鍵とペヤングと私
疲労が蓄積すると、身体の弱いところに支障をきたすと聞くけれど。
私の場合、17歳の時に腰を傷めて以来、疲れがたまると腰痛を発症するようになった。
初めて腰を傷めたのは、高校のスキー合宿に行く前日だったので、激痛も参加できない悔しさも、昨日のことのように記憶している。
以来、気を付けてはいるのだけれど、痛みがおさまると腰の時限爆弾のことなどすっからかんと忘れ、無理がたたって再発。
その繰り返しで、30年近くの年月が流れた。
学習しない私は、またしても腰をグギッとやってしまい、美容院の予約をキャンセルしたのが、先月半ばのことだった。
かなり苦しんだけれど、半月が経ち、痛みも違和感もなくなったので、予約を取り直し美容院に行ってきたのが昨日の話。
担当の美容師さんに綺麗にしていただき、ご機嫌さんでお店を後にした。
その後ドラッグストアを徒歩で何軒かハシゴし、お目当ての整髪料を買い、駐輪場に停めておいた自転車を迎えに行った。
駐輪番号を押しロックを解除して愛車の前まで行き、鍵を入れていたバッグのポケットを探ったが、出てこない。
──あれ?ここじゃなかったかな?
他のポケットを探すも見つからず。
──まさか、落とした?
焦りながらバッグの中身を全て出してみたのだけれど、どうしても見つからない。
念のため、美容院へ電話を入れてみたが、鍵の落とし物はないとのこと。
──ドラッグストアのハシゴしてる途中で、どこかに落としたに違いない…。
しばし考え、駐輪場から300メートルほど離れた場所にある、駅前の交番を訪ねることに。
「どうされましたか~?」
やる気なさそうに出てきて応対してくれたのは、特徴的な四角い顔をした、若いお巡りさんだった。
「自転車の鍵を落としてしまったようなのですが、届いていませんか?」
「失くしたのは今日?今日は届いてませんね」
ろくに調べもせずに冷たい口調でそう言われ、
「では、自転車の鍵を壊していただくことはできますか?なんとか乗って帰りたいので」
「身分証があればできるけど。で、自転車はどこにあるの?」
「何しろ鍵がないので、駐輪場に置いて来ました」
「それじゃ壊せないよ!ここまで持ってきて!」
お巡りさんはそう言って交番の中に戻りかけたので、慌てて引き留め、
「あの、ここまで300メートルくらいあってですね、重くて運べそうにないのです」
「やってみなきゃ分からないじゃない!サドルを掴んで後輪持ち上げれば動かせるでしょ!」
「それが腰をちょっと傷めてまして、無理だと思うのです」
そのように正直に事情を話してみたけれど、
「自転車に乗れるくらい元気なんだから、とにかくここまで持ってきてください。僕も暇じゃないんで!」
決して楽をしたかったわけではなく、不安定な腰の状態で、300メートル先の交番まで運ぶ自信がなかったのだ。
しかし、四角い顔のお巡りさんは容赦なく、運んできなさい、と。
「分かりました。やってみます」
そう言って、駐輪場にとって返した。
──これがもし、華奢で可愛い若い女の子のお願いだったら、きっと駐輪場まで来てくれるんだろな…。
などと、オバさんのひがみ根性丸出しなことを考えながら、試しにサドルに手を掛けて、後輪を浮かせてみた。
想像以上に重たく、果たして交番まで運べるか怪しかったけれど。
──また運んで来いと言われるのがオチよね…。
ため息を一つ吐き、腰をかばいつつ、重たい自転車を何度も休み休みしながら運んでいる途中で、腰に違和感を感じた。
──ヤバイ!
サドルに掛けていた手を思わず離したのは、道幅が広い割に信号のない横断歩道の、ちょうど真ん中あたりだった。
クラクションを激しく鳴らされ、ドライバーに頭を下げて、横断歩道を何とか渡りきり、息も絶え絶え、ようやく交番までたどり着いた。
邪魔にならないよう、自転車を交番の脇に寄せて停め、
「あの~、持ってきました」
と声を掛けたものの、四角い顔のお巡りさんは、にこりともせず、
「やっぱり持って来られるんじゃない!」
──なに言っちゃってんの?やっとのことで運んできたのに!
お巡りさんに罵詈雑言を浴びせかけたいくらいの勢いだったけれど、そもそも鍵を失くした自分がいけないのだと考え、グッと飲み込んだ。
「防犯登録の確認するから、身分証を見せて!」
──なぜこの四角い顔のペヤングみたいなお巡りさんは、こんなに威圧的なのだろう…?
そんなことを考えつつ、マイナンバーカードを差し出した。
確認が取れると、お巡りさんは交番の奥から、カニのハサミがとてつもなく大きくなったような道具を持ってきて、あっさり鍵を切ってくれた。
「なるべく早く、新しい鍵を付けて!」
最後まで威圧的にそう言われ、心の中で「このペヤングめ!」と悪態をつきつつも、
「ありがとうございました。そうします」
小心者の私は、そのようにお礼を述べて交番を後にしたのだった。
帰宅すると案の定、腰の辺りが嫌な感じになり、鍵を失くした己を呪いつつ自室に戻り、腰をかばいながら部屋着に着替えた。
バッグの中から財布を取り出し、そろそろとベッドに腰を下ろして、スマートフォンのお小遣い帳アプリに、今日の支出を入力しようとしたのだけれど。
あれほど探し求めていた自転車の鍵が、なんと財布の中から出てきたのだ。
その瞬間、私の心はパッキリと音を立てて折れた。
兎にも角にも、鍵のかかった動かない自転車は、ただの重たい荷物に他ならないということを、身をもって感じた一日となったのである。