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【プロローグ】「犬の看板」探訪記~関東編~|太田靖久

 嫌なことがあって気分が乱れたとしても、それさえできればある程度は気が休まるという習慣を多くのひとが持っているのではないか。
 甘いものを食べるとか、好きな曲を聴くとか、サウナに入るとか。それらは心身のバランスを保とうと試みるささやかな日常的工夫だろう。
 私の場合、「犬を見る」という行為がひとつそれにあたる。なにかしらの出来事により不愉快な気持ちを抱えたまま自宅の最寄り駅に着いたとき、少し遠回りして散歩中の犬に遭遇できないかと辺りを見渡す。どんな犬種でもかまわない。小型犬でも中型犬でも大型犬でも良い。犬が歩いていたり、座っていたり、電信柱の匂いを嗅いでいたりする場面を目撃できれば、不思議と疲れがとれ、いつもの気楽さを取り戻し、心が自由になる。
 ずいぶん手軽に思えるかもしれない。海外に旅行するとか、高価な宝石を買わないとどうにも楽しくならないひとから比べれば、たしかにそうだろう。まったくお金はかからないし、散歩中の犬はそこら中にいるから出会える確率も高い。
 様々な犬たちのたたずまいから感じとれるのは、日々の過ごし方や態度のようなものだ。私が快適に思うニュアンスと犬の在り方には共通するものがある。「犬が歩くように私も歩けば良いのだ」というシンプルな哲学は、どんな先人の金言より私を安らかにしてくれているのかもしれない。

 そんな風に犬を愛してきた私が、リアルな犬だけでなく、犬のイラストにも反応するようになったのはごく自然なことだろう。動物病院の看板やアニメのキャラクターとして犬がモチーフになっているケース等、町中で犬のイラストを見つけると、リアルな犬に遭遇したときと同様、愉快になる。
 そのなかでも「犬のフンを持ち帰りましょう」といった文言で美化啓発をうながす「犬の看板」は、全国の各市区町村に掲示されており、種類も豊富なため、たくさんの犬に出会うような興奮がある。
 最初に写真を撮ったのは2016年だったはずだ。九州旅行の際、太宰府市と記載された看板を見つけ、なにげなく写真に収めた。それをきっかけにして町で見かけるたびに反応するようになり、徐々に夢中になった。今では「犬の看板」目当てで遠征すらしている。
「犬の看板」は簡単に見つかるときもあれば、何時間歩き回っても見つからないときもある。そのさじ加減が絶妙なのだ。そうやって出会いを重ねるほどに意外なつながりが見えてきて、ただのコレクションだけにはとどまらない奥深さに気づくことができる。
 私は町を歩きながら、「ああ 日本のどこかに私を待ってる犬がいる」と、『いい日旅立ち』の歌詞を少し変えて小さく歌っている。「犬の看板」探訪がきっかけで初めて足を運んだ土地も多々あり、まさにディスカバー・ジャパンである。
 今まで撮りためてきた看板の写真は四百枚ほどだが、継続して新たな出会いも探し求めていくつもりだ。今回の連載では、私が実践してきた「犬の看板」探訪の魅力や楽しみ方を披露しつつ、そのドキュメントを伝えていきたい。
                                    太田靖久

著者:太田靖久(おおた・やすひさ)
小説家。2010年「ののの」で第42回新潮新人賞受賞。電子書籍『サマートリップ 他二編』(集英社)、著書『ののの』(書肆汽水域)、『犬たちの状態』(金川晋吾との共著/フィルムアート社)、『ふたりのアフタースクール』(友田とんとの共著/双子のライオン堂出版部)など。そのほか、文芸ZINE『ODD ZINE』の編集、様々な書店でのイベントや企画展示、「ブックマート川太郎」の屋号でオリジナルグッズ等の制作や出店も行っている。無類の犬好き。

編集部より
小説家の太田靖久さんのライフワークである「犬の看板」探訪。犬愛に溢れる太田さんの視点を交えた、新しいまち歩きの提案でもあります。

公開日時は毎月30日18時で、全12回の予定です。第一回目は5月30日18時を予定しております。どうぞご期待ください!


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