第4章第8節 破天荒なる出版
補強のため綴じられた厚紙の仮表紙を開くと、カラフルな表紙が目に飛び込んでくる。今から100年以上前、明治時代後期の本なのかと疑いたくなるほどの色鮮やかさだ。富山県立図書館に保管されている大井冷光の著作『越中お伽噺』第一編は、貴重書扱いになっている。[1]発行日は明治42年5月23日。巌谷小波と久留島武彦が富山に講演にやって来たその日である。単なる偶然ではない。すべては冷光が仕組んだ記念出版なのである。文芸評論を数多く書いた高田浩雲はそれを破天荒だと評した。
今どきの言い回しをすれば、冷光は"サプライズ"が好きなのである。驚かせて楽しませることを無上の喜びとする。そういえばこんなことがあった。農学校を卒業し上京が決まったとき「革新の歌」をつくって後輩たちを驚かせた。井上江花の誕生日に紋付羽織で参上して驚かせた。茶目っ気がある人だったのだろう。
『越中お伽噺』を記念出版
巌谷と久留島が富山に来た当日、5月23日の『富山日報』3面には、「越中お伽噺生る」という小さな記事があり、「我社の大井冷光は本日来〓の巌谷小波山人の歓迎記念として『越中お伽噺』を出版せり」と紹介されている。しかし冷光の企てはこの記事だけでない。1面の新刊紹介に6誌が取り上げられ、そのうち3誌が『幼年の友』『少年』『日本少年』という児童雑誌である。この欄で児童雑誌が3冊一度に紹介されるのは初めてのことである。おそらく冷光が書いた記事であろう。巌谷や久留島の目に付くように考えたものか。
『越中お伽噺』第一編は、本編と付録合わせて37ページで、菊判の本である。
表紙に描かれているのは制服を着た2人の少年の後ろ姿。1人が脇に荷物を抱え、もう1人の肩掛け鞄の少年が肩を組んでいる。肩掛け鞄の少年は右手に筆らしきものを持っている。2人が眺める先には、緑の杉木立があり、さらに先には青い山並み。絵の上には、2人の天使が西洋風の意匠の看板を提げている。そこに楷書体の黒字で書かれているのは「走影の池 更々越」というタイトル。よく見ると手前の黄色部分には亀・蟹・桃というお伽噺のモチーフがあしらわれている。表紙全体を引き締めるように朱に近い赤色が囲むように使われ、カラフルな印象を強くしている。
その表紙をめくると、扉にまた驚かされる。赤色の四方囲みの飾り罫の中に赤色の字でこう書いてある。
8字、11字、7字、11字、8字の5行。中央の行の6文字「巖谷小波先生」の活字が大きい。左右対称を計算したかのような文字組みである。冷光は、恩師である井上江花がのちに回顧したように、巌谷小波の信奉者といっていいほど、熱烈な小波ファンだった。
さらにめくると序文である。これも同じ飾り罫のなかに赤色字である。全文引用する。
親友の美術学生がデザイン
特徴的なわ仮名は、巌谷小波が明治34年から使っていた発音式仮名づかいである。冷光は日頃、新聞記事では使わないのに、この本のためにわ仮名を採用した。
「走影の池」と「更々越」は今も語り継がれる富山の伝説である。『越中史料』などを参考にしたとみられる再話であるが、ここでは詳述しない。[2]付録の「長者屋敷」は、明治42年元旦に『富山日報』に掲載した創作お伽話「黄金の鶏」の改題である。
表紙の絵を書いた五島健三(1886-1946)は、農学校時代からの親友である。五島は明治40年3月に東京美術学校西洋画科を卒業し、おそらく1年間は研究科に在籍し、その後、明治43年に私立高輪中学校の教員となるまでは「自営」の身だった。[3]明治40年10月に上野公園で開かれた第1回文展(文部省美術展覧会)に《易者》を出品し入選、翌41年の第2回文展でも《煙草休み》で入選している。
前述したように、巌谷小波と久留島の富山来訪が告知されたのは4月初めだ。わずか1か月半の間に原稿を書き、五島に絵を依頼し、割り付けたのであろう。序文を記したのが5月18日、印刷が5月20日。3日前に完成したわけで、いかにも急ごしらえだ。「誤字や仮名の誤りも多く大へんマズくなりました」という一文。序文にいきなり懺悔するあたりが、無邪気というか、憎めない人柄がにじみでている。
冷光にとっては『立山案内』に続く第2作、出版元は同じ清明堂書店だった。おそらく同書店主人の福田栄太郎と協力して成し得たものだろう。
巌谷の編集手法を模倣
さて、当の巌谷小波は冷光の『越中お伽噺』第一編をどう見たのだろうか。北陸口演旅行の紀行文「初蝉日記」にこう記している。
この記述だけでは、巌谷がどう感じたのかまでは分からない。想像ではあるが、巌谷は感心半ば苦笑半ばだったのではないだろうか。
地方出版物である『越中お伽噺』は中央の出版物と比べ、紙質が薄い以外、ほとんど遜色ない。カラフルな表紙の絵だけみると、そのころ出版されていた児童図書や児童雑誌のなかでは高い水準と見てよかろう。『少國民』主筆だった竹内水彩が作ったというなら巌谷も得心しただろうが、それを地方記者2年目、23歳の若者が作ったのだから感心するしかないのでないか。
苦笑半ばといったのは、巌谷の仕事のあからさまな真似だったからである。単色刷りの飾り罫のなかに書かれた序文。本文とは別に付録として加えられた創作お伽噺。それは『世界お伽噺』などで巌谷が行ってきた編集手法と酷似している。第一編とあるのはこれからシリーズ化でもしようというのか、富山という地にはそんなたくさん昔話があるのか。そう考えると、思わず笑みが出てしまうような記念出版だったように思われる。
高田浩雲が異例の批評
冷光のこの出版を真正面から批評した人物がいた。明治37年に上京して前田夕暮や北原白秋らとも交流があった詩人・高田浩雲(本名庸将)である。当時は31歳で、富山に帰郷し『高岡新報』や『富山日報』で文芸評論を書いていた人物だ。[5]「越中お伽噺を読んで」と題した高田の評論は『富山日報』の明治42年6月9日と10日に2回に分けていずれも1面に掲載された。高田浩雲が1冊の本についてこのような書評を寄稿するのは異例のことである。長くなるができるだけ引用しよう。
ここまでが9日掲載分で、内容に関する評だ。高い評価といってよかろう。10日の掲載分は文章論で今度はなかなか厳しい指摘と激励が含まれている。
このあと高田は、漢語混じり表現や不消化な表現、文法上の不注意を具体的に指摘したうえで、冷光の側の事情にも理解を示している。
続編の発行は不明
冷光は『越中お伽噺』第一編に続いて2か月余り後、第二編を制作した。実物は富山県立図書館に1冊のみ保管されている。残念ながら表紙は散逸して存在しない。奥付によると、7月25日印刷。8月1日発行である。
注目されるのは口絵の写真だ。建物の前で巌谷と冷光が並んで立っている。おそらく5月23日か24日に富山市内で記念撮影したものであろう。細身で口髭をたくわえた紳士然とした巌谷に対して、冷光は洒落た洋装で少し緊張した面持ちである。[5]
第二編の本編は29ページで「佐伯有頼」と「コロリン爺」の2作品が収められている。巻末には予告として「第三編 〓〓三」「第四編〓池」が掲載されているが、残念ながら一部が切り取られていて文字は判別できない。第三編、第四編が実際に発行されたかどうかは確認されていない。
冷光はこのあと勢いに乗るように、明治42年11月3日の天長節に『越中昔噺』第一編を今度は中田書店から出版した。本編と付録を合わせて26ページで、菊判。実物は現在、富山県立図書館に1冊のみ所蔵されている。表紙は、タイトルの周囲に8つのお伽の図案をあしらってあり、五島健三が手がけた『越中お伽噺』第一編ほどの芸術性はない。装丁者は名が記されていないので冷光自身と推定されるが、定かではない。
『越中昔噺』第一編に収録されたのは「姉倉比売」という昔話一編と創作お伽噺「猿の望」(明治40年12月作)である。
付録の「猿の望」は明治40年12月の作で、『高岡新報』明治41年正月の紙面を飾った創作お伽噺「猿の御年始」の改題である。いくらか手直しをしているが、内容はほぼ同じだ。「お伽噺に初めて筆を染めた」と記したように、これが冷光の創作お伽噺第1作である。
天界通信の社告掲載
高田浩雲の批評が掲載されたあと、冷光は私立富山市教育会の児童博覧会を取材する。ちょうどそんなときだった。6月13日の『富山日報』に「今年の夏季」と題した社告が掲載された。「標高九千九百尺の立山山巓に富山日報接待所を設く、接待所には社員を駐在せしめて天界の消息を日々本社に通信せしむ」。これは今でいう夏山臨時支局の開設である。大井冷光はその駐在記者に命じられ、またもや破天荒な仕事を成し遂げることになる。
◇
[1]『越中お伽噺』第一編は現在、全国で富山県立図書館にある2冊のみである。1冊は貴重書、もう1冊も禁帯出だがこちらは傷みが激しい。貴重書の方は、昭和35年2月5日受け入れで「著者寄贈 凸凹庵昌保」とある。冷光が師と仰いだ医師であり史学家の窪美昌保が所蔵していたものであり、因縁を感じさせる。禁帯出の1冊は昭和30年1月25日受け入れとあるが、これは市立図書館から県立図書館への移管時期を指すとみられ、「福田栄太郎寄贈」とあることからさらに以前に寄贈された可能性が高い。福田栄太郎は出版者その人であり、これまた因縁を感じさせる。
[2]ちなみに『少國民』主筆だった竹内水彩(紅蓮)は明治34年10月、『少國民』誌上ですでに「走影の池」を紹介している。
[3]『東京美術学校一覧』明治41年-43年(1910年)
[4]冷光は『波葉篇』日記によると、16歳で身長154センチ。
[5]『富山県文学事典』(1992年)によれば、高田浩雲は明治39年に帰郷した。富山日報社への入社は明治43年3月11日で、同日付の2面に「入社の辞」が掲載されている。そして、大正4年5月16日付け紙面で、記者を辞めて商品陳列所に入ったことが記されている。(2013/04/20 23:00)