いつか易経を座右の書としたい
最近、自分のことを振り返りながら改めて「読書」について強い価値観があることに気がついた。
自分の中では当たり前の存在となっているが、よくよく振り返ると自分の知見ややる気、情熱と密接に「本」の存在があったことは間違いない。
そんな「読書」や「本」の存在を改めて見つめ直す中でふと自分の座右の書について考えてみた。
数だけで言えば漫画も含めて多くの本を読んできた。
Kindleにある本や漫画だけを数えても5000冊はある。
そんな中、良かった本はたくさんあるけど、座右の書ってなんだろうと考えてみると、ベタな「7つの習慣」が思い当たる。
もちろん「7つの習慣」は良書だし、実践し習慣化できた時の得られるものはとてつもなく大きなものがある。
なので座右の書は「7つの習慣」とまずは胸を張って言えるような自分になりたい。
ただ改めて本が好きなんだなという自分と向き合ってみるといつか世界最古の書物である「易経」が座右の書であるといってみたい自分がいる。
これはどちらかというと趣味の領域や自己満足の世界だと思うけど、そんな風に思うことでやる気になる自分を発見した。
世の中には新しいことに価値があるものと、古いものに価値があるものが存在する。
古いものに価値があるものの代表例の一つが本ではないだろうか。
何年も、何十年も何百年もの間、廃れることなく支持され続けて来た本質であることを時間が証明してくれているという考え方だ。
いくつもの説があり真実は定かではないものの5000年前にその原点があると言われる「易経」は間違いなく世界最古の書物の一つではあると言える。
新しいものにも価値があるし(陽)、古いからこそ価値がある(陰)という考え方自体も易の哲学として読み取ることができる。
易自体は世の中全ては陰と陽でできているというとてもシンプルな考え方である。
一方で世の中をシンプルな陰と陽で捉える視点は解釈が人それぞれ分かれる。
易経も読む人によって解釈が違う。
易の研究者の間でも見解が異なることが多々ある。
昔は答えが一つ論理的に導き出せるものが全てでそれ以外のものは価値がないと考えていたし、興味がわかなかった。
なぜ英語の表記はローマ字のような規則性がないのかとイライラしたものだ。
今は、読む人によって解釈が異なることが面白いと思える。
まだまだ易経は学び始めたばかりで難解なことばかりだけど、だからこそいつか座右の書は易経だとドヤ顔で言ってみたいw
そのためにもまずは「7つの習慣」を座右の書として自分の在り方をしっかりと身につけよう。