家守奇譚(いえもりきたん)とヴェールの向こう側
梨木果歩さんの小説・家守奇譚(いえもりきたん)を
改めて読んだ。
庭に咲く花を話しのきっかけに、
水の事故で向こうの世界に渡ってしまった青年と
その友人との間で、
二つの世界の間(あわい)を通して
不思議な物語が語られる。
この世界の裏側にある見えない世界と
その世界を回復することの豊穣さを
陰影礼賛するように
あじわった。
この世界の向こう岸に渡った青年が
飼いたかった犬のゴロウ。
この世界に残った友人のセイシロウ。
はからずも
大切な子供を亡くした私の友の琴線に触れそうな
偶然の一致におもわず『はっ』としながら
いつしか、彼女がこんな風に
二つの世界の間(あわい)を超えて
大切な息子と再び思いを交し合う日が来ることを
祈らずにはいられない。
小説・家守奇譚がやってきた
日本を離れて暮らしているので、
日本語で印刷された本は、なかなか手に入らない。
そんなところへ、知人が『この本、あなたが好きそうだから』と
ひょっこり持ってきてくれた。
梨木果歩さん作の『家守奇譚(いえもりきたん)』。
作家を目指す主人公の綿貫征四郎が
水の事故で早世した友人の実家に
『家守』として住みながら、
目に見えぬ世界の向こうからやってくる
存在と体験する不思議な話の数々だ。
中でも冒頭、
亡くなった友人が
嵐の日に、
家の掛け軸の向こうから
自ら遭難したはずのボートを漕いでやってくるシーンはいい。
ーどうした高堂。
逝ってしまったのではなかったのか。
ーなに、雨に紛れて漕いできたのだ。
高堂は、こともなげに云う。
そして、家守をしている庭のサルスベリが、家守をしている
主人公の征四郎に恋をしていると、忠告するのである。
初めての邂逅は、
このことを話すと、
あっさりとまた向こうの世界へと還ってしまう。
主人公の征四郎の住むこの家の近くには
疎水が流れ
ヌラリとした河童の抜け殻が見つかったり
山で出会ったはずの和尚がタヌキであったり。
敦賀に抜ける街道筋の神社での風鎮めの祭りの日には
ふさぎの虫が出て、人に取り憑いたり。
紅葉の時期には
向こう側の世界で
竜田姫の一行が出かける渡りがあり。
猿や鮎の背に乗って、わたりに同行した侍女の化身が現れたり。
人間の生きるこの世界の上に
幾重にも違う世界がヴェールとなって
怨念も、人の悲喜こもごもも
異界のものたちの営みも
重なり合って存在し合っている様子は
京都を思い起こさせる。
実際、文中で主人公が吉田山に出かけたり
思いに行き詰まると
疎水を歩く場面の多いことから、
琵琶湖の豊かな水が疎水を伝って
四季折々を通して絶えず流れる
京都の哲学の道も思い出させてくれる。
ふと油断していると
道のわきから物の怪と異界が開けるような
古都のまた裏側の顔も、
そして人間だけではなく
見えない世界の者たちの栄枯盛衰も
そこにギューッとこもったような土地のエネルギーも
なんだか似ている。
水底の世界ーこの世界の向こう側には
主人公の征四郎は、なくなった友人の高堂に
『お前のいた湖の底を書いてみたいと思うのだが』と尋ねる。
すると、
ーそれはやはり自分の目で見るのが一番だろう。
ーそれができるのか?
ーおまえの覚悟次第だ。
そして、雨が次第に激しくない、家の中がくらくなって
この世界と向こう側の世界の間(あわい)が近づいた時に
ふと高堂がいうのだ。
ー止めておこうか。
湖にはあらゆる方向からの地下水脈が流れ込んでいる。
その底は、また次元が違うのだ。時間というものの観念が違う。
意識のありようで、お前と俺とでは同じものを見るとは限らない。
その時が来れば見えるようにもなるだろう。
人間が肉体を離れた後に、何を体験するのだろうか?
肉体の記憶が最後に冷たい水の中での記憶であったならば
ことさらに、残された者たちは、
「寒くはないだろうか」
「息が苦しくはないだろうか」
「一人で寂しくはないだろうか」と思い悩むのではなかろうか。
「湖にはあらゆる地下水脈が流れ込んでいる
その底は、また次元が違うのだ」
見送った側の人間は、喜怒哀楽という人間の次元で
先だった人が見たであろう
水底の世界を想う。
しかし、
先に世界の向こう側にたどり着いた人が
二つの世界の間(あわい)で体験したものは
幾層の次元でも、出来事が重なり合って
違う世界を体験しているのだと示唆している。
肉体は耐えられない痛みを体験しているはずの
臨死体験者が口をそろえて語るのは
とても言葉などでは言い表せない
圧倒的な満たされた感覚。
愛というのか、完全な許しというのか。
『科学』的な説明に根拠を求めれば
脳内ホルモンが分泌されて
肉体的な痛みを圧倒的に凌駕する
幸福感が押し寄せるのだという。
しかし、
あえて間(あわい)を体験して
再び呻吟のこの世界に戻ってきた人たちの
人生の意味の変容ぶりに触れる時
向こう側の世界は圧倒的に確な世界として
あるのだと感じさせられる。
そして、
その世界の広がりに比べると
私たちが人間世界の次元で思い煩う
心配や恐怖は、
人間の体験として尊くありつつも
一つの次元に過ぎないのだと感じるのだ。
自分の内側の鏡としての向こう側の世界
亡くなった友人の高堂に頼んで
向こう側の世界を垣間見ることに失敗した主人公は、
後日不思議な夢を見る。
高尚な趣味人と思しき楽隊の一行が、
季節違いの様々な果物や葡萄、そして美酒に杯を傾けながら
物憂げに集う広場に犬のゴローを探して紛れ込む。
そして、主人公の征四郎は
『ここは入り口で、さらに奥に行けば雲の沸き立つ山並みや
精霊の住む宮殿があり、心穏やかに美しい景色だけを眺めて暮らせる』
と言われ、葡萄を食べることを勧められるのである。
思わず引き込まれて
差し出された葡萄を食べそうになる主人公だが
『正直いってなぜ葡萄を取る気にならなかったのか、分からなかった。
日がな一日、憂いなくいられるというのは、理想の生活ではないか。
だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。
私は、与えられる理想より、
刻苦して自力でつかむ理想を求めているのだ。
こういう生活は私の精神を養わない。』と
その世界へとどまることを辞退する。
そして、夢の中で葡萄を見ながら
まるでここは、水底の世界のようではないかと気づいて
主人公は、現実の世界へと戻ってきたのである。
夢から覚めた主人公に
亡くなった友人の高堂が訪れ
ー行ってみれば、何ということはなかったろう。
とつぶやいて終わる。
水底の世界であれ
天上の世界であれ
人が肉体を脱いだ先にさまようのは物理空間ではない。
肉体を持った人間の生きるこの世界の先に
どのような向こう側に広がる世界を
見るかは、
作者の言葉を借りれば
『意識のありようで、俺とお前とでも同じものを見るとは限らない』
のである。
さらにその世界は、
これまでに数々の宗教が描いてきたような
一辺倒なものでもなければ
勧善懲悪的な善し悪しの世界でもないだろう。
生前そのままの気軽さで
まるで昨日別れたかのような気軽さで
旧友をたびたび訪れる亡くなった高堂。
皮肉屋な高堂が、
生真面目な主人公の性格をからかいながらも
違いゆえに互いに互いに馬が合う二人の邂逅。
この世と掛け軸の向こうに象徴される
彼岸との間で、繰り返される様子は
亡くなった存在と対話することに
妙に肩肘を張ってしまう私たちの肩をふと緩めてくれる。
小説としての『家守奇譚』は、『100年と少し前の物語』
と帯にうたわれ、
だからこそこの邂逅があったような体となっている。
しかし、今だって、
私たちの精神という心の装置は十分にその装置を備えている。
少し柔らかく柔軟体操をすれば
軽々とその敷居を超えて
二つの世界の間(あわい)にたどり着き
自由に行き来をできるようになる。
そのための、この本の到来だったような気もするのだ。
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