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第2章第1節 ハンディを力に代えて

童謡《夕日》の作曲家、室崎琴月は明治43年、音楽の道を志して北陸の地方都市から東京に出た。3年間の受験勉強ののち、大正2年、東京音楽学校への入学を果たす。

琴月には自叙伝らしい著作がなく、短い回想記が十数編しか残っていない。長女の室崎信子さんが1991年に『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』という本にまとめている。上京後の足跡は、その回想記の数行の記述と状況証拠ともいえる周辺の資料から読み解くしかない。

東京に出て初めてピアノに触ったという19歳の若者にどのような苦労があったのか。どのような人たちと交流を広げていったのか。童謡・唱歌の作曲家と私立音楽学校の経営者という進路はどのように開けていったのか。戦災ですべてを失うまで35年5か月にわたる東京生活の前半を、少ない資料から振りかえる。

室崎琴月随筆集(『この道一筋』1991年に収録された14編)

  1.  不明 - 大井冷光氏を憶う

  2.  昭和27年 61歳 琴を楽しみ月を愛する心境

  3.  昭和32年3月 66歳 関俊則氏を悼む

  4.  昭和34年3月25日 68歳 わが作曲の思い出 NHK「旅の手帖」で放送

  5.  昭和36年10月 70歳 愛鳥を悼む

  6.  昭和37年 71歳 私の体験

  7.  昭和37年 71歳 「夕日」に想う

  8.  昭和39年9月27日 73歳 「ぎんぎら会」謝辞

  9.  昭和45年 79歳 音楽と私

  10.  昭和46年3月12日 80歳 「ぎんぎら会」上京

  11.  昭和47年2月 80歳 私の作曲演奏会

  12.  昭和47年9月 81歳 好きな道ひたすら歩く

  13.  昭和50年6月 84歳 雑詠 『同声会会報』

  14.  昭和50年7月2日 84歳 宮城道雄君の追憶

室崎清太郎(のちの琴月)が富山県立高岡中学校を卒業し、音楽家を志して東京に出たのは明治43年春のことである。清太郎には、目に入るものすべてが輝いて見えたにちがいない。これから目指すのは、上野に学び舎をかまえる官立の東京音楽学校。音楽エリートの養成機関であり、言わずと知れた超難関校である。いよいよ音楽修行がはじまるのだった。

琴月79歳の時の回想記には、上京したときの印象を次のように書き出している。

「花の雲、人の山、私が音楽を志して東京に出たのは、まさに19歳の春で、上野は桜の真っ盛り『鐘一つ売れぬ日もなき江戸の町』であった」[1]

室崎琴月「音楽と私」1970年
(室崎信子編『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』1991年、p103、出典不詳)

清太郎は明治24年2月20日、富山県高岡市木舟町の商家に生まれた。父清七40歳。母はつ35歳。長女14歳、長男13歳、次女6歳で、4人兄弟の末っ子だった。

明治時代の高岡は、穀倉地帯である富山平野の米穀取引を行う米会所があり、武家の町・金沢をしのぐほど北陸の商都として繁栄していた。清太郎が生まれ育った室崎家は室崎一族の分家に当たるが、本家と分家はいずれも山町筋と呼ばれる高岡商人たちの町にあった。江戸時代に先代が興した綿糸問屋を成長させ、明治時代中頃には高岡打綿株式会社と北一合資会社を経営していた。高岡市内の金融機関の除く企業のなかでは、2社とも資本金で五指に入るほどの規模であり、県外にも事業展開していた。

清太郎の音楽修行は、周囲に歓迎されてスタートしたわけでなかった。家族は「音楽家などという道楽商売は絶対にしてくれるなという。親類じゅうが反対して抵抗は大きかったが、やっとのことで説き伏せ」たと琴月は記している。[1]

当時、音楽家はまだ職業として社会的に認知されていなかった。都会でもそうだが、地方都市ではなおさらだった。レコードもラジオもない時代、コンサートを開いて生計を立てられるわけでもない。西洋音楽を学んだあとの職といえば地方では学校教員ぐらいしかなかった。

《赤城の子守歌》で知られる戦前の国民的歌手、東海林太郎は秋田市出身で、やはり商家に育った。大正5年春に中学を卒業して東京音楽学校を志望したが、父親の強い反対にあった。彼の場合は断念していったん早稲田大学商学部予科に進んでいる。

清太郎の場合、「音楽家など道楽商売である」という一般的な理由のほかに、父親が反対する特別な事情があった。それは、清太郎が片足が不自由だったことである。2歳のとき股関節脱臼になり、親が気付かず適切な診察と治療を受けられなかったのだ。気付いてすぐに東京で診察を受け、手術までしたが、手遅れで生涯のハンディとなったのである。[2]

父清七にしてみれば、親の責任を感じ続けてきたことだろう。何も音楽家という冒険するような人生を歩まなくても、堅実に家を継いでくれればよい、ハンディはあっても経済人としては大成できるし、苦労するような人生だけは歩ませたくない。音楽が好きならそれは趣味にすればいいではないか。清太郎の音楽修行に反対したのはもっともだった。

清七らを説得してくれたのは、母はつと姉さきだと言われている。[3] さきは当時33歳だが、小さい頃に本家に養子に入り、婿をとって室崎本家を支えていた。母と姉は、幼くして片足が不自由になった清太郎を不憫に思い、日ごろから目をかけてことであろう。

清太郎は「小学生時代にはもう琴をかきなら」す"鳴り物"好きで、尋常小学校を4年生で卒業する時、1等賞を受けるほど利発な子であった。中学時代には、自己流ながらもヴァイオリンやオルガンを弾いた。それに、曲を作って「音楽雑誌に投稿し、その曲が誌上に載る時の嬉しさに酔ったもの」だという。[4]その頃には、進路志望が「すっかり固まって音楽家になるのが当たりまえのように思い込んでいた」と琴月は記している。

母と姉はそんな清太郎の成長を見てきた。東京に出て成功するか失敗するかわからないが、子どもの挑戦を手助けしてやるのも親の責任でないか。失敗して帰ってきたら、その時こそ家の仕事を継がせればいいのでないか。そう考えたのではないだろうか。

琴月は61歳のとき「一生なおらぬ脱臼を"かえって幸いだった"と思えるようになった」と人生を振り返っている。文脈からは何歳のときにこの境地に達したのかは分からないが、物心もつかぬ幼児期に負ったハンディを、前に進む力にかえてきたのは間違いないようである。

[1]室崎信子編『この道一筋-五線紙と共にひたすら歩む』1991年、p98、「私の体験」1962年。

[2]前掲『この道一筋』、p11。

[3]前掲『この道一筋』、p98、「私の体験」1962年。

[4]前掲『この道一筋』、p94、「わが作曲の思い出」1969年。このほか、自転車にまつわるエピソードがある。明治33年、9歳のとき、高岡大火があり、姿が見えなくなったが、自転車で町はずれの親戚の家まで逃げていて、家族が感心したという。また、高岡中学校の同級生(9回卒)によると、自転車がまだ珍しい時代に同級生で初めて自転車通学したのが清太郎で、みんな羨ましく思ったものだという。富山県立高岡高校創立80周年『回顧録』1978年。(2012/08/05 15:44)(表紙写真は明治時代の山町筋)

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