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システム・ロボット・歯車

こちらの記事では、あまりそこに説明を付け加えずに一言だけ、私はこんなことを書いた。

(「人間」ではなく、「システム」や「ロボット」や「歯車」に、させたい・なりたいという人がそれなりの数いるのも承知しているけれど。)

「させたい」のほうは、解しやすいと思う。

たとえば、「床掃除をしてもらおう」と思った時に、(細かいこだわりとかクオリティーを問わなければ、つまりすべてのことを「ただの作業」とみなすなら、)「人」と、「お掃除ロボットのルンバ」とだったら、どちらがより頼みやすいか、動かしやすいか。

つまり、「させたい」と考える方々は、より「使い勝手よく」したいわけである。――「人」を、である。
(で、やることなすこと「すべて」を、「ただの作業」化しても別にかまわない、と、こういうことでもあるのかもしれない。)


対して、「なりたい」のほうは、少し解りにくかったかもしれない。――そんな人はいるわけない、と、思われた方も、もしかしたらいるだろうか。

しかし、我々自身、その多くが、多少なりとも、「社会」のそのシステムの一部となり、ロボット化され、歯車として動いている部分も、既にあるのではないだろうか。(そこのあたりは無意識になっている方が多いかもしれないが。)
で、その度合いが濃くなればなるほど、いちいち自分で「考える」必要は、よりなくなっていくのである。――それは「情報を集め、選択肢から選び、あるいは迷い判断する」そして「意志を持つ」という必要がなくなることである。――それらには、それなりの時間と手間と気力が要されもする、それがなくなる、ということである。

つまり、「人」でなくなったほうが、「面倒がなくなってラクだし迷わないし簡単だしプログラム通りで短期的に一見安定」、なのである。
あるいは特に「弱っている方々」には、もしかするとこれは「うってつけ」な場合もあるものなのかもしれない。

――が、しかしである。
「生きるということが、こういうやり方によって、簡単で迷わなくってラクになる」は即ち、「生きていない」に近づくことでもある。



「人」なのに?
「人として生きるということ」を、そんなに簡単でラクなものにして(されて)、あれ?それは本当に大丈夫なのだろうか?
と、いうことを、私はこの頃ふと思うのである。

もしかしてそれは、「人として生きる」からこその、面倒であり、悩みであり、迷いであり、そして時には苦しみであり。
無論、「よくよく考えてみると(つまり「考える」はやはりここでも自ずとセットになって付いてはきてしまうのだが)あきらかに不必要」な、面倒、悩み、迷い、そして苦しみだったならば、それはいらないと私も思うのだが。
しかし、最低限「そこにあるべきもの」まで、「それもちゃっちゃと簡略化できない?」と、やっつけてしまおうとしてはいないだろうか?と、私は最近感じている、と、こういう次第なのである。


早い話が。

本当に、システムに完全に組み込まれ、ロボットや歯車になることが、その人の「本望」であるならば、私は止めない。
で、そういう望み方をする人のほうが、例えばこの国では多数派である、ということならば、私はもうこれ以上他人様に何も申すまい。
(――「でも本当にそうですか?」と、今これを読んでいる皆様に私はここで問うているわけなのであるが。)

「システム」や「ロボット」や「歯車」は、意思や考えを持たない。
たぶん、人をそれらに「させたい」人々は、「自分の意思など邪魔だ。そんなものは捨てて、私達に差し出せ」と言うだろう。

私は、そんなのは御免被りたい。
私は、迷っても悩んでもいいから、自分で探したいし、そして自分で考えたい。
――「必要な苦しみ」は、そうか、きっとあるのだ、と、気づいたからだ。

私は、それを携えて、「一人の人として」生きていくつもりである。