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「哲学とは何か」から「哲学するとはどのようなことか」へ
学ぶことは本来的に好奇心に基づいているという一般的な学びの理解は、学ぶことが自らの問いに学問的に向き合うことなのだということを意味している。たとえば現象学を学ぶことは、自らの問いのうちを現象学的に動くということになるだろう。学ぶ態度、つまりそうした問いが学ぶことを規定しているのである。こうして、その問いの立て方が適切かどうかということはとても切実な問題としてたち現れてくる。
以下では、われわれの哲学の学びを根本的に動機づける問いとしての「哲学とは何か」という問いを議論することになる。最初にまず、哲学と言っても学問としての哲学は様々なヴァリエーションがあるため、僕の哲学的態度の表明として、現象学のーーきわめて簡素ではあるがーー説明をする。次に「~とは何か」という問いの形式を俎上に載せてそれがものを問う形式であることを、そして哲学がものではなく存在の仕方であることを明らかにする。そこから、「哲学とは何か」ではなく「哲学するとはどのようなことか」という問いこそが根本的な動機づけの問いである、という最終的な結論が示されるであろう。
「事象そのものへ!」
現象学は20世紀初頭フッサールにはじまり、ハイデガーやメルロ=ポンティらへと受け継がれて発展してきた現代哲学の一潮流である。すなわち現象学は、古典哲学でありながらコンテンポラリーな哲学でもある。そしてそれは、現象、事象についての学であると同時に、何よりもまずそれに迫るための方法論とされる。「事象そのものへ!(Zu den Sachen selbst!)」という研究格率はそれを端的に表しているのである。われわれがものや他者と、あるいは自らとかかわりあうその仕方ーーそれが日常的なレヴェルであれ、学問的なレヴェルであれーーを探求することによって、現象学はメタ生活的、メタ学問的な性格を獲得している、少なくともそうあろうとする。
現象学にならえば、問いが志向しているものそのものに即して、そして問うことそれ自体に即して、「哲学とは何か」という問いを議論しなければならない。
「~とは何か」という問い
それでは、「~とは何か」という問いの形式がどのような問いなのかについて考えることから始めよう。「~とは何か」とはすなわち「~とはどのようなものか」であり、あるものがどのような規定をもつのかを問う問いである。この問いはりんごのような実在的に存在するものに対して用いることもできるし、三角形のような現実には見いだされないようなものに対しても(真正な三角形を見た人はいない)、フロギストンのような昔は信じられていたけれど今はその存在が否定されているものに対しても、あるいはシャーロック・ホームズのような架空のものに対しても用いることができる。
「もの」と言われると、通俗的にはりんごのように一定の時空間を占めるものだけがイメージされがちである。けれども、そのような仕方で存在するものだけが「もの」とよばれるのではない。例にあげたように、三角形やホームズもやはりものである(「ホームズがものである」という言明には違和感を感じるかもしれないが、それは「ホームズとは人である」というホームズの内部規定をわれわれがすでに共有しているからである)。三角形もホームズも存在するものだからこそ、問うことができるのである。「もの」はこうしたより大きな意味で理解されなければならない。言い換えれば、時空間を一定量占めるという存在の仕方のみがものが存在することなのではなく、さらに多様な存在の仕方があるのだと理解しなければならないということである。
議論をさらに広げてみよう。「〜とは何か」という問いでわれわれが問えるのがものだということは少なくとも間違いではないだろう。けれども、ものだけがこの問いで問われるのだと確定したわけではない。もの以外をこの問いで問うことができるのだろうか。
「もの以外」ということばが含みうるものの一つは「存在」である。先ほど「存在するものだからこそ、問うことができる」という説明をした。「もの」とは「存在するもの」であって、存在はものがまさにものとしてあるための前提である。したがって、ものと存在は明らかに区別されなければならない。存在するものとはどこか異なった存在を「存在とは何か」と問うことができるのかどうか、これが問われなければならない。
「存在とは何か」に対する答えは「存在とは~である」というものになる。この「~である」という表現はすでに存在の措定を含んでいる。つまり、その意味するところを言語表現に引き出せば、「存在とは~という規定をもって存在する」ということになる。ところが確認したように、存在とは存在するものではないのだから、存在を「〜とは何か」という問いで問うことはどこか間違いっていることになるだろう。
日本語だと少しわかりにくいのでドイツ語で考えてみよう。「~とは何か」はドイツ語で「Was ist …?」となるが、この「ist」はまさにsein動詞(英語のbe動詞)であり、すなわち存在動詞である(日本語の「~とは何か」という問いは厳密には「~とは何で”ある”か」なのである)。問われるそれの存在がすでに問いのうちで措定されているのである。だから存在するものに対しては、「Was ist das Seiende? 」「Das ist ...」というように、このの問いの形式で適切に問うことができる。
一方、「Was ist Sein?」という問いが期待する回答は、「Sein ist …」となる。これは「Das Apfel ist Apfel」という言明とはわけが違う。これも確かに同語反復の一種であるが、その存在するものはりんごであり、それはりんごという規定を持って存在しているという意味であり、それは全く正しいので少なくとも理解可能な言明である。それに対して、「Sein ist ...」という言明は意味不明である。なぜなら、この言明は「Das Apfel ist ...」と同様の形式であって、存在するものの存在の存在、つまり存在*を措定している。そうすると、「存在とは何か」という問いは存在するものの存在を問うものだから、sそれをいわば支えている存在*もまた問われなければならなくなる。そうすると、「存在*とは何か」と問うことになり、またしても存在*の存在**が措定され…というかたちで無限背進に陥ってしまう。したがって、「Was ist Sein?」という問いで存在を問うことはできないのである。
以上の議論から、「もの以外」が「存在」のみを意味する限りで、「~とは何か」という問いはものだけを問うことができることが示された。そうすると、「哲学とは何か」と問うことは哲学をものとして扱うという態度を含むことにーー少なくとも形式上はーーなるのだと言えよう。
哲学はわれわれに可能な存在の仕方である
しかし、哲学はものではない。われわれとは別に存在するものなどではない。哲学とはわれわれに可能な存在の仕方の一つなのである。「哲学とは何か」と問うことは、つまり哲学をわれわれとは別に存在するものとして扱ってしまっては、哲学それ自体の意味が零れ落ちてしまうことになる。それでは哲学がものではないなら、どのように問うことができるのだろうか。
まず、哲学がものではないとはどういうことから確認しよう。それはたとえば、超越論的主観性がなんだ生活世界がなんだ世界内存在がなんだ、と哲学の概念を覚えることが、知ることが哲学なのではないということである。哲学者の思索は著作や遺稿として、しかもそのうちで概念体系として、いわば「もの化」している。こうして残されているものが哲学とよばれることが現にあるけれども、それが哲学それ自体だということではまったくないと言いたいのである。もちろん、もの化したものをどうこうするのが意味ないとかそういったことを言いたいのではない(もの化したものを批判し精緻化するのが哲学研究であり、これは哲学に不可欠である)。
この説明は哲学それ自体についての部分的な答えを含んでいるように思われる。もの化される以前のそれに、つまり哲学者が思索することにこそ、哲学それ自体が見出されるのではないだろうか。哲学者が思索することは、寝ることや食べることと同じくどれも哲学者の存在の仕方である。哲学者の著作や遺稿は、彼ら彼女らが思索することによってできた「思索の跡」のようなものであって「思索する」こととは区別されなくてはならない。
「哲学者が思索することに哲学が見出される」という論点に対しては、さらに次の二つの点から検討を加える必要がある。すなわち、「何を思索することで哲学たりうるのか」と「思索するのが哲学者である場合にのみ、その思索することが哲学たりうるのかどうか」である。これを吟味することによって、僕が主張した「哲学がわれわれに可能な存在の仕方である」の意味が理解されるはずである。
しかしそもそも、「哲学をどのように問うことができるのか」という問いのなかにいる、つまり哲学への問いはまだ立てられていないし、ましてやその答えもまだ出ていない段階を動いているにもかかわらず、「何を思索するのが哲学なのか」という問いや、暫定的なものではあるが「哲学者が思索することが哲学だ」という所見がすでにあるというのは、循環した議論であるように思われる。
けれどもこれは、問いの条件に由来する全く正しい状態である。われわれは問う時点で、問われるそれをすでに多かれ少なかれ理解しているのである。「三角形とは何か」と問うときには、たとえばそれが少なくとも図形であるとか数学に関わるものであるとか、多少なりともすでに理解している。問われるそれについての理解が一切なければ、そもそも問うことはできないのである。
検討に戻ろう。哲学が何を思索するのかという問いは、それが哲学への実践的な問いに先行した問いである以上、包括的で一般的な答えを要求している。思索することはわれわれが存在する仕方の一つであるから、その思索するという存在の仕方は、存在一般にーー様々な存在の仕方の中核をなす根本的な存在の仕方にーー条件づけられているということになる。してみれば、思索することがどのように展開されようと最終的にその条件に行きつくことになるだろう。したがって、その包括的で一般的な答えは「哲学は思索することの条件を思索する」ということになる。そして極めて重要なことに、思索することの条件が思索のうちでしか見出されえないがために、思索することは自己へ立ちかえる(反省)という方法を要求するのである。
この帰結から、二つ目の検討事項の「思索するのが哲学者である場合にのみ、その思索することが哲学なのかどうか」の帰結もまた導かれる。まず、思索することは非哲学者であるわれわれに可能な存在の仕方でもある。よって、もし自己へ立ちかえることで思索することの条件について思索することがあれば、哲学者でなくてもその思索が哲学たりうることになる。思索することの条件は、思索すること”一般”のそれであることもあれば、”おのれが”思索することのそれであることも考えられる。後者はまさに自己の生に向き合うことでなされるのであって、誰もがしばしばすることである。しかもそれは、特別な知識を必ずしも必要としない(あったほうが明晰に、あるいは深くまで考えやすいだろうが)。したがって、非哲学者がおのれの生に向き合うことすべてが哲学だとは言わないが、それが哲学になることは十分考えられるのである。逆を言えば、哲学者の思索することがすべて哲学ではないということでもある。
以上「哲学者が思索することに哲学が見いだされる」という論点の検討から、われわれだれもが思索することの条件を思索すること、これに哲学が見いだされるという結論に到達した。そして思索することは、われわれの存在の仕方の一つなのであった。これが、「哲学とはわれわれに可能な存在の仕方の一つである」ということの意味である。
「哲学するとはどのようなことか」
全体の議論を踏まえれば、哲学とは端的に、"哲学する"ことというわれわれのある一つの存在の仕方なのである。したがって、存在の仕方というそれに対する適切な問いは次のようになるだろう。すなわち、「哲学するとはどのようなことか」。
この問いの哲学への態度は、哲学の概念体系やどの哲学者が何を言っていたかを知るということには決してとどまらない。この問いの態度は、自己の生に向き合い、その存在の仕方を吟味する態度である。そしてその問いはたいてい哲学してきた人たちとたがいにともに、あるいは抗しながらなされる。われわれは、「哲学とは何か」という問いではなく「哲学するとはどのようなことか」という問いをもってはじめて、哲学を学ぶことができるのである。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ヘッダーは現代哲学になじみ深いウィーンの写真です。シェーンブルン宮殿の丘から取りました。旅行楽しい。来月はロンドン行ってきます。