『スプートニクの恋人』を読んでいる横顔にキスをした夜。
新宿二丁目の酒は美味い。
私が同性愛者である事を隠さなくていい開放的な場所。隠し事をしないで飲む酒が一番美味いって決まっているんだ。
もう3年前の事だろうか。いつものように新宿二丁目で酒を浴び、毎週土曜に開催されている"ガールズオンリー"のクラブへガッツポーズをしながら入場した。毎週土曜の定番行事だ。
そこには、昼に何しているかわからないが、週末の、酔っただらしない顔だけ知っている仲間達がいる。いつものように彼女らに挨拶をして、ハイな気分を助走にして"声かけ"をした。
私は、壁に咲いた花のようになっている女性に声をかけた。
「お一人ですか?もし良ければお話しましょう。」
「友達と来てるんだけど友達どっか行っちゃってね。あんまり慣れてないんだよね、こういうとこ。」
「そうなんですか。そしたら一回出て、新宿の夜を散歩しませんか。」
相当退屈だったらしい。彼女は私のチープな誘いに応じ、新宿二丁目のある夜を見ず知らずの女と散歩する時間に捧げた。
新宿二丁目には公園がある。ゲイが相手を探す場(発展場)としても知られる公園だ。私と彼女はその公園へ行き、腰を下ろしてコンビニで買った酒を飲み交わした。
彼女は30代後半、昼は会社員をしていて、都内で一人暮らしをしているという。すると彼女は徐に立ち上がり、言った。
「疲れちゃったから帰るね。」
「もう終電無いんじゃないんですか。」
「タクシー。私の家、新宿から近いの。来る?」
行くに決まってた。大好きなんだ、終電後、深夜2時頃のタクシーで誰かの家に行くのが。何かが始まる前兆だから。
彼女の家は中野で、清潔なマンションの一室に住んでいた。
部屋はローズとムスクが混じったような妖艶な香りが充満していて、「食欲って食べ物の匂いでわくけど、性欲はこういう匂いで…」等と頭の中で独り言を走らせながら、彼女の部屋にあった本棚を眺めた。
「"スプートニクの恋人"って、友だちも読んでいたな。」
「読んだこと無いの?村上春樹の名作だよ。貸そうか?」
さっき会ったばかりの人間に「貸そうか?」なんて、今後の関係を約束するような言葉、言うかな…慣れているのか、警戒心が無いのか、それともこの本もういらないのか…。
そんな事を考えていると、彼女は『スプートニクの恋人』を手に取り、読みながらあらすじを簡単に説明してくれた。
あらすじの語りが上手く、つい読みたくなってしまった。
「"スプートニク"って、ソ連が打ち上げた人類初の人工衛星なんだよ。無人のね。この表紙にも書いてあるでしょ。こんな形してるの。」
「自分の事、スプートニクみたいだなって思う。女が好きで、でも結婚は出来なくてさ。結婚したかった人がいたけれど、この社会構造のせいでダメだった。"社会構造"によって孤独を彷徨っている自分がさ、"人類の野望"の為に軌道を孤独に彷徨うスプートニクに似ているなって、重ねちゃった。」
過去の悲恋を語る彼女の目が、ふっと弱さを纏った。ずっとクールなイメージを崩さなかった彼女の足元が揺らぐ。
私は本に目をやる彼女の横顔にキスをした。
彼女の弱さを見た瞬間に愛しくなってしまったのか、そもそもこのムスクの匂いで欲情しているのか、もはやわからなくなっていたが、彼女は本を置き、横顔へのキスを首筋へのキスとして返した。
朝、裸の彼女が横にいた。
グッスリ眠る彼女を横に、床に置かれたままの『スプートニクの恋人』を読んだ。
ああ、この人は、ミュウさんに似ているな。登場人物の中なら、って話だけれど。彷徨っている。孤独だ。セックスをしていてもずっと独りみたいだった。孤独だ。彷徨いながら抱かれていた。
彼女とはそれ以降、1年程定期的に会っては一緒に酒を飲んだり、身体を重ねたりしていたが、恋人にはならなかった。私達はすれ違い過ぎていた。お互いが衛星のように軌道上を彷徨っていて、何も本質を触れ合っていなかったように思う。