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「これが依存症というやつなのだろうか」とふと自分で気づく

(前々回のこちらの記事の続きでもあるかも。)

例えば私は
「文章を書く」
というこの行為に、「依存」しているのかもしれない。


元々が極度の人見知りだから、「対人関係」をそこに要するものには(正直どんなに頑張っても元々根深く苦手意識もあるので)何事に於いても「心を完全に持っていかれる」ところまでは集中できないというか、のめり込めないというか。

例えば、「友人関係」然り、「恋愛関係」然り、である。

自分が言うなれば「執心」「熱狂」といえるくらいになる、その対象に出来得るのは、きっと「自分の内側方向を見つめる作業」しか、突きつめていくとなくて。
ちょうどそれが(幼少期から「読む」と「書く」は、ずっと好きなことだったということもあって)「文章を綴る」という行為にピタリと「ハマった」ということなのだろう。

――言い換えれば、
もし私という人間が、「交友関係」が充実し、たくさんとは言わずとも「気の置けない友人」みたいなものが何人もいて、または「超仲良し家族関係」なり「ずっと伴侶がいる」なりで、頻繁に絶え間なく誰か生身の人間と連絡を取り合っている……みたいなタイプだったなら?
あるいは、
望むと望まざるとに拘わらず否が応でも「生業とするほうの仕事」に、生活全体分くらいのエネルギーや集中力を日常的にもっていかれる状況に長らく(今現在も)いたなら?(条件の悪さと引き換えに「そういう事態に陥らない仕事」を今は「あえて選んでいる」というところもある。)

――独りきりで「没入」していく、こういった「ものを書く作業」というものに、ここまで「取り憑かれて」いただろうか?

と、考えると、その答えは「否」となる気もする。


実は今回の記事を書くきっかけになったのは、内田樹氏のこちらのインタビュー記事を目にしたところからなのであるが。

以下、引用部分は全てこの記事からのものです。

そんな兄は生涯、ギャンブル依存症でした。

※内田さんの兄・徹さんは、2016年に他界されている。


そんなお兄様のこちらのセリフ。

「勝ちたいというよりも、負けたら全財産がなくなる、身の破滅をもたらすかもしれないという勝負の時に、頭の中がキーンとする。そのヒリヒリ感が生きてるって実感がするんだよ」

(ま、「ヒリヒリ感」というものは元々そこまで求めていないにせよ)この「頭の中がキーン」という高揚感であるとか、あと「生きている実感」であるとか。
私にとってこれは「良い文章が書けた!」という瞬間に訪れるわけである。
で、これは、私にとって「他の何にも代えがたい」ものなのだ。
「これに代わるもの」――「文章を綴ることにまま当たるもの」は、いまだ私の中には何も存在していないし、生まれて此の方、存在したためしもまたない気がする。


――「キーン」と「生きている実感」とを求めて、私は多分、文章を書いているのである。


私は、自分で今更気づいたのだが、「文章を書くこと」に「依り」かかり過ぎている、と、思う。

「自分が自分であること」「生きるよすが」みたいなものを、何でもかんでも、ここに集約し過ぎている。
――これをもっと「軽く」「テキトーに」分散させていたほうがきっと、もっと、これまでの、人生を眺める「視野みたいなもの」は、きっと広がっていたのではないかと思うし。
そうなると、少なくとも「書くこと」について、こんなに全体重をかけて「寄りかかる」感じになってはどこか、「不自由になる」ような、「フィードバックが少なくなる」ような、そんな気も、今になってしてきたのである。


それでも。
これまでの私が、「書くこと」に対しここまで「のめりこめた」そのこと自体は、ある意味では幸運だったとも思ってはいる。


同じ記事で紹介されていた、河合隼雄先生のこの言葉にもまた、私はちょっと救われた。

心理学者の河合隼雄先生は、「人間はある意味では全員病人である」と述べています。病んだ部分も「その人が大切なことを表現するためのひとつの方法」である。そして「治るばかりが能じゃない」「生きることが大事なんだ」と。

自分からわざわざ表明するようなことでもないのだが、私は多分、「生きていくのがそんなに得意じゃないタイプの人間」だと思う。

もし、私のこの「書くことばかりに心が持っていかれる」ということが、ある種の「依存」であるとするなら、
私は、この「依存」にこそ、これまでかなり「救われてもいた」のだと思う。

――もし私に「書き綴る力」が何もなかったなら、もっと人生の早い段階で、一言で言うなら私は「ダメ」になっていた気さえする。
――そんな私みたいな人間が「それでもある程度はまともな社会人として長らく生活できている」のは、辿っていくと、「文章を綴っていく作業」が、かなりその助けになってきた、ということである。


だから、これまでの「書いてきた長い時間」について、後悔はまったくない。

が、
私もこのごろでは、かなり精神的に「太く」「タフ」にもなってきた。
(これもあるいは「書くこと」にそう育ててもらったところも大きい。)

だから、
生活時間、その使い方の「間口」を、ちょっとばかし広げてみてもいいのかもな?
――「時間の使い方のバリエーションをもっと増やす」とか、「興味の対象をズラす」とか――そういうのを「意識的に」やってみてもいいのかもな??


あるいは。

「どうせ書くなら、読んだ方が喜んでくれるものとか、何かしら他人様に面白がってもらえるものを書きたい。」
(そこを目指すこと自体を、もっと能動的に積極的にしながら書く、ということ。)

――そう、「自分が書く文章なんて自己満足だもーん、いいもーん。」じゃなくてね!(笑)
ちょっとそうした気分の変化も、ここにきて出てきているのかもしれない。


それならば。
これまでと同じ「書き方」「書く姿勢」を続けていてもな?

と、この2024年の年の瀬に、ちょっと思い始めたりもしている次第なのである。