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今でもうずく、心の傷。

主宰する講座自分を生きるをはじめる「ひとのことアカデミー」応用・発展クラスの今月のテーマは《心の傷と癒しのプロセス》
そこで自分のことについて以下のように語った。

***
魂やら心やらを語る講座の講師である私(なのに)怒りが湧き、それを衝動的に表現する(してしまう)自分が怖くて、憎くて、嫌いだ。

そもそも怒りの感情があることはいいも悪いもない。
ただそこにある、というだけだ。

だけど、様々な本や動画で「怒り」を表現する人は未熟だと言っている。(言われているように感じる)

そういうものに触れるたびに私の胸の真ん中に斧が刺さるような痛さを感じていた。今でもこれを書いているとその痛みを感じる。

理想の私はどのような感情が芽生えたとしても、それに飲まれることなく、穏やかにそれらの感情を眺めている。そんな理想に程遠い自分が憎らしい。

感情をその振動のまま表現することで、周りを威嚇したり、脅かしたり、怖がらせたり、なんならそんな私を拒絶するのではないか、この場から人が逃げ出すのではないか、そんな不安や心配がやまなかった。が、来るもの拒まず去る者追わずとして、冷静さを失わないように努力していたんだと気づく。

そんな自分を丁寧に観察するようになったここ1~2か月。怒りの感情は特段減ることも増えることもなく、ある。
が、同時に本当の私の欲求(希望や期待)にも意識を向けるようになった。

例えば
仲間と運営しているコミュニティに興味を持つ人にこのコミュニティの説明をしたが、「何をやっているか分かりにくい」と言われたとき、胸がちくっとする。

(こんなに丁寧に伝えているのに「分からない」なんて、きっと私たちがやりたいことは誰にも理解されないようなことなんだろうな。世間では記事に取り上げられるようなコミュニティもあるのに、私たちだって価値のあることをしているのに、それを理解されないなんてムカつく!)

と思う。と書きたいところだが、これの何倍もムカムカイライラを口に出す。(パートナー博揮はいつも聞き役に徹している。※ありがたい)
博揮だけでは落ち着かない場合、コミュニティの仲間にグダグダ文句のように言うこともある。

一通り言い終わったあと、ここから神の声(ハイヤーセルフだな)が優しく私に語りかける。

(だけどさ、そうは言っても相手にも相手の価値観ってものがある。まずは相手が何を大切にしているのか、観てみようか。)
(相手はどんな思いや希望があるのか、推測してみようか)
(ならば、あっこ、そんな人と出会ったことにどんな意味があるのかな?)
(あっこができることで相手に協力するなら、どんな協力をする?創造してみようよ)

なんてやりとりしているうちに、愚痴ではなく希望が湧くんだ。
あーー、わたしあの人に〇〇って伝えたかったんだ、って。
※そんなことに気づくプロセスが最近はもはやコントのようで好きだ。

自分のことを知らないと、すぐに過去うまくいかなかったことに思考が引き寄せられ、その時感じていた感情に飲まれて、どんどんネガティブな渦にのまれていく。そして自分のエネルギーの周波数を下げ、周りのエネルギーの周波数も下げる。ネガティブな思考の人が一人でもいるとその場の雰囲気が悪くなるのはこのせい。

この場合、私は相手に理解されていないと感じる=共感が生まれない=孤立する=寂しいという方程式がなりたつ。

でも今の私は相手に理解されていないと感じる=思うように伝わらないのは私自身が気づいていない感情や思考がある=ワクワク(どんなことを望んでいるのか知りたい)という方程式になっている。

過去世から今世までつけてきた傷を癒すどころか、増やしたり、深めたりしていたな。自分の理解が深まり広がるほど、傷が明らかにはなるが、癒し方も分かるし、癒すスピードも速まっている。

何よりも自分の周りの傷もついでに癒される。

ま、講師っていう仕事が自分の価値を高めるものでもない。
だからまだまだ未熟であるが、率先してその未熟さを認め、希望や期待する自分になることが講師としての使命だと思う。

ならば、他にうずいている傷はないかな?っと自分の心を点検するのが楽しみになってきたよ。



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