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『八月の光』 〜記憶はわたしたちの軌跡
こんばんは、ことろです。
今回は『八月の光』という本を紹介したいと思います。
『八月の光』は、著・朽木祥(くつき しょう)、カバー像・伊津野雄二(いつの ゆうじ)の戦争についての短編集です。
物語は三つあり、それぞれ主人公が違いますが、みなヒロシマでの原爆を体験し生き延びた少年少女です。
著者紹介によると、著者も広島出身で被爆二世なのだそうです。
1.雛の顔
主人公は昭子(あきこ)。女学校に通っている。
その日は、母・真知子が今日は勤労奉仕に行かないというので、朝から橘川さん家に母が行けないことを伝えてから女学校へ向かわなければいけなかった。
一級上の道子さんといつも女学校へ行っているのだが、待ち合わせ場所まで行くのに遅くなってしまって、二人はあわてて駅まで向かった。
思ったより早く着いて、なんやいつもより早う着いてしもうたなあと二人して笑って、暑くて汗も出ていた昭子は水を飲もうと板塀前の蛇口にかがみこんだところで、爆弾が落とされた。
昭子も道子も無事だったが、昭子は線路のほうまで吹き飛ばされた。
道子に声をかけられ、一緒に逃げる昭子。
川沿いの土手道をよろよろ歩いていると、まるで幽霊のように歩く人々が出てきて、それはみな一様に焼けただれた姿だったのだが、昭子はあまりの光景に自分の目がおかしくなったのではないかと思うほどだった。
土手を歩き通して、昭子たちが川向こうの山裾にある小学校にたどり着いたときには、すでに大勢の人が講堂に寝かされていた。
道子にうながされて講堂の端に座っていると、どのくらい時間が経ったのか、道子の母親が道子を探しに大八車(だいはちぐるま)を曳いてやってきた。昭子は自分の母親について尋ねたが知らないという。しかし、道子と一緒に連れ帰ってあげるから安心してと言われ、昭子は家に帰ることができた。
家では祖母であるタツが出迎えてくれた。しかし、母・真知子の姿はない。
家の建物は、竹林に守られてほとんど無事だった。
母屋の裏手には広い納屋があったので、そこへ近くの中学生が次々と運び込まれた。みな助からないだろうとのことだったが、祖母はきゅうりをすりつぶして傷口にあてた。
昭子は急激な眠気に襲われて、しばらく眠った。
母は生きていたが、橘川さんを探しに焼け山に行ってから、様子がおかしくなった。腕に青黒いあざがいくつも浮かんでいる。医者は、真知子の腕を見るなり、首を横に振った。
あの日一緒に橘川さんを探しに行った橘川のおじいさんとおばあさんも同じように青痣を出して亡くなった。市内でピカの毒を拾ったんじゃと噂されていた。
新型爆弾が人を焼くだけでなく、しばらく毒を撒き散らすらしいということを全く知らなかったタツは、真知子がどんどん弱っていく様を見て申し訳ないと泣いた。探しにいくように言ったのはタツだったからだ。
裏の竹林で焼いた人の数は、二百を超えた。
もう泣いているものはいなかった。死体を井桁に組んで、黙々と焼き、かたづけた。
竹林から煙が上がらなくなった頃には、秋が深くなっていた。
やっと普通に動けるようになった昭子は、人気のないことに気づいて庭に出て母屋をぐるっと回った。すると、崩れた土蔵の壁からお雛さんが出てきた。
黒い雨がお雛さんの顔を汚していた。きれいだった鼻も欠けていた。
昭子は、今まで出会ったすべての犠牲者を思って泣いた。
次から次へと見てきた光景が頭に浮かんでは消えた。おぞましい光景だった。
そして、自由気ままでもとおらん(役に立たない)けれども、まだ若くて美しかった母のために泣いた。
だれかに呼ばれた気がしてふりかえると、あの日よりなお青い、澄み渡った空が竹林の上に広がっていた。
竹林からは、もう煙は上がっていない。
昭子は、お雛さんを胸に、竹林に向かって歩いていった。
2.石の記憶
主人公は、光子(みつこ)。去年の夏に父を亡くした。
母と一緒に仕立て物で生計を立てていた。
戦争になっても疎開しなかったのは、身寄りがないのもそうなのだが、父がひょっとしたら生きていて、ひょっこり帰ってくるかもしれないと、家を守らなくてはと考えたからだった。
それに、この市にはほとんど空襲がなく、よそから疎開しに来る人もいるくらいだった。陸軍の大本営もある大きな市なのに、これまでの静けさはいっそ不気味でもあり奇怪なことでもあった。
それでも、しばらくするとこの市にも銀色の飛行機がぽつぽつと飛来するようになった。
そして、七月も終わり近くのある日のこと、郵便局で母・テルノはこの市にも恐ろしい攻撃が仕掛けられるらしいという嫌な噂を聞いた。
月が変わってすぐ、石丸さん家の重治くんがあるビラを拾ってきた。そこには、背中に火がついた人の絵が描かれてあり、子どもが書いたような字で「にげなさい、にげなさい」とあった。
テルノは、疎開しようと決意した。山を越えた先には、大きな農家に嫁いだ友人がいた。下宿代を払って納屋にでも置いてもらい、仕立て物の注文をとって生活していこうと考えた。思いきって電話してみたら、下宿ならなんとかなるという返事だった。
光子は、お父ちゃんはどうするんと言ったが、わたしらの命が切れたらお父ちゃんを迎えられんやろうと真剣な顔で言われ、黙った。戦争が終わったらすぐ帰ってこようと約束して、しぶしぶ了承することにした。
「月曜日に、銀行でお金を出してくるね。七日の火曜日には発とう」
それが、テルノの最期になってしまった。
翌日、光子は仕立て物を届けるために身支度を整えているときに、爆弾が落とされた。古い借家はひとたまりもなく引き倒されたが、倒れた箪笥(たんす)とちゃぶ台がつくった隙間にすっぽりはまって、光子は運良く助かった。
家から這い出て、火の手が上がる前に逃げろという声が聞こえ、須賀のおばさんに手を取られ須賀一家と川土手の手前の草原に逃げた。
あたりは不気味な暗さだった。
やがて、灰色の空気が明るんできたとき、すさまじい姿の群れが現れた。
市の中心地から逃げてきたらしい、人であって人ではない者の群れ。
完全な人の形をしているものは、ひとりとしていなかった。
光子が須賀さんたちについて家に帰ったのは、次の日の昼前のことである。
もし母の方が先に帰ってきていたらどんなにか心配しただろうと思ったが、母の姿はなかった。
爆弾が落とされて三日後、光子は銀行があったとおぼしき場所までひたすらに歩いた。
ようやく銀行にたどり着いたときには、日はもう高かった。
光子の記憶にある銀行は立派で重々しい石造りの建物だったが、見る影もなかった。わずかに形をとどめているのは一方の壁と石段だけである。
まわりの建物もすっかり焼けて、向かいにあったはずのハイカラな教会も、煉瓦のかけらからそれと判断できるだけだった。
母は、どこに行ってしまったのだろう。
通りかかった兵士に事情を話したものの、自分がここに来たときにはもう片付けられていたからと目ぼしい答えは得られなかった。ただ、ここにいたとしたら即死だっただろうということと、河原で焼却されるのを待っているたくさんの死体があることを教えてくれた。
翌日も、光子は母を探しに出かけた。
すると、槙田のおばあさんと行き合い、こう言ったのである。
「やっぱり、あれはテルノさんじゃった」
あの日の朝、銀行の石段に腰掛け、物思いにふけっているところを見たと言うのだ。
きっと早く行きすぎてまだ銀行が開いてなかったのだろう。
光子は、急いで銀行まで向かった。
石段はまるで洗われたように白かった。
正面の、ひさしがかぶさっていたらしいところだけが、わずかに黒い。
さえぎるものがあったところだけ、もとのまま黒いのだ。
そう思い当たった刹那、黒いちいさな影を見つけた。
やせて小柄な、母のかたちの影だった。
母の影が、石段に腰掛けている。
光子は石段をさすった。何度も何度もさすった。
夏の夕方、石段はまだほのかに温かかった。
ほっぺたをくっつけると、母の膝で昼寝した縁側にいるような気がした。
それとも、沖から戻ってくる父を母とふたりで待っていた、あの浜辺に座っているような気もした。
しばらく、光子はそのままでいた。
やがて日が落ち、石段がひんやりしてきて、その影も闇にのまれてしまった。
3.水の緘黙(かんもく)
ぼくは、あの日から自分が誰なのか思い出せずにいた。
覚えているのは、自分が見捨てた人々の姿だけだった。
母子、老婆、少年ーー焼かれて影になりはてた人々の姿。
僕のことを知る人もいなかった。思い出すことのできる人もいなかった。
僕は自分の名前を忘れたまま毎日をやり過ごし、ときどきふりかえって、確かめた。
影たちは、いつでもそこにいた。
えぐられたうつろな眼窩(がんか)のまま。焼けただれた姿のままで。
焼け跡には、新しい町が現れはじめていた。闇市を歩けば、みにくい引き攣れを隠しもせずに行き来する人たちがいた。
そんな人たちを、僕はびくびくと避けた。市場の売り子のシャツの下から、攣れた痕がのぞいているのを見ると、すぐにきびすを返した。
身寄りのない大人は、ありとあらゆることをして生き延びた。身寄りのない子どもも、ありとあらゆることをしたが、生き延びることができた者は少なかった。いつの間にか行方が知れなくなり、生きていた印さえ、かき消えた。
大人でもない子どもでもない僕は、生きているのか死んでいるのか。
川のほとりでは、生き延びた人びとがお互いによく知ることもなく暮らしていた。
僕もそのひとりだった。ふらふらと歩き回ったあとは、たいてい川のほとりに帰っていって、死んだように眠った。
ある日のことだった。どこからか、かすかにオルガンの音色が聞こえてきた。
僕は導かれるように教会へと入っていった。
オルガンを弾いているのは若い娘さんだった。脇にはもうひとり娘さんがいて、僕が開けた扉から入る光をまぶしそうに見ている。
僕がすぐにその場から逃げ出さなかったのは、かすかな沈黙のあと、また音楽がはじまったからだった。
僕はそのオルガンの音を滲み入るように聞いていた。
どれほど時間が経ったのだろうか。最近ではもう自分のまわりは時が止まっているかのように感じるけれど、音楽を聞いているときだけはなんだか時が流れているような気がした。
それから毎日、僕は教会に通った。
ある日、K修道士という人が手招きをして座るようにうながした。
「あなたはいつも音楽を聴いていますね」
修道士は蓄音機を持ってきてくれて、好きなだけ聴いていくといいと言ってくれた。
知らぬ間に僕は泣いていた。
心が死んでいるのに、どうして涙が出るのだろう。
次の日も、僕は教会に行った。
K修道士はうれしそうに近づいてきて、僕の腕にそっと触って挨拶した。
ふたりは長いこと椅子に座って沈黙していた。
「……僕は自分がだれだかわからないのです」
僕が覚えているのは、あの日見捨ててしまった母子や老婆や少年たちだけ。それで頭がいっぱいだから、きっと名前を思い出せないのだ。
「覚えていることはなにもないのですか」
修道士に聞かれて、そう答えるはずが、思わずちがうことを言っていた。
「あなたは、あの日ここにいなかったでしょう」
「……ええ、いませんでした」
私はだれの役にも立ちませんでした、というと修道士はそのまま黙ってしまった。
また、ある日。
教会に行くと、K修道士は一冊の薄い大学ノートを持ってやってきた。
そこには、今オルガンを弾いている娘さんのあの日のことが書かれていた(そこで一話目の昭子だったことを読者は知ります)。あの当時、十三歳だった娘さんは今では十七歳になり、それまでの四年間は原爆症が出て入院していたらしい。抜けるように肌が白いのはそのためだったのかと、僕は思わず娘さんのほうを見た。娘さんは声も失くしてしまったらしい。話せなかった。
大学ノートを読んだその夕方、僕は修道院に連れて行かれた。
大きな木の扉の向こうから、茶色い目をした司祭が出てきた。自分はP神父だと名乗った。
「たくさん眠りなさい。たくさん食べなさい。そしてゆっくり思い出しなさい」
流暢だが一本調子な日本語で神父は言った。
P神父は、僕を小さな個室に案内した。粗末な寝台と小さな机があるきりのその部屋はひじょうに清潔で、僕の汚い身体を置くのがためらわれた。
修道院のなかでは人の気配はしたが、だれにも会うことはなかった。食事は部屋に届けられた。
僕は思い出せるかぎり詳細な地図を描こうとしてみた。
だが、描いてみたものの、わけのわからない怒りがこみ上げてきて、破って捨てた。
夜にはなかなか寝付けず、影が闇の中で寄り添っている気配がしていた。
自分には思い出すことなどできないと思った。
しかし、それを神父に告げると、K修道士からの手紙を読んでからあらためて考えてくれと言われてしまった。
手紙は長かった。修道士のあの日のことが書かれてあった。
あの日、修道士は腰を悪くしていた母の代理で法事に出かけて助かった。市内から数キロ離れたその場所からも目の眩むような閃光が見え、大きなキノコ雲が見え、すぐさま帰ろうとしたが親戚に止められ、翌日ようやく実家に帰ると母と下の妹は黒こげになり、上の妹は新型爆弾に吹き飛ばされて中洲の木に引っかかって見るも無残な姿で亡くなっていた。父親をとうの昔に亡くしていた修道士は、家族を全員亡くしひとりぼっちになった寂しさに打ちのめされつつも、考えるのは妹がどんな最期を迎えたのか、ひょっとしたらまだ息があったときに助けられたのではないかなどと思い悔やむが、理性がそれを打ち消す。自分は母の死を悼み、妹の死を嘆くことだけで精一杯で、そのほかのどんな悲惨にも傍観者でしかない。そんな自分があなたに思い出すことを強いるのは奇妙だと思われるでしょう。しかし、あなたはーー私とちがってーーあの日とてつもない苦しみや悲しみをだれかと深く、おそらくあまりにも深く分かち合ったために、自分がだれであるかを忘れ、名前さえなくしてしまったのではないかと、私には思われてならないのです。あなたが思い出せば、だれかの苦しみや悲しみもまたその人たちだけのものではなく、みんなのものとしてきっと記憶されていくでしょう。私のようなものでも、そのような記憶に支えられて、私だけの記憶を、いつの日か“私たちの記憶”として語ることができる日がくるかもしれません。
手紙を読み終わった僕は、あの日修道士に「あなたは、あの日ここにいなかったでしょう」と言ってしまったことを思い出して赤くなった。恥ずかしいのか腹を立てているのかはわからなかった。
その夕方、やってきたK修道士に向かって、僕が言いたいのはそんなことではなかったのに、思わず聞いていた。
「あなたは、それでもまだ神を信じているのですか」
彼はしばらく黙っていたが、やがて「わかりません」と答えた。
「私はそれがわからなくなって、ここにいるのだと思います。もしあの日起きたことになにか意味があるとしたら、ぜひ知りたいのです」
K修道士が行ってしまうと、僕はベッドに寝っ転がって目をつぶった。
そして、いつの間にか眠ってしまった。
夢には、今まで思い出せなかった記憶が浮かんでいた。
手紙を返すという口実でP神父に会いに行き、いつの間にか自分のことを話していた。影のことも話していたような気がする。
神父は「とてつもない悲劇にあっても、たくましく悲劇を乗り越えていける人たちもいます。われわれはそのたくましさに励まされたり勇気づけられたりします。しかし、乗り越えることができずに、心が死んでしまう人もいます。自分というものがすっかり壊れてしまうのが怖いので、あまりにも苦しいので、なにも見なかったことにして生きていくほかないような人たちが。……では、そんな人たちの苦しみには、なんの意味もないのでしょうか」
「その人たちから私たちが知ることは、一発の爆弾のすさまじい暴力です。その暴力がどれほど人間を貶め、苦しめ、最後には人でさえなくしてしまったか、ということです。生きのびた人たちもーー身体が生き残った人たちもーー本当に生き残ったとは言えない。人のかたちは残っていても心は死んでしまったのだということをーーそれほどの悲惨を、私たちはあなたやK修道士から知るでしょう」
神父はしかし、苦しいから思い出すのはおやめなさい、とは言わないのだった。
「僕にはできません」
P神父は、それには答えなかった。
かわりに、また抑揚のない日本語で僕に聞いた。
「石段の影を知っていますか?」
(ここで、二話目の光子の話を聞きます)
石段に残された影? 恐ろしい話だった。
けれど、石段の影は娘さんにしてみれば、最後の母の記憶だった。
僕を追う影たちにもーー僕が見捨てて逃げた人たちにも、そのように慕わしく愛おしい家族や友達が、きっといたにちがいない。
僕は横になって目をつぶった。
心がざわつきはじめた。
あの日、どうしても受け入れられない記憶を、思い出した。
僕は部屋にやってきたK修道士の顔を見た途端、見捨ててしまったと泣き喚いてしまった。子どものように泣きづつけてしまった。
「あなたには、どうすることもできなかった」
修道士は小さな声で繰り返した。
「だれにも、どうすることもできなかった」
翌日から僕は市内を歩き回った。あの面影を求めてひたすら歩いた。
いつの間にか、石造りの大きな建物の前に立っていた。
この隣には木造の建物もあったはずだった。
しかし、そこは空き地になってきれいに整地されていた。あたりもすっかり片づけられていて、あの日を思い出させるものはなにもなかった。
ただ、黒い焼け痕だけが、石の壁面にはっきりと残っていた。
この場所から、僕は逃げ出したのだった。
思い出した記憶を娘さんの両親に伝えると、まちがいなくうちの娘じゃと泣き出した。夫婦は小柄な身体をふたりで寄せ合うようにして娘の位牌を拝んだ。位牌の後ろには生真面目な表情のおさげの少女の写真があった。
やがてふりむくと、夫婦は何度も何度も僕に頭を下げた。
僕は身を縮めた。この人たちの娘を見捨てて逃げたのに、ふたりは僕にお礼を言おうとしているのだ。
「よう来てくださったなあ」
恋も知らぬまま死んでしまったけれど、こんなに長い間娘のことを考えてくれる人がいてありがたかった。あの子がどんなふうに死んだのか、そればかり考えて生きてきた。ほかにもあれがうちのこだったのではと言ってくれる人もいたけれど、本当に娘だと断定できるものではなかった。そう夫婦は話す。
「下敷きになって、もう自分は逃げられんと観念したあとは、助けてとは言わんかったと。人をはらう仕草をしておったと」
人をはらう仕草? その言葉が僕の記憶をゆすぶった。
「逃げて」と言った、小さいけれどもはっきりした声。
しかし、その目は、言葉とは裏腹に「助けて」と言っているようにも見えた。
生きながら焼かれている娘の目から、僕は目を離すことができなかった。僕はその場に凍りついた。
娘は目を見開くと、哀れむように僕を見た。だが、ふっと目をそらすと、そのあとは二度とこちらを見ようとしなかった。
「生きながら焼かれたとしても、最期まで人のことが思いやれたんであれば、あの子はこの世に生まれてきた意味がきっとあったんじゃ。死ぬときは地獄でも、今はよいところに行っておろう」
女学生が生きた十数年間に彼女が見せた千の顔、万の心、それがみんな、生き生きとした記憶となって、ちいさな仏間に立ち上がってきているような気がした。
まるで、今ここに、両親とともに、僕とともに、いるかのように。
その姿に、声をなくした娘さんが重なり、教会の絵が重なった。
娘さんの“記憶”を語る言葉。
伏せられているのに、やさしくこちらを見つめているような聖母のまなざし。
生きなさい、と告げているような天使の指先。
あのとき、女学生を見捨てて逃げ出した瞬間から、僕は僕でなくなりだれでもなくなり影と成り果てて、自分で自分を追い続けていたのだ。
そうして、僕の心が「逃げて」と言った彼女の言葉の高潔さをどうしても受け入れられずに、「助けて」とすりかえたのだ。そうすることで、さらに自分を貶めて安心したのだろう。しかし、逃げた自分、すりかえた自分が恐ろしくて、女学生のことも自分のことも忘れてしまったにちがいない。
小さな位牌とともに、肩を寄せ合う老夫婦の姿とともに、あの日の女学生の面影が鮮やかな輪郭をもって蘇ってくるのを、僕はしっかりと目に焼きつけた。
K修道士が外で待っていた。
僕が女学生の最期をはっきり思い出せたことを告げると、修道士はうなずいただけでなにも言わなかった。
それから僕たちは黙って川土手を歩いた。
「あの人たちが死に私たちが助かったことにどんな意味を見出せと、神が考えているのか、私にはどうしてもわからないのです」
自分に言い聞かせるように修道士は続けた。
「あなたでも私でもよかった。焼かれて死んだのも、鼻をもがれたのも、石に焼きつけられたのも。あなたでも、私でもあった。死ぬのはだれでもかまわなかった」
そのとおりだった。
「私にはいまだに、その答えがわからないのです。……だからこそ、あの日を記憶しておかなければと思うのです。あの日を知らない人たちが、私たちの記憶を自分のものとして分かち持てるように」
見上げると、あの朝ざっくりと割れた青い空が、川の上に素晴らしい大きさで広がっていた。屍でおおわれて水面さえ見えなかった川は、空の色を写してゆったりと流れていた。
「あの人たちのことを、覚えていなければ」
「ひとりひとりが、確かにここに生きていたことも。これ以上ないほど無意味な死を死んでいったことも」
僕たちは、また黙って川を見つめた。
八月の光が、あたりに満ちていた。
光のなかで、僕は僕の名前を思い出した。
いかがでしたでしょうか?
あの日落とされた原爆で何万人という人が犠牲になり、この物語の主人公たちのように生き残ったすべてのひとが何かを失い、傷つき、苦しみました。
私は「これ以上ないほど無意味な死を死んでいった」という言葉が印象的で忘れられません。
どんなに悲しんでも、どんなに思い出しても、その人はもう帰ってこない。
けれど、せめて生き残った自分たちがこの記憶を後世まで語り継がせることができれば、少しは自分ごととして記憶することができるかもしれない。
そう物語のなかでは語られますが、やはり経験者が亡くなってゼロになる日が近い昨今では、この本のように物語形式にして感情移入できるような形でなければ、あの日どんな人がどんな苦しみや悲しみを味わったか、伝わらないのではないかと思ってしまいます。
また同じ悲劇を繰り返さないために、この本はあるのだと思います。
胸が苦しくなるような状況はどうしても出てきますが、残虐な書き方はされていません。きれいな文章で、登場人物の愛やなんでもない日常が伝わってくるような書き方で物語は進んでいきます。
どうか、気後れせず読んでいただければと思います。
ひとりでも多くの子どもたちにも、この本が届きますように。
できれば戦争のこわさだけでなく、日常の尊さもセットで教えられたらいいなあと思います。
それでは、また
次の本でお会いしましょう〜!