3月14日
鏡は必ず毎日見ているはずなのに、まじまじと自分の顔を観察することはあまりないから不思議だ。
顔っていうのは結構複雑で、いろんな要素を持ち合わせている。人間はみんな同じパーツでできているというのに、顔がそっくり!ということは双子でない限りあまりないことなので、それだけ多くの要素の組み合わせで「顔」が成り立っているということだ。
生きていると、自分の顔がガラッと変わることがあるので、人相というのは確かにある。
小学生の時に、友だちに口がへの字だよと言われて、「えっ!」と思って気を付けてからは、たぶん口角が上がっている。
同じく小学生の時に、苦手だった担任の先生から目に輝きがないと言われて腹立ってからは、目をひん剥いて生きてみた。たぶん先生は私に意地悪を言いたかっただけ。
中学生の時、トランペットの練習をやりすぎた時からわたしの唇は厚くなった。
高校生の時に病気をした時は、八の字眉毛になって、やっぱり顔色も悪かった。
大学生になってから、色んな事を学び経験して、ちょっとは賢そうな顔をしているだろうか?
私は今どんな状態なんだろう。
鏡をみて自分に問いかけてみても、いまいち分からない。
顔の哲学者といえば、レヴィナスである。
レヴィナスは、他者の顔と対峙することに関して以下のようなことを語っている。
他者と対峙する時、私たちは通常その肩書や出身、人柄やその年齢、その人の歴史などの文脈も意識することになる。
しかし、顔には文脈がなく、顔そのものに意味作用がある。
顔はその存在だけで「汝、殺すなかれ」(私を殺すな)と語っているという。
顔に関するこの倫理的感覚は、レヴィナスがホロコーストを生き延びた人物であることも関係している。
そんなレヴィナスの主張にもあるように、顔は目がある鼻がある口がある、というその機能以上のものを他者に対して、常に表象し続けているといえる。
私はどんな顔してるんだろう。
自分の顔というのは毎朝いくら眺めていたとしても、ふと、心に余裕があるときにしか見えないものなのかもしれない。
そんな3月14日。
エチカ