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「無理が出来なくなってきた」は 「身体が正直になってきた」ということ

食べることも、眠ることも、毎日繰り返していることなものだから、
ついついいつの間にか、テキトーになったりしてきてしまうが。

毎日繰り返すのは、その必要がある、つまり
「絶対的に必要なこと」だからなのである。

「当たり前になっていること」はだいたい
「とても大事なこと」だったりする場合も多い。


これらを蔑ろにしてはいけないと、
――そうなんです、最近、
老いてきた自分自身の身体が教えてくれるのですよ。(笑)

まだ(かろうじてだが)40代だというのに、
ちょっとした不調とか、
ちょっとした身体のごく一部分の痛みからですらも、
つくづくこれを思い出せたり思い知れたりするのよなー。

本当は結構、「弱い」、「脆い」、
で、「もっと気を付けて大切に使わなければいけない」、
自分の身体についてなー。

考えてみると、人間の身体なんてスマートフォン並みに脆いのである。

高い所から落とせば簡単に壊れるし、
水没させたら割とすぐ成仏してしまうし。
深部体温なんて、40度以上でもダメで、30度以下でもダメで、
……って、スマホ以上にデリケートではないか!(笑)

なんだか、高い梯子に上がっている時なんかに
「うっかりここから足を滑らせただけで…」と、ハッと我に返り、
それまで油断しきっていた自分にヒヤッとなったりしますが。
そんなふうに、何なんでしょう、基本「自分の身体の脆さ」を
平時には忘れるほう忘れるほうへと、精神って動くものなんですかねえ??
――まあ、確かに、
あんまり神経質になり過ぎて、絶えず恐怖・不安に苛まれていても、
それはそれで、今度は
心の健康が保てなくなってしまうかもしれませんしね。

いや、でも、「当たり前」って感覚ほど、怖いものはないとは思うのです。
つい「油断」「過信」のほうへと振れ過ぎる自分を、
意識していたいとは思う。

そして、(多少ガタはきはじめていますが、笑)
「今、普通に動けている身体」を、
「その普通がつくづくありがたい」と感じて
そんな「当たり前」こそ大事にしよう
と、あらためて思い直している日々です。


「無理が出来なくなってきた」というのは、
「身体が正直になってきた」ということなのかもしれませんね。

「自分の身体はもらいもの」という考え方には頷けるところがあって、
例えば、栄養や酸素や水分を、
分解したり吸収したり身体じゅうに行き渡らせたり…ってもう
身体の「内側」で起こっていることについては、
身体のほうで勝手にというか、自動的にというか、
つまり自分の身体であっても、
自分の意識でどうこうできているものではないわけじゃないですか。
言い換えれば、「とある生物の身体」に、
たまたま「自分」としてのっかっているから
「自分」もこうして存在していられるのだよねー、と。

そう考えると、自分の身体すら、自然界の一部のようにも思えるし、
そして、その自然界からのものを――水とか酸素とか栄養とかを、
自然界と同じように、自らの身体の中にも循環させ続けていないと、
生き続けてもいけないわけだし。

と、なると、「自分という人間の身体」も、
「自分の外側」にある他の動植物と実は変わらないし、
土とも水とも、何なら森とも川とも、更には海とも空とも、
繋がってその「一部分」なのであり。
――とか言っていると、
「スピリチュアルな話」とか「分類」されてしまうんだけど、
(って、別にそれはそれでかまわないんですけど、笑)、
いやいや、でもこれは、
心だの精神だの神だの霊だの精神だの魂だのの、その前、
「見えない世界」の手前の、「見える世界」のお話しだと思う。
「超自然」ではなく、
目の前に見えている現実の「自然」の話というか。
(――とはいえ、ちょっと話を大きくし過ぎた感はある。笑)

(なので、話を元のサイズに戻そう。)
いちばんすぐ手で触れられる、
何なら「自分の思い通りにできる唯一の自然」が、
すなわち、自分の身体なのだと私は思う。
だからこそ、「自分で」しっかり守らねばならないとも思うし、
しかしまた、繋がってこれも自然の流れの一部なら
大切に使って、最期は大切に還さんとね、とも思う。