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日中戦争を目撃したドイツ語作家――エゴン・エルヴィン・キッシュ『秘密の中国』(2)

 先月末に紹介した、プラハ生まれのユダヤ系ドイツ人ジャーナリスト、エゴン・エルヴィン・キッシュのルポルタージュ紹介の第2回目です。

 今回は、前回に引き続き、『中国 秘められた国』に収録されている「『人力車!』『人力車!』」を訳出しました。1930年代の上海の車夫が置かれていた劣悪な労働環境を鋭く描き出した非常にセンセーショナルなルポルタージュです。
 キッシュは熱狂的な共産主義者としても知られています。1919年にはオーストリア共産党に、1925年にはドイツ共産党に入党し、ソ連にも何度も足を運んでいます。中国に足を踏み入れる直前も、彼はソ連からの招待を受けて現在のウクライナにあるハリコフという町でジャーナリズムの授業を受け持っていました。また、彼は取材旅行に際して必ずといっていいほど工場や農場に足を運び、労働者が置かれている労働環境を書き留めています。
 「共産主義者」という言葉は、現在では手垢にまみれた扱いの難しい用語となっています。わたしとしては、キッシュは共産主義者である前にヒューマニストであったと言った方が、彼をよく理解できるのではないかと思います。一部の人間の豊かさのために誰かが非人間的な環境で酷使されているという状況に純粋に心を痛め、「それはおかしい!」と叫び続ける。こうした非常に人間的な彼の姿勢が、当時の社会において共産主義という思想に結び付いたと言うべきでしょう。
 「『人力車!』『人力車!』」でもキッシュは、当時の中国社会の最底辺にある車夫にフォーカスを当てながら、資本主義が生み出した社会の歪みや列強諸国と中国の不均衡な関係を巧みに描き出してゆきます。ジョークを交えたその軽妙な語り口は、時にグロテスクにすら感じられるほどです。

 ちなみに、車夫を扱ったものとしては、『朝鮮短篇小説選〈上〉』に収録された玄鎮健の短編小説「運の良い日」も非常に優れた作品です。「『人力車!』『人力車!』」を訳しながら、何度もこの作品のことが頭をよぎりました。残念ながら絶版となっていますが、古書でなら手に入りますので、もし関心がおありでしたら読んでみてください。


「人力車!」「人力車!」


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