エポケー、あるいは判断留保の姿勢
「侘しい」という言葉がある。
侘しいという言葉を知っている者にとっては、侘しいという言葉以外では表しえない感情や情緒がそこにはあるが、別の言語文化を母語とする人に、これを伝えるのは至難の業だ。
たとえば、真夏の今はこんな実験に凝っているのだけれど、
お昼ごろ、かんかん照りの太陽の下にその人を連れていき、手のひらサイズの白い石を置く。
石はきらきらとまぶしく光をはじきかえしながら、明暗のはっきりとした濃い影をつくる。
う~ん、夏だ。
それからなんなりと時間を過ごし、太陽がかたむいて、だいぶ西日になった頃、ふたたび石の元に連れていく。
石は、ぼうっと霞んだようにそこに佇み、影を長く伸ばしている。
影は淡く、柔らかく、暗く、優しい。
できればここで、用意しておいた「蜩(ひぐらし)の鳴き声」をYoutubeで流す。
で、「…侘しいね」という。
サリバン先生スタイルである。
たいてい、このやり方で、3人中2人は「ああ!」という。
もちろん、そのうち1人は、「なんのことだか、さっぱりわからない」と言う。
この比率もちょうどよいと思う。
こういう実験をしながら、言語が先か、実体が先か、というテーマをここ数日間考えている。
つまり、言葉があるからその情緒を獲得するのか、逆に言えば、言葉がなければ、獲得しえないのか。
ということで、やっと本題。
最近、言語教育の一環で、「エポケー」という言葉を学んだ。
古代ギリシャ語でέποχή。
(古代ギリシャ語の哲学用語。現代ギリシャ語で、εποχήはすでに意味を変え、「季節」や「時代」を指す言葉。実際の発音は「エポヒ」に近い。)
この古代ギリシャ語、日本語では「判断留保」の姿勢を指すらしい。
定義は「異文化において遭遇する諸現象について、自分の価値判断によって早急に判断するのではなく、意識的に一旦判断を停止すること」。
こんな素晴らしい概念が、古代ギリシャ語にあったことにまず、びっくりしている。
日本語では最近、「脊髄反射」や「ネガティブ・ケイパビリティ―」という言葉と関連させて耳にすることの増えた能力のひとつだと思うけれど、このエポケーの概念が、日本語の中で(例えば)「思いやり」とか「忍耐」レベルに言葉としての市民権をもって汎用されていれば、人々はもっと普通に「判断留保」の姿勢を獲得したり、日常行動で発揮できたのではないかな、と、エポケーの脆弱な私はぼうっと考えたりしている。
……違うのかな。