第1章第2節 大衆児童雑誌が先導
音楽記者が批評と激励
国内最高のステージで、学校から選ばれた少女たちが唱歌を歌うというかつてない催し。帝劇『少女』音楽大会はどのように受け止められたのだろうか。
「時事新報」「東京朝日」「東京日日」「萬朝報」「国民」の各新聞が記事を載せている。時事新報社の主催事業を、他の新聞が取り上げること自体、注目の高さを裏付けるものであろう。このうち、音楽専門記者として知られた「都新聞」の白井嶺南(1871-1940、本名俊一)の批評を、少々長いが引用しよう。[1]
白井は、この音楽大会を単なる少女雑誌の愛読者大会としてでなく、音楽会としてとらえ、率直に批評した。大井冷光に寄せた私信では、惜しみない激励を送っている。
「楽界のため今回のお催しがどんなに益したことでしょう、そして楽界発展の為に、どんなに刺激を与えたことでしょう。多年斯界にたづさわって居る私、深く感謝に堪えません」
東京朝日新聞はこう書いている。
もうひとつ、専門雑誌『音楽界』の記事は、「非常な盛会を極めた」「各校生徒の唱歌の進歩は実に著しく見え」たとしたうえで、こう記している。
『音楽界』は音楽教育会の機関誌であり、編集局の代表は山本正夫が務めていた。琴月も会員である。『少女』音楽大会の第2部を段取りしたのが山本本人であり、自分の娘の美音子が出演していることも考え合わせると、この記事は多少割り引いて読まなければならない。
『都新聞』『東京朝日新聞』、そして『音楽界』の3つの評を総合すると、冷光が企画し琴月が深くかかわった『少女』音楽大会は、成功を収めたのは間違いなさそうである。「唱歌」が小学校の必修になったのは明治40年、ちょうど義務教育が6年になったときである。それから11年、大正時代半ばになって音楽教育が実を結びはじめ、ようやく子どもたちの音感が育ちつつあったということだろうか。
大井冷光の師である久留島武彦は「今度の会の成功は応用芸術運動上愉快な一問題として研究したい」と賛辞を送っている。
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[1]東儀鉄笛「近時の樂界」『読売新聞』明治41年2月23日によると、明治41年2月12日に音楽記者倶楽部の発会式があったとある。加藤庸三『日本音楽年鑑』(明治41年11月)、同『日本音楽沿革史』(明治42年3月)によると、明治41年4月に「音楽記者倶楽部成る」とある。
また、『音楽界』明治45年7月によると、明治45年6月2日に音楽記者倶楽部が設立されたとある。幹事は白井俊一(都新聞)茂呂正春(報知新聞)加藤庸三(東京日々新聞)。倶楽部員は、茂呂正春(報知)高野鎚太郎(やまと)黒田整一郎(二六)田中巌(日本)土岐善麿(讀賣)妹尾幸次郎(讀賣)足立恭三(時事)加藤長江(東京日日)白井俊一(都)若林嵐翠(中央)橋戸信(萬朝)鈴木秋風(國民)鎌田敬四郎(朝日)小松玉巌(音楽界)加川琴仙(月刊楽譜)瀧寅三(アドバタイザー)Sch〓der(アドバタイザー)Samson(ジャパンタイムズ) (2012/07/22 13:54)
宝塚少女歌劇と音楽会
帝国劇場は2011年、開場百周年を迎えた。その歴史の中で『少女』音楽大会は、期日と主催者など簡単な記録しか残されていない。
1966年に編纂された『帝劇の五十年』の主要興行年譜によると、明治44年開場から大正7年までの8年間で236の催しが行われたが、オペラや歌舞伎やシェイクスピア劇など超一流のステージ並ぶ。音楽会は25回で、東京フィルハーモニーの10回を除くと、ユンケル氏送別音楽会、音楽会「露国舞踊」、音楽会(カメオス楽団=イギリス)など外国人の関係する演奏会が目立つ。
帝劇で大正7年に最も話題になった公演は、宝塚少女歌劇の初の東京公演である。『少女』音楽大会の2週間前、5月26~30日に開かれた。大正3年4月に宝塚で初公演が行われて以来、関西で人気が年々高まり、東京への進出を果たしたのである。ミュージカルの殿堂といわれる帝劇にとって、宝塚少女歌劇の東京公演は歴史的意義をもつステージとして記録されている。
『少女』音楽大会は、この宝塚少女歌劇の華々しさの陰で後世の人には忘れられた感がある。「唱歌」と「歌劇」という違いや、出演者が学校から選ばれた唱歌が上手い10歳~12歳か、専門家の指導を受けた12歳~18歳かという違い、またそもそも興行と発表会という催しそのものの位置づけが違うのであろう。が、どちらも新聞で取り上げられたことをみると、おそらく当時は帝劇で相次いだ少女のステージとして注目を集めたにちがいない。子どもの音楽への関心は間違いなくこの大正7年前半には大きな盛り上がりを見せつつあった。
もう一つ、大正時代の帝劇の子どものステージといえば、大正8年6月22日に開かれた『赤い鳥』一周年記念音楽会が知られている。『赤い鳥』は大正7年7月1日に創刊し、最初は文芸運動として童謡運動を進めた。[1]音楽運動として展開したのは翌大正8年春からとされる。大正8年4月号で曲譜を募集し、大正8年5月号に西條八十作詞成田為三作曲の《かなりや》の曲譜が載ったころである。創刊一周年記念音楽会はまさに初めての童謡コンサートとして開かれるはずだった。
しかし、この音楽会は、当初「6月14日神田美土代町青年会館」の開催予定が場所も日時も変更になり、子どもの歌が最初の3曲、《かなりあ》《あわて床屋》《夏の鶯》の合唱だけでまさに前座となってしまった。なぜか山田耕作帰国記念として山田指揮の管弦楽を売りにしたほとんど大人向けの音楽会となったのである。[2]
子どもの音楽会という観点で見るなら、大正8年11月8日、本郷追分の青年会館で開かれた『大正幼年唱歌』発表演奏会の方がよほど子どもの歌の音楽会らしい。『大正幼年唱歌』は、のちに琴月が作曲する《夕日》の作詞家、葛原しげると、作曲家の小松耕輔・梁田貞が編纂した唱歌集で、音楽会には弘田龍太郎も協力していた。
ちなみに、『金の船』が『赤い鳥』を追いかけて有楽座でお伽大会を開いたのは大正9年2月15日である。また初の童謡歌手とされる本居みどりが《十五夜お月さん》(野口雨情作詞・本居長世作曲)を歌ったのは、大正9年11月27日に有楽座で開かれた新日本音楽大演奏会であり、このころには童謡は大きなブームになっている。さらに同年12月25日には、弘田龍太郎が「少女小曲と童謡の音楽会」を本郷追分の帝大キリスト教青年会館で開いている。弘田の音楽会は子供たちのために異例の入場無料であった。
こうしてみると、童謡・唱歌の本格的な音楽会が開かれ始めたのはこの大正7年から8年にかけてなのである。お伽話や劇などのお伽会や学校単位の学芸会など唱歌を盛り込んだ催しがすでに明治時代末から開かれていたのは確かだが、大規模なホールで開かれた子どもの音楽会としては、『少女』音楽大会が先駆けであったといえよう。[3]童謡運動が始まる1年ほど前に、子どもたちの歌への関心は相当高まっていた。
国内最高のステージである帝劇で、素人の少女たちが唱歌を披露するというのは、今の感覚でいうといかにも場違いな感じがする。しかし考え直してみると、現代は音楽をインターネットでダウンロードして自由に聴ける時代である。大正時代は、ハーモニカが普及した程度で大衆のための楽器がまだなく、音楽を演奏するのはもちろん聴くのもまだ不自由な時代である。蓄音機もまだ普及しておらず、ラジオ放送も大正14年までまたなければならなかった。子どもたちは、学校の唱歌の授業で音楽を習うが、家庭では音楽を聴くことも歌うことも演奏することも一般的ではなかった。子どもの音楽会そのものが珍しく、それは流行の先端にあった。帝劇は場違いではなかったのである。
『少女』音楽大会は、帝劇初の子どもによる子どものための子どもの音楽会としてもっと評価されていいのではないだろうか。
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帝国劇場で開かれた音楽会(明治44年~大正7年)
[1]『赤い鳥』の創刊は大正7年7月1日であるが、印刷納本は6月4日であるから、『少女』音楽大会のころには店先に並んでいた可能性が高い。
[2]出演した子どもは9人で寂しいものだったらしい。《あわて床屋》は、『赤い鳥』大正8年6月号の一般公募入選曲。『赤い鳥』はこの時点で紙面上まだ4曲しか曲が生まれていない。子どもが合唱すればいい歌は当時、既成曲がどれだけでもあったが、それを批判して創作曲にこだわっている以上、既成曲を歌わせることはできなかったにちがいない。この音楽会はもともと純粋な子どもの歌音楽会ではなく、雑誌創刊1周年の単なるイベントと見たほうがよい。山田耕作が絡んだ時点で、青年会館からランクを上げて帝劇に変わったのであろう。赤い鳥音楽会の経緯は、蔡芳男「『赤い鳥』と童謡音楽の成立」『教育学雑誌』(1972年)、WEB「池田小百合なっとく童謡・唱歌」を参照。
[3] 明治40年1月30日、神田青年会館でお伽倶楽部の「お伽音楽会」が開かれている。内容は不明だが、子どもの歌の音楽会としてはこれが先駆けになるかもしれない。(2012/07/27 22:06)
新しい愛読者大会への挑戦
『少女』音楽大会は、時事新報社が雑誌『少女』のいわゆる愛読者大会の一つとして開いた。他の児童雑誌も愛読者大会は開いていたが、国内最高の舞台である帝劇で開くまでではなかった。なぜ児童雑誌の一事業に、超一流ステージを使うことができたのだろうか。その答えは意外と難しくない。
帝国劇場は、財界の渋沢栄一や三菱の荘田平五郎、時事新報社長の福沢捨次郎ら民間経済人が発起人となり、諸外国の賓客を招くにふさわしい近代的劇場を目指してつくられた。日本が日清・日露の両戦争に勝利し、列強の仲間入りを謳歌していたころであった。明治39年10月の第1回発起人会には、福沢諭吉の次男である福沢捨次郎と、諭吉の二女と結婚した福沢桃介が名を連ねている。明治40年に株式会社が設立されると、福沢桃介が取締役に就き、後年帝劇会長にもなっている。
時事新報社の首脳陣が、帝劇の経営に参画していたからこそ帝劇で愛読者大会を開くことができたのである。
しかし、時事新報社は児童雑誌で後発であった。愛読者大会といえば、先行誌である博文館『少年世界』『少女世界』が早くから展開していた。読者との距離を縮め、読者を囲い込むための戦略として、まず大都市圏から開き、明治42年ごろからは地方巡回をしている。[1]
時事新報社の『少年』が第1回の愛読者大会を開いたのは明治43年、京橋区の新富座でである。翌44年からは毎年1回帝劇で開くのが通例になり、大正4年に国技館で3万人を集めた第5回を除いて、大正9年まで帝劇開催が確認されている。
帝劇は大正4年から家庭娯楽会という子供向けのステージを始めた。12月末のクリスマスと3月末の春休みに数日間開いたもので、お伽劇・お伽噺・活動写真・唱歌などを組み合わせた内容であった。『少年』『少女』は、そのうちの1日を読者に限定する形で愛読者大会を開いたり、家庭娯楽会の入場券の半額引換券を誌面に刷り込んだりしている。
そもそも帝劇の家庭娯楽会は、明治42年に始まった有楽座の子供日にならって、口演童話家の久留島武彦が帝劇の専務取締役、山本久三郎に提言したことに始まるという。久留島は山本と遠い遠戚関係にあり[2]、一方で『少年』『少女』の客員だった。帝劇と『少年』『少女』が密接な関係にあったのは、経営関係だけでなく、久留島のつながりもあったようである。
久留島武彦は、巌谷小波と並ぶ児童文学界の先駆者として知られる。明治39年9月に博文館の講話部主任となり、『少年世界』『少女世界』主筆の巌谷とともに地方を巡回して愛読者会で口演活動をしてきた。有楽座の子供日にも2人が深くかかわっている。久留島は、明治43年に雑誌『お伽倶楽部』を立ち上げてからは巌谷と距離を置き、さらに大正2年に時事新報の『少年』『少女』の客員となると、安倍季雄・大井冷光・松美佐雄らとともに地方巡回を積極的に展開した。
『少年』『少女』編集部は大正7年、それまでの愛読者大会とは違った新しい試みを企画した。それが6月16日の『少女』音楽大会であり、5月19日に開かれた『少年』主催の東京全市小学校選手雄弁会であった。帝劇の家庭娯楽会を流用する形で愛読者大会を開けば、編集部は当日のあいさつだけ済み、出し物については心配がいらない。『少女』音楽大会は、編集者にとって新たな挑戦であった。
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[1]もう一つの競合誌『日本少年』(実業之日本社)は明治44年3月5日、有楽座で第1回愛読者大会(誌友会)を開いている。
[2]冨田博之『日本児童演劇史』1976年、p110。(2012/07/28 19:53)
学校と家庭を結ぶ少女愛歌
『少女』編集主任の大井冷光は、この音楽大会をどんな狙いで企画したのか。少なくともそれは単なる読者獲得のためではない。
冷光は『少年』から『少女』に担当を代わってすぐこのように呼び掛けた。
この企画にはヒントがあったのではないかと考えられる。東京高等師範学校付属小学校唱歌研究部が大正5年4月と、大正6年4月から大正7年4月にかけて、2度行った児童歌曲嗜好調査である[1]。唱歌教育の現状を把握するために教員たちが学年別学期別に人気のある曲名を調べていた。冷光は雑誌編集のかたわら、学校の講演会などに講師として訪れ、教員たちと接する機会が多かったから、この調査を知っていたに違いない。少女愛歌という企画は、教員たちが行った専門的な調査を、分かりやすく雑誌の企画に仕立てたものといえる。
少女愛歌の募集は、投票でランキングを決めるようなものでなく、残念ながら結果の記録も残っていないから、児童歌曲嗜好調査と比較することはできない。
「少女愛歌」募集に対して読者の反響は大きく、10月28日までに応募は200通を超えた。『少女』の発売日は10月13~16日ごろとみられ、2週間で200通も来たことになる。「私はこれを見ていかにわが『少女』には真面目なる愛読者が多いかを喜ばずにはおられません。これはなお続いて同様に募集いたしまして、いづれ音楽家と相談の上で、何等かの方法で毎号誌上に掲げることにいたしましょう」と12月号の編集後記に書いている。
この相談した音楽家が、室崎琴月である。反響の大きさに手ごたえを感じた冷光は、琴月に人気曲を紹介する音楽コラムの連載を依頼する一方、紙面展開だけではない大きな企画を構想していた。それが少女愛歌を歌う音楽会である。
冷光は『少年』編集主任だった2年前に、歌を絡めた愛読者大会を企画し成功させていた。大正5年3月26日に帝劇で開いた第6回『少年』愛読者大会である。飛行機の先駆者で前年に国民飛行協会を創設した長岡外史陸軍中将(1858-1933)という人物に唱歌「飛行機」の作詞を依頼し、京橋泰明尋常小学校の教師で作曲家の後藤丞之輔に曲を付けてもらい、誌面に曲譜を載せておいた。そして大会当日、長岡氏と、当時社会の話題をさらっていた曲芸飛行士アート・スミス氏に会場に来てもらい、参加者全員でその唱歌を歌って盛りあげたのである。
「少女愛歌」への応募は順調に増えたようである。冷光は『少女』大正7年2月号の通信欄で琴月から「続いて少しでも多くの皆さまから同様の投稿をお願いして下さいと望まれ、また東京市内の小学校唱歌研究会の有志の方からも、『今後よい歌を作る上の参考になりますからどうぞ続いて』と望まれます」と綴り、少女音楽大会の企画が進んでいることを報告している。
「一体今日の少女達は学校でどんな唱歌を習っておらるるか、家庭ではどんな歌を喜んで歌わるるか、これを聴いておくことは現代の少女の気風を知る上に於いても大切なことである」と冷光は考えていた。
6月に大会を開くまでに集まった少女愛歌の数は千を超えたという。それを整理し専門家と相談して研究した結果を次のように記している。
この考えは、琴月が大正6年6月に立ち上げた東京家庭音楽会の目指している目標とほぼ一致している。冷光は、専門教育を受けた人たちの音楽会は他にもあるから、より身近な子どもたちの出演者を集めて音楽会を開こうと考えた。学校から出演者を推薦してもらうにはいろいろ苦労もあったようである。
琴月の協力を得て企画したこの音楽会にかける冷光の意気込みが、この文章から伝わってくる。
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[1]鈴木富三・沢崎真彦「初等教育における音楽教育の歴史的考察ー大正時代ー」『東京学芸大学紀要』第21集第5部門(1970)。
(2012/07/28 19:58)