【書評】オルガ・トカルチュク・ヨアンナ・コンセホ『迷子の魂』@まがり書房
先日大阪府池田市の「まがり書房」に立ち寄った時のことだ。親しくしている店主が、わたしの姿を認めるや、おもむろに店頭で販売していた絵本をわたしのほうへと持ってきた。
「そういえば、こんな本が届きましてね」
そう言いながら、店主はその絵本をわたしに手渡す。『迷子の魂』と書かれたその絵本は、おばあちゃんの家の屋根裏部屋に眠っている古びたアルバムのように、全体にセピア色がかっていて、観る者の心をぐっと惹きつけた。緑色の帯には、「魂が動くスピードは、身体よりもずっと遅いのです」という印象的な一言が記されている。鉛筆と色鉛筆で書かれた、写実的で温かみのある、けれどどこか淋し気な絵。表紙を開くと、色褪せた壁紙のような内表紙に、剥がれかけた写真が描かれている。そのリアルさは、思わず指で写真の絵の縁をなぞって、それが本物かどうか確かめてしまったほどだ。間に挟まれた解説の紙も、大昔に書かれた手紙のように色褪せて端が擦り切れたようなデザインになっている。なんて丁寧に作られた絵本だろう、とわたしは思った。
「作者は誰だと思います?」
そういって店主は表紙に書かれた著者名を示した。オルガ・トカルチュク。2019年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの著名な作家だ。チェコとドイツの文学を専門としているわたしは、ずいぶん昔に彼女の長編小説『昼の家、夜の家』を読んでいた。数十の断片的な物語をつなぎ合わせてチェコ、ポーランド、ドイツの国境地帯の歴史を多層的に描いたその小説は、様々な解釈を読者に許しながら、ヨーロッパの国境地帯を満たす謎めいた雰囲気を生々しく描き出すモザイク画のような作品で、強い印象を残した。また、彼女の代表作『逃走派』では、旅がテーマにすえられており、ポーランドやニュージーランド、モスクワなど様々な地域を舞台にする物語が同時並行的に語られている。飛行機で頻繁に旅行することが可能になった現代の世界を巧みに映し出した小説だった(パンデミックに陥った2021年に読み返すと、当時リアルに感じられていたそれが虚構じみて見えるから不思議なものだ)。
『迷子の魂』は、作家トカルチュクが初めて手がけた絵本だという。彼女が作った物語に、絵本作家ヨアンナ・コンセホが絵をつけててきたのが、この絵本だ。芸術性の高い絵本作家に贈られるボローニャ・ラガッツィ賞も受賞している。
この物語の主人公は、忙しい日々を送っているうちに、ある日自分が何者なのかわからなくなってしまう。旅券を確認するまで自分がヤンという名前であることも忘れてしまっていたほどだ。ある賢い老医者は、彼に、「魂を失ってしまっている」という診断を下す。そして、魂が自分に追いつくまで待つようにと告げる。「魂が動くスピードは、身体よりもずっと遅いのです」と。こうしてヤンは田舎にコテージを借りて、迷子になった自分の魂を何年も何年も待つのである。ヤンが迷子の魂を待つシーンに入ると言葉は途切れ、展開は完全に絵にゆだねられる。ページをひとつめくる度に、迷子の魂は少しずつヤンに近づいてゆき、ヤンの世界は少しずつ彩りを取り戻してゆく。早くヤンのもとに辿り着いてほしい、という思いを抑えて、わたしは、迷子の魂の歩みに寄り添おうとできるだけゆっくりとページをめくる。ページをめくり、新しく表れた絵に見入る、その一瞬一瞬が尊く愛おしいものに感じられるような絵本である。
この物語で大切なのは、ヤンは、現代社会においてはごく普通の人間だということだ。決して人より特別忙しいとか、特別不幸だというわけではない。日々みんなと同じように仕事をして、問題なく日常生活を送り、趣味も充実している。けれども彼はずっと自分の人生に味気なさを抱いている。自分の魂を失ってしまうほどに。現代社会においては、ヤンのように魂を失って生きている人が大多数だと思う。パソコンにスマホにSNS、現代は何事もスピーディで、信号待ちの数分までもがじれったく感じられるくらいだ。祖父母世代が会社の会議日程を決めるためにはがきでやり取りをしていたと聞いて、わたしたちは驚かずにはいられない。わたしたちが生きる世界では、あらゆる待ち時間が無駄だとみなされる。ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる灰色の男たちの思うつぼだ。
けれども待つことは本当に無駄なことなのだろうか? さっきはがきの話が出てきたが、わたしは今でもあえて友人とはがきのやり取りをする。普段はメールやSNSでやり取りをしている友人ともだ。国内では数日、海外となると、相手の家のポストに投函されるまでに2週間くらいはかかる。それは決してスムーズなやり取りではない。けれども、はがきを選ぶ時間や、あれこれメッセージを考える時間、そして、相手にはがきが届くのを、あるいは、相手から返事が届くのを待つ時間。これらには、利便性やスピードには代えがたい価値がある。贅沢品が往々にして無駄で非実用的なものであるように、待つという行為は、それ自体が豊かさでもあるのだ。
『迷子の魂』は、何もせずにただ待つことの重要性を、わたしたちに教えてくれる。「時間の無駄」に厳しい時代であるからだからこそ、広く読まれてほしい絵本である。
今回紹介したオルガ・トカルチュク 文/ヨアンナ・コンセホ 絵『迷子の魂』はこちら。
『迷子の魂』を購入した大阪府池田市の「まがり書房」はこちら。
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