第5章第2節 立山奉幣使に同行取材
朝から時折雨が降った。天気さえよければ富山市街から仰ぎ見ることができる霊峰立山は、雲にさえぎられて見えない。明治42年7月23日、金曜日。いよいよ大井冷光が立山室堂に向かう日である。
地図上の直線距離は40キロ足らず。現代であれば、電車やバスを乗り継いで最短4時間余りで3003メートルの頂に立つことができる。明治時代は人力車を使って岩峅寺まで行き、あとは徒歩で2泊3日を要する旅であった。
午前8時、冷光は日除けの母衣という軽装で人力車に乗った。まもなく雨は本降りになった。ござと笠でしのぐ。「青田を渡る涼風の何となく胸昂ぶるを覚ゆ」。標高2450メートルの高所に新聞記者として1か月間も駐在するという前例のない挑戦がいよいよ始まる。
鼬川沿いの上滝街道を約9キロ、1時間ほど進んだところに西番の葡萄茶屋があった。10歳の時から3年半すごした伯母の家にほど近い。ここで奉幣使の一行と待ち合わせる予定だった。
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奉幣使とは神に幣帛をささげる使者のことである。立山の山開きは毎年7月20日ごろで、25日には山頂にある峰本社で神事を執り行う。明治17年に天皇の思し召しがあって以来25年間、富山県知事か知事代理が奉幣使をつとめる慣わしになっていた。
知事自らが山頂まで登った例はそう多くないらしい。6年前の明治36年、李家隆介という36歳の知事が登ったときは大変な話題になった。3紙の記者が同行し、競うように登山記を書いた。[1]その後、明治37年久保通猷警察部長、明治38年山村弁之助事務官(第二部部長)、明治39年石原磊三事務官、明治40年山村事務官、明治41年は中野有光警察部長が、林野視察なども兼ねてつとめていた。そして明治42年の奉幣使は事務官補で地方課長兼社寺兵事課長の石坂豊一(1874-1970、いしさか・とよかず)だった。[2]
葡萄茶屋で石坂を待つ間、冷光は第1信を短くしたため、その最後を「立山は深く雲のとばりを垂れつつあり」と結んだ。
23歳、知事に単独インタビュー
文学をこよなく愛する冷光はつい美文を書いてしまう。ここですこし横道にそれて冷光の文章について少し記しておきたい。
新聞記者を2年半つとめる間、冷光は「写生文」や「側面観」といった文章をよく書くようになった。これは、取材に基づいて得た事実を記録するいわゆるルポルタージュのようなものである。もちろん当時はまだそういう用語がない。冷光の師である高岡新報の井上江花は明治37年に、36年前に起きた「塚越ばんどり騒動」という農民運動を発掘して、証言をもとに記録したルポを書いた。また一方で人物を観察してユーモアを交えて紹介する文章も得意にした。冷光はその江花の影響を受けている。明治41年に高岡市でルポをいくつも書き、富山日報に移籍してから人物描写の文章にも冴えをみせるようになっていた。
立山に登る直前、冷光が書いた記事に「富山紳士の趣味」という44回の連載がある。裁判所長や銀行頭取、警察部長、学校長など44人に面会して趣味を聞くという企画だ。文中に自身を書き込むことによって面白く仕立てている。連載第32回の宇佐美勝夫知事『無趣味は僕の趣味なり』はその典型である。
23歳の記者が県知事に単独インタビューしたこと自体が驚きだが、それは元読売新聞記者として数々の武勇伝をもつ富山日報主筆の匹田鋭吉の指導があったからかもしれない。記事の内容は深みはないが興味深いので、要約して紹介しよう。
冷光が、知事への面会を求めて知事官房の職員に名刺を渡すと、まもなく名刺を持って職員が戻ってきた。名刺の裏には「無趣味は僕の趣味なり 勝夫」と書いてあった。なんとか交渉して知事室に入ると、40歳の宇佐美が微笑んで「まあかけ給え」という。冷光は1か月後に自分が担当する富山日報社立山接待所の話題から、知事は登山の経験があるかと尋ねた。宇佐美はあまりないとこたえ「とにかく日報社の今度の壮挙はもちろん、常に鼓吹される屋外趣味は越中人士に必要なことです」と語った。会話は徒歩談になり、部下にも徒歩趣味を勧めたいが、行啓の準備で忙しいので出来ないというところで終了となった。約束の5分間が、5分過ぎていた。
冷光は翌年2月に「県下名士の書生時代」という連載で再び宇佐美にインタビューした。禅問答のようなやり取りが再び繰り返されたらしく、記事ではやや冗談めかして、去年もてこずったが横柄で傲慢だ、と書いている。今で言うならブラックユーモアなのかもしれないが、物怖じしない性格がうかがいしれる逸話である。
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冷光が立山で記す天界通信は、実は半分以上が人物記事といってよいくらい、人を観察して人を書いている。室堂に到着するまで「登山途上より」を第6信まで綴ったのだが、「立山は深く雲のとばりを垂れつつあり」としたためた後は、得意の人物記事の連続となる。立山温泉の近くで耳のある蛇を見たという話好きの車夫、怪しい石ををめぐって欲張った話を持ちかける氏子総代、ござを脱ぎコート姿に早変わりする手品師のような奉幣使……。ここでは人物記事の内容について詳しく触れない。
地獄谷の湯、硫黄が枕!?
話を戻そう。西番の葡萄茶屋で1時間待っても奉幣使は来ない。冷光は先に進むことにした。雨があがり晴れ間がのぞいた。麓の上滝町に着き、郵便局で通信の打ち合わせをした。[3]
常願寺川にかかる長さ500メートルほどの新川橋を渡ると、そこは岩峅寺の集落だった。江戸時代には二十四僧房があったとされる立山信仰の村である。立山参拝は岩峅寺にある前立社壇から始まり、さらに奥にある芦峅寺の中宮祈願殿に参って、立山山頂の峯本社を目指す。3つの社を総称して雄山神社という。岩峅寺の村人たちは、明治時代の神仏分離によって、神官や山案内や荷担ぎで生計を立てていて、仲語と呼ばれる山案内人の事務所があった。[4]
岩峅寺で正午を過ぎ、冷光はようやく奉幣使の石坂の一行と落ち合うことができた。ここから先は人力車はなく徒歩である。約10キロメートル先にあるこの日の宿泊地、芦峅寺に着いたのは午後4時30分だった。
芦峅寺は標高320メートルにある150戸の村で、岩峅寺と並ぶ立山信仰の拠点だった。一行は佐伯永丸という家(宿坊「宝泉坊」)で旅装を解いた。小源太という神官の案内で中宮祈願殿に参り、飛鳥時代に立山を開山したという佐伯有頼が83歳で彫ったと伝わる木像を見せてもらった。
翌24日早朝、一行は芦峅寺を出発した。室堂まで約8里(約31km)、標高差2130メートルを一気に登る。[5]立山参拝でもっとも体力を消耗する一日だ。黄金坂・草生坂・材木坂を登り、高度を上げていった。午前9時30分、標高1000メートルを超えたあたり、ブナ坂の中腹にある女主人の茶店で休憩。伏拝みから称名ケ滝を展望し、12時過ぎ弘法茶屋に着いた。午後2時、弥陀ケ原を過ぎ、姥懐に入ろうというところ、一の谷にはまだ残雪があった。寒さを感じながらようやく午後4時50分、室堂に到着した。冷光は途中で通信を書いたりスケッチをしたりしたため、石坂より1時間遅れだった。「登山途上から」最終第6信は次のように結ばれる。
地獄谷の湯に浸かったというから、この時代、立山登拝は宗教色が薄まっていたのであろう。それにしても硫黄を枕に湯舟に浸かるとは驚くばかりだ。平成24年から地獄谷は有毒ガスの恐れがあるとして立ち入り禁止である。
このあと翌7月25日からいよいよ天界通信の本編「天の一方より」の執筆が始まる。室堂と富山市街とは2日の行程であるから、下界での紙面掲載は3日遅れとなる。
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[1]匹田鋭吉が記した「立山みやげ」(9)『富山日報』明治42年8月21日3面によると、李家知事が帰路、立山温泉周辺を視察して砂防工事の必要性を認めたのが、現在も続く立山砂防工事の始まりだという。
[2]事務官補は、知事の下にいる事務官3人に次ぐポストで、明治42年に新設された当時は1人のみである。石坂豊一はのちに政治家に転身し富山市長や参議院議員をつとめる人物だが、2年前に中新川郡書記から抜擢されて県に入庁し、このとき35歳。実は前年の明治41年、着任1年目の県知事・宇佐美勝夫が奉幣使となり、それに石坂が随行する予定だった。しかし、明治42年秋に行われる東宮行啓の準備で宇佐美が忙しくなり5日前に断念、中野有光警察部長が代理となったため、石坂の立山登山もなくなっていた。そうしたいきさつがあってか、この年は地方課長兼社寺兵事課長だった石坂に奉幣使の任務が回ってきたのである。「立山奉幣使変更」『富山日報』明治41年7月21日2面。「奉幣使の立山談」同7月30日3面。立山奉幣使関係の記事は、『北陸政論』明治37年7月29日2面、『北陸政報』明治38年7月29日2面、同39年7月29日3面、同40年7月30日3面なども参照。
山村事務官は登山に関心が強かったからか2度の奉幣使以外に明治39年8月に立山温泉~浄土山~室堂~雄山~地獄谷~伊折を踏破し、その際同行した高松覚太郎県属は雄山山頂で写真撮影をしたという(『北陸政報』明治38年7月28日2面)。この記事では、雄山山頂での写真撮影は初めてとあるが、明治36年の奉幣使に写真師の中林喜三郎が同行し山頂で記念写真を撮影しているので、誤りとみられる。
[3]上滝町から道は2つに分かれる。常願寺川右岸の岩峅寺に進み材木坂・美女平を経て弥陀ヶ原追分へ向かう古来の登拝道と、常願寺川左岸を行き立山温泉を経由して松尾峠越えで弥陀ヶ原追分に至るルートである。剱岳登頂を果たした陸地測量部の登山では立山温泉経由の道が使われている。
[4]仲語とは、登拝者の荷を担ぎ、立山開山の縁起や由緒などを語り聞かせながら登山道を案内する職である。明治時代は鑑札制度になっていて、芦峅寺80人、岩峅寺宮路40人、上滝30人の合わせて150人の鑑札が交付されていた。実際、明治42年の仲語を務めた者は芦峅寺30人、岩峅寺20人、上滝18人の68人だったという。
[5]冷光は芦峅寺を出発した時間を記していないが、ブナ坂中腹あたりで午前7時40分と記している。芦峅寺を出たのが午前5時とすれば、出発から推定約12時間、約8里(約31km)の行程であった。藤田久信「登嶽の記」明治36年では、芦峅寺から14時間強、9里半(約37km)の行程と記している。冷光の『天の一方より』によると、距離は昔から藤橋-室堂で約6里(23.6km)と言われていて、芦峅寺-室堂では約7里(27.5km)となる。しかし正確に測られたことはなく、明治42年、大坂大林区署の御領勲が藤橋-室堂を実測したという。その結果は「わずかに四里十丁(16.8km)くらいしかなさそう」ということで芦峅寺-室堂は5里余り(20km)となるが、正確な数字は結局記されていない。県の社寺課長で奉幣使だった石坂豊一は、「芦峅から立山までは我々の実験に依れば約7里位なるべし」と語り、氏子(仲語)のなかに里程を遠く吹聴するものがいると指摘している。「奉幣使の土産談」『富山日報』明治42年7月28日。(2013/06/06 22:30)
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