で出会う人々の影響が重要であったように思われる。
◇
[1]明治45年7月の在籍根拠は、『音楽界』5巻7号(明治45年7月)、「音楽教育会会告新入会員登録広告」。東京音楽院生徒、室崎清太郎君とある。
[2]『音楽界』5巻4号(明治45年4月)、p66、「中央楽況」。
[3]武石みどり、東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会『音楽教育の礎―鈴木米次郎と東洋音楽学校』(2007年)、p98-99、表5「唱歌会・私立音楽学校開設期間年表」による。
[4]女子音楽園の創立年は明治38年とみられる新聞記事がある。『東京朝日新聞』明治38年10月12日4面によると、「女子音楽園の設立」として次のような記述がある。「今回麹町区六番町四番地に設立されたる同会は女子の品性陶冶の為め特に和洋音楽を教授し且家族的団欒の裡に之を監督する新案の家塾にて松山鎰子氏専ら監督の任に当り園長堤正夫氏外六名の教師ピヤノ、ヴァイオリン、オルガンを教授し山田流の名家松川氏琴曲を教授すと主幹は千田時次郎氏にて三輪田真佐子、下田歌子、酒井伯、三島子爵夫人等顧問又は評議員となりて園の為に尽す可く又毎月一回以上文士、音楽家等を聘して講演を開き時に生徒の催しにかゝる音楽演奏会をも開くといふ」
[5]明治36年9月の設立時点では音楽遊戯協会で、明治39年2月に女子音楽学校として文部省認可を受けた。当初は男女共学の日本音楽学校を目指したが、風紀上認められなかったため、山田源一郎はやむなく男子を対象にした日本音楽協会を併設した。日本音楽学校編著『音楽教育への挑戦』(2003年)。
[5]『中央新聞』大正元年(1912年)11月-12月。連載「婦人の職業」の中に、音楽家の養成所について記載がある。それによると私立音楽学校のほかに「自宅教授が東京市中だけでも百軒余ある」という。
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