純粹なるもの
* 2021年の學科報に寄せた文章の改稿。アガる舊漢字・舊かな遣ひ。
いはゆる羽生世代
將棋界が盛り上がってゐる。將棋觀戰と蟄居生活との好相性や、棋士の個性に據るところも小さくないが、最大要因は藤井聡太二冠の活躍であろう。
このブームが到來するまでは、羽生善治九段を筆頭とする羽生世代が將棋界を牽引してゐた。題目は、四半世紀ほどに亙って (!!) 活躍を續けてゐる羽生世代の靑春を收めた島朗 (著)『純粋なるもの』に託けてゐる。
世俗の汚濁に對する清涼劑
「純粹」といふ語を選んだのは、某病原體や某運動會に關する騷動を通じて、不純なる者を見聞きし過ぎたからである。恫喝自慢の首相、詭辯に長けた知事、汚職疑惑にまみれた運動會々長など〳〵、步の方向ならぬ負の方向にばかり多士濟々。安冨歩 (著)『原発危機と「東大話法」』を讀んでゐる時に感じた憤りや脱力感が再來してゐる。
『純粋なるもの』は、そんな氣分を晴らすに良い。若者たちが將棋の論理的解明を目指して、友人でもある戰友と切磋琢磨する姿に心が洗はれる。
棋士に見る純粹さ
棋士は收入を勝敗に左右されるので、普通は勝率向上に力を注ぐのであるが、羽生世代は必ずしもさうではない。彼らが目指すものは目先の勝利でもなければ、從來言はれてゐた棋理や、「將棋の眞理」みたいに曖昧なものでもない。對局において度々實現する種々の局面を、當該局面以降の膨大な分岐も含めて、全て解明することを目指してゐるのである。その營みは凡人には苦行に映るが (相當數の棋士にも、らしい)、羽生世代はそこに樂しみを見出だし、突き進んでいく。
プロ將棋界は完全に男社會であり、『純粋なるもの』に登場する女性は棋士の戀人にほゞ限られる。この同性社會ぶりは奇異に映るやもしれない。將棋のやうな、生活必需性に乏しい遊技に、えゝ歲した大人が沒頭してゐる樣も、ともすれば滑稽であり、廣く共感を得るところではなからう。
それでも、棋士が人生の大半を投じて、將棋の論理的解明を追究する姿は純粹にして尊い。將來の見通しが立たず、無氣力に成ってしまった時や、雜事に追はれ、目標を見失ひつゝある時に再起動する契機と成らう。少なくとも、自分にとってはさうであった。
靜かな世界への憧れ
羽生世代のやうな求道者を硏究者に體現させれば、森博嗣 (著)『喜嶋先生の静かな世界』の喜嶋先生と成らうか。彼は羽生世代以上に純粹であり、私生活が殆んど存在しない。「マイ ウェイ」が歌へることから、流石に全くの世閒知らずではないらしいが、世の喧噪とは無緣の、書名のとほり靜かな世界に生きてゐる。
たゞし、硏究者は棋士以上に本分以外の仕事を求められるので、求道者のやうにはゐられない (日本においては特にさうか)。實際 (と言っても、創作中であるが)、喜嶋先生は純粹の保持と引き換へに、社會的には破綻してしまふ。同書の主人公に倣ひ、ぼち〴〵純粹でゐることが現實的か。