子どもにさせたい体験ってなんだろう。
52歳になろうとする私はずっとずっとこの世の不思議を解明したくって、たくさんの「なぜ?」の答えが欲しくって生きている。
少しずつその答えのようなものにたどり着いては、また新たな「なぜ?」が生まれるが、もはやコントのようなこの人生も楽しめるようになった。
そしてふと湧いた問い。
子どもにさせたい体験ってなんだろう。
結婚し、子どもを持つまでは私のような子ども時代を送らないようにが(当時その自覚はないが)前提だった。だから、子どもの欲求を受け入れ、協力することはもちろん、制限のない関わりをしようと、子どもの話は100%心をひらいて聴こうと、そんな父や母に恵まれた幸せな子ども時代を過ごしたらいいやん、って思ってた。
でもさ、現実はそううまくもいかなくて、大らかに育てようと思ってもさ、子どもの個性ってものがあることをつい忘れてしまうわけ。長女はどちらかというととても自我が強く、何でもやってみなくては分からないタイプ。それなのに、私が彼女の試す機会を大いに奪っていたとは。気づいたのは長女が8歳くらいの時。
もちろん続いて長男、次男と誕生したが、子どもを大切に想う気持ちが空回りしたことは事実。過ぎ去ったものはどう後悔しても取り戻せない。だからこそ、4人目に誕生した三男とは子育てする自分を楽しんだよ。
そう、
子どもにさせたい体験って、自分が体験したかったことだからさ。
あの時できなかった恨みを晴らすかのごとく、あれもこれも本人の意思はともかくやらせていたな。(それが善かったこともあるだろうけど)
だからというわけで事業もまずは親たちが自分の人生の未消化な部分をやってしまおう!とあれやこれや提案し、子どもたちはそれにつき合っていたと思う。おかげで親たちは少しずつ本来の自分を取り戻し、子どもたちへとバトンが渡っていった。(と思うけど、どうかな?)
今日の私が強く願う《子どもにさせたい体験》はこれだ。
子どもっていうと何か未熟なものを感じさせるが、魂だったらものの見方や関わり方が変わるんじゃないかな?
話は変わるが、子どもにさせたい体験ってなんだろうってタイトルをつけたから、ふと過去を思い出してタイトルに合うだろう写真を探したよ。やらせでもないこの子どもたち(だけじゃなく大人たち)の豊かな表情にうっとりする。共時・共感・共有が3つ揃うとこんなにも美しい一瞬が得られる。
私もこの世で魂を磨いている子どものひとり。
私もこの体験をするために生まれてきたのだ。うん、今日もあちらこちらでお互いの魂を磨き合うべく協力し、その一瞬の美しさに触れる人がいると思うと嬉しいわ。