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20年前の寝屋川事件について
この記事にはショッキングな描写・人が亡くなる描写が含まれます。ご注意ください。
2005年2月14日、通っていた小学校で殺傷事件があった。あれから20年経つにあたって、関連の本を読み、そのまとめと考えたことについての記録。
事件のあらまし
わたしの記憶
当時、わたしは小学1年生だった。
お昼で授業が終わって家に帰ってくると、しばらくして外がうるさくなってきた。時計を見ると午後2時半。うるさいと感じていたのは何台ものヘリコプターの音だった。
親が仕事先から帰ってきて、テレビを点けた。見覚えのある学校を空撮している映像が目に飛び込んできた。
大阪府寝屋川市立中央小学校。わたしの通う小学校の校庭に、まだその時間授業がある高学年の児童が整列している様子が映っていた。
何かあったんだな、とぼんやり思った。
その日の夜には、人が学校に入り込んで何人かの先生を傷つけたこと、担任の先生もお腹を刺されてしまっていたことがわかった。
次の日から家庭訪問が行われ、わたしの家にも担任ではない別の先生が訪問に来た。数日後には授業が再開して、また、数ヶ月後には担任の先生も戻ってきて、もとの日常に戻った。クラスメイトもさほど変わった様子はなかった。
わたしにとっては、大したことのない記憶だった。しかし、学校のなかで殺人事件が起こったことは世間に大きな影響を与え、様々な変革が行われたようだった。
20年後知ったこと
事件から十数年経ったある日、この事件のことについてふと調べてみた。すると、この事件の経緯が1冊の本として出されていることがわかった。
岩波現代文庫『十七歳の自閉症裁判 寝屋川事件の遺したもの』佐藤幹夫著。これを読んで初めて、わたしは当時起こったことの詳細、犯人の人となり、その裁判の行く末を知った。
ここからはほとんどこの本の抜粋・要約となる。
詳細な経緯
のちに事件を起こすのは当時17歳の少年だった。
少年は広汎性発達障害を持っていた。うたた寝をしていると、価値観がすべて崩れていくような“うつろな気分”に襲われた。姉から前日プレゼントされたバレンタインのチョコレートを食べているとき、「S先生、刺す」「刺す、包丁」「包丁、K(ホームセンター)」という言葉が頭から離れなくなったという。
ホームセンターに行き包丁を2本購入し、バスの中で抜き身にした。
14時頃、学校のインターホンを鳴らした。「卒業生の〇〇と申しますが、S先生はいらっしゃいますか」
インターホンに出た栄養士の先生は、「今授業中で、終わったあとは出張だから、今日は会えないと思う」と答えた。
少年は隣のうどん屋へ入り、待つことにした。「もう少し待てば会えるかもしれない」と考えたという。
インスタントコーヒーを頼み、文庫本、タバコとともに1時間ほど滞在した。
うどん屋を出たあと、少年は学校の南門へ向かった。
校舎に入り、職員室を探して向かっていると男性教諭に呼び止められた。少しの会話の後、「こちらへ来てください」と歩き始めた男性教諭を、少年は背後から包丁で刺した。
包丁を持ったまま職員室へ向かい、もう2人を続けて刺した。
15時20分、警察署員が到着、取り押さえた。
被害とその後の対策
少年が最初に刺した男性教諭はその日のうちに亡くなったことが確認された。その後刺された2名も重傷を負った。
府教育委員会は事件1時間後に対策本部を設置、5名を派遣。授業再開は4日後の2月18日からとし、家庭訪問が行われた。集団登下校、保護者による付き添いなどが実施された。また、部外者の入校は卒業生であっても厳しく制限された。
市立小中学校には防犯カメラ、オートロックなどが設置され、4月からは警備員が派遣されることとなった。
裁判について
少年の発達障害について
弁護士の初回接見の際、少年は一見ごく普通の受け答えをし、聞かれたことには正直に答えた。
「どうして刺してしまったのか」という質問には「分からない」と答えた。
初公判で、少年は「謝罪の気持ちが湧いてこない」ということを素直に伝えた。嘘や世辞を使わずに淡々と話す少年は、広汎性発達障害という障害を端的に態度で表した。
鑑定を行った医師によって、広汎性発達障害の持つ生来的な特徴として、社会的感覚が内在化されていないことなどが挙げられ、その特徴が精神鑑定にもジレンマを与えた。
責任能力を判定するものとして「心神喪失」や「心神耗弱」という言葉が使用されるが、それらにはあたらない。しかし、大きな事態を招くという想像力やその事態を避けようとする意図が乏しいことから、そのまま実行に移してしまったのである。
処遇についての議論
少年がどういった処遇を与えられれば社会は安全を維持できるのか、また少年のよりよい社会復帰が可能なのかが議論された。
(当時のことなので現在はどうなっているかわからないが備忘録として:)少年刑務所はあくまでも刑罰を課す場所であり、決まった作業を行う。少年にとっては楽な生活だが、社会復帰に役立つのかは謎である。少年院は矯正教育機関であり、たえず自分が何をしたのか、そのことにどう感じるのかを問われることになる。社会的制裁としては保護処分(少年院)のほうが軽いが、むしろ少年にとっては少年院のほうが辛いことになるだろう、と著者は解説している。
それぞれの主張
遺族と被害者は、被告人が自分の処遇を選ぶことなど許されない(できるだけ重い刑罰を与えてほしい)と訴えた。
検察官は、刑事事件の本質である、行為と結果(つまり障害に関係なく、殺傷事件を起こしたということ自体)を正当に評価すべきであると主張した。
弁護人は、再犯の防止がきわめて重要であり、少年院でなければ治療機会を失することになると主張した。
判決
初審判決は懲役12年。「本件は、犯行態様の悪質性、結果の重大性に照らし、(中略)被告人の資質等を併せ考慮しても、(中略)本件の悪質性を減じる特段の事情はなく、もはや保護処分の域を超え、刑事処分によるべきである」との判決文が言い渡された。
その後、検察・弁護側ともに控訴し、2007年10月25日、大阪高裁が懲役15年を言い渡した。
保護処分、つまり少年院による矯正教育ではなく刑事処分が決まったというこの裁判から、著者は、裁判所が厳密な法解釈とその運用を貫く方針を持っているという解釈をした。
それから20年が経って
この本を読んでいて、自分の発達障害当事者としての気持ち、当時のどうやら衝撃的なことが起こっているらしいという気持ち、それがこれだけ凄惨な事件だったのかという気持ち、様々なものが入り交じって複雑な気分になった。
20年前は少年院にしか障害への対応は期待されなかったが、今はどうなのだろうとも考えた。
また、被害者や遺族の「過去に被告がしたことに刑罰を」という気持ちと、弁護人の「再犯を防ぎ未来の社会を安全にする」という意図との間にズレを感じて苦しくもなった。
こういった裁判を経て、社会はだんだん良くなっていくのだと、そう信じたいと思う。
当時7歳だったわたしは忘れていないという気持ちを込めて、簡単ではあるけれど、ここに事件のことや本の内容を記す。