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ぼやき No.00

高校生や大学生の頃、ままならなさをただ記す、起承転結も何もない「ぼやき」というものをmixiに書いていた。

熟成させることで旨味をもっていく文章もあれば、そのまま腐敗していく言葉もある。自分に100%の時間を割く人生ではなくなってきたこともあり、なんとなく、ぼやきの更新をもう一度始めてみたいなと思って筆をとっている。

更新は不定期になるかもしれないし、内容もバラバラになると思う。とりとめのなさをそのままに垂れ流すというある種のリハビリみたいなものになったら嬉しい。思ったことを書くということを大事にしたいのでスマホから打ち込むこともあるかもしれないし、話は一貫性があるとも限らない。結論なく突然終わるばかりになるかもしれない。まさに散文を書き留めていくというようなイメージ。

思いつきの企画みたいなものもやるかもしれない。
今やってみたいなとぼんやり思っているのは交換日記的な、往復書簡的なものかなぁ。

言葉を書くには一定の空白みたいなものが必要な気がしているのだけれど、この夏はずっとその空白が持てずにいたような感覚だった。ベトナムとタイに行ったのはその意味では良かったはずだけれど、実際結構仕事が詰まっている時でもあったので普通に作業していたし、それらが少し落ち着いてきた今の方がまだ空白があるようにさえ感じている。これは気候的なこともあるのかもしれない。若干涼しくなってきたことで身体的・体力的な余裕が生まれてきた感じはする。

人生の中に空白があることを怖いと思う人もいるらしいけれど、私はもっともっと空白が欲しいなと思う。意識的な空白と無意識的な空白ではまた感覚が異なるはずで、私自身ももっと有意的に探せば日常に空白は見つけられるような気もする。実際、何もしていないような時間は多い。

けれどこの空白が、生存のために必要なバランスを取るための空白であることも多い。植物が佇んでいる姿と似たような空白というとイメージが合うだろうか。そんな感じの空白が、多分私は人より多く必要なタイプの生き物なんだと思う。
だから空白を確保する必要が人より多くて、それ以上に意識的(無意識的?)な空白を生み出したいと思うと人生のほとんどが空白になってしまうのかもしれない。それでも全然構わないと思うけれど、社会的な生き物として存在する以上は、そうもいかないのだろうなとは思う。

人は肩書によってみられ方が変わる。大学時代に読んだ「私とは何か 「個人」から「分人」へ」という本に出てきた「分人」という発想は確かに納得感があった。これは肩書に限らず人間には色々な面があるし色々な関係性の中で顔が異なるよね的な話だったと思うけれど、肩書はすごくわかりやすいそのひとつだろうし、「変えられる」という意味でも特殊なものだなと思う。肩書なんていらないのにと思う自分もいれば、それがある方が生きやすいしいいよねと思う自分もいる。だけどそれも社会を前提として考えているから、というような気もする。本当に必要なものとそうでもないものを仕分けするとき、前提とする基準に何を置くかは結構重要だろう。私はその時に何を置けるだろうか、置きたいだろうか。

どんなに小さな部屋でも、窓から差し込む光が生み出す陰影は美しい。そういう小さなものごとを噛み締められる生き方ができたらそれが一番嬉しい気もする。

ご飯を作らなければならないので今日はこの辺で。またいつか。

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なかにし(nia)
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